灰狼の一閃
灰狼流の伝承
灰狼に育てられた、一人の少年がいた。
狼の牙と闘志をその身に宿し、やがて人ならざる力を得たという。
彼はただ、武の道に立つために剣を握った。
責任を背負い、罪を刻む者――
その果てに至りしとき、人は灰影となる。
それこそが、灰狼流の極みと伝えられている。
――『セレストリア王国武芸志』
咆哮が、空を裂いた。
空気が震え、石畳が軋む。喉の奥から突き上げるその声は、ただの獣の鳴き声ではない。意思を帯びた支配の咆哮だった。
――怖い。
胸が掴まれたように苦しくて、足が凍りつく。
また、動けなくなるのか。
僕以外の誰も怯んでいなかった。
ロイス、リィナ、ヴァン、ノルド、ミリア――五人はきっと、父と共にこうした修羅場を何度も越えてきたのだろう。
迷いなく剣を抜き、槍を構え、盾を掲げる。その動きには、一瞬の淀みすらなかった。
そして、レオもまた違う形で責任を果たそうとしていた。
彼はただ一本の剣を握りしめ、僕とシアナの前に立つ。
守るべきものを見失わず、己の役目を選び取ったかのように。
「リィナ、数は!」
ロイスの声が飛ぶ。
「建物の中には……頭を含めて五体です!」
即答するリィナ。
「よし――ミリア! 結界を張れ、外からは入れさせるな!」
「はい!」
ミリアは盾を突き立て、剣を握ったまま低く詠唱を刻む。
瞬間、建物の枠に沿って光が走り、結界の膜が張られていった。
光が戦場を満たし、巨影の輪郭が浮かび上がる。
黒い鱗はその光を吸い込み、傷や裂け目があらわになった。
戦いの痕跡であるはずなのに、生々しい違和感を放っていた。
赤黒い双眸がぎらりと光り、視線が突き刺さる。
目を合わせた瞬間、背筋に冷たい刃を押し当てられたように呼吸が止まった。
ただの亜人ではない。
結界に照らされた今、その異様さは疑いようがなかった。
王の周囲には四体の魔物が整列し、護衛の兵のように壁を成していた。
王が、さらに咆哮を放つ。
轟音が結界にぶつかり、光が弾け散る。
「――これで増援はない!」
ノルドが声を張る。
「……長くは持ちませんよ!」
ミリアが低く告げ、盾を突き立てたまま結界を維持する。
僕は思わず周囲を見回す。
――ヴァンが、いない。
次の瞬間、王を護る魔物の一体が、崩れるように倒れ伏した。
「坊っちゃんに売り込むチャンスだからな!」
瓦礫の影から飛び出したヴァンが、血の滲む笑みを浮かべる。
だが、王の大剣が動いた。
三メートルを超える鉄塊が横薙ぎに振るわれ、ヴァンを襲う。
「――ッ!」
ヴァンは剣を振り上げ、必死に受け止めた。
金属が悲鳴を上げ、火花が散る。
衝撃は凄まじく、ヴァンの体が宙へと弾き飛ばされる。
しかし――空中で必死に体をひねり、剣を支点に体勢を立て直した。
地面に足を突き立て、膝を沈めながらも着地する。
石畳が砕け、砂煙が舞い上がった。
「……せっかく次期領主様が値踏みしてるんだ。
安物に見えねぇよう、派手に見せねぇとな」
血をにじませながらも、ヴァンは口角を吊り上げ、不敵に笑った。
その瞬間、リィナがすでに詠唱を始めていた。
低く澄んだ声が空気を震わせ、魔力が満ちていく。
詠唱が終わり、ロイスの槍に炎が宿る。
橙の光が穂先を包み、結界の輝きと重なって戦場を赤く照らした。
ミリアは盾を地に突き立て、剣を握り直す。
結界の光は盾からあふれ続け、瓦礫の街路を覆っている。
「……出ます!」
視線を交わしロイスとミリアが同時に駆け出した。
矢のような突撃――前に立つミリアの剣が刃を弾き、後ろのロイスが狙いを定める。
二人の動きは、まるで一つの意志に導かれるかのようだった。
王を護る三体の魔物が立ちはだかる。
斧も槍も牙も、すべてミリアの剣が弾き払った。
火花が散り、護衛たちが怯む。
その瞬間、王の大剣が唸りを上げる。
圧倒的な質量の一撃を、ミリアが正面から受け止めた。
石畳が裂け、衝撃が空気を震わせる――それでも彼女は踏みとどまる。
「ロイス副長、今です!」
ミリアの叫びに応じ、炎を纏った槍が閃いた。
彼女が切り開いた一筋の道を、火の穂先が一直線に走る。
その槍は、王の胸を捉えたかに見えた――だが。
甲高い音。
槍先は弾かれた。
黒鉄の鱗。
鋼すら拒むその硬さが、そこにあった。
直後、王の大剣がうなりを上げる。
薙ぎ払う一撃がミリアを襲った。
「――っ!」
防御の体勢のまま、彼女の身体は宙を舞い、石畳に叩きつけられる。
苦鳴とともに血がこぼれた。
「ミリア!!」
ロイスが叫ぶ。
その視線が一瞬だけ彼女に向いた。
次の瞬間、護衛の三体の魔物がロイスへ一斉に襲いかかる。
気配に反応し、ロイスは槍を翻した。
炎を纏った穂先が迫る刃を受け流し、流れるような槍術で身を捌く。
踏み込みざまに突き込み、一体の胸を貫いた。
悲鳴とともに崩れ落ちる魔物。
残る二体を警戒し、ロイスはすぐに距離を取った。
槍を包んでいた炎が、揺らめきを残して消える。
その残滓のように、わずかな煙が立ちのぼっていた。
王の心臓を覆う黒鉄の鱗、その表面から。
だが、その手応えを確かめる暇はなかった。
「……っ、はぁ……」
ミリアが呻き、剣を杖にして立ち上がる。
血で口端を濡らし、足取りは覚束ない。
それでも刃を離さず、前へ踏み出そうとしていた。
「無理をするな、下がれ!」
ロイスの叱声が飛ぶ。
「……まだ、やれます」
かすれた声で、それだけを言い切る。
ロイスは息を呑み、即座に指示を下した。
ヴァンとノルドが駆け寄り、ミリアの左右に並ぶ。
彼女を護る壁となるように。
ロイスは単騎で前へ出て、王と護衛を睨み据えた。
さらに後方――結界を照らす盾の近くに、リィナ、レオ、僕とシアナが控えている。
入り口付近。戦場の喧噪が遠くに感じられるほどの位置。
それでも前線の一撃ごとに、胸は締めつけられた。
布陣は再び整う。
その中心に、血に染まりながらも剣を構えるミリアがいる。
「ロイス副長……! ミリアさんが持ちません!」
ノルドの声が震える。
「このままでは、結界が――」
その瞬間。
――外から、鈍い衝撃音。
石畳を伝い、建物全体が震えた。
続いて、耳を裂く咆哮。
結界の外で、魔物の群れが押し寄せていた。
叩きつけられるたびに膜がきしみ、火花のように光を散らす。
「外も……来てるのか!」
ヴァンが息を呑み、血に濡れた口元を拭った。
ロイスは戦場を素早く見渡す。
王と護衛二体の位置、崩れかけた結界、仲間の消耗――すべてを一瞬で測った。
「……私が頭を撃つ。リィナ、ヴァン――雑魚を頼む」
即座に二人が動いた。
リィナは短剣を抜き、刃に炎を纏わせる。
ヴァンは剣を構え、血の滲む口元を拭うと無言で踏み込んだ。
吠え立つ魔物二体が応じ、激突する。
王は護衛を引き剥がされ、ロイスの前に孤立する。
空気が、一変した。
ロイスが槍を構えた瞬間、
灰色の煙のような――
もやともつかぬ何かが、静かに立ちのぼった。
荒ぶるでもなく、散るでもない。
重く、静かに――
場を、支配する力だった。
おそらく、あれは――灰狼流の闘気。
罪と責任を刻む、王国正統の武。
学匠の言葉が脳裏をよぎる。
「極めし者は、伝説の灰狼のごとく影となり、恐れすら喰らう」
今、その言葉どおりの光景が、目の前にあった。
ロイスの眼差しは獲物を定めた狼のそれ。
一歩動けば斬り裂かれる――その確信が、戦場を凍りつかせる。
だが、次の瞬間。
王が咆哮し、巨体のまま切り込んできた。
大剣が地を裂き、瓦礫を砕きながら迫る。
その刹那――
ロイスは灰の揺らぎのように身を捌き、軌道をすり抜けた。
返す一歩。
閃いた刃が王の左足を突き抜ける。
鱗が砕け、肉が裂けた。
巨体が傾ぐ。
振り下ろされる剣をかわし、返す刃が左肩を抉った。
「――ッ!」
王が咆哮し、大剣を手放す。
代わりに伸びる右手。
しかし、その腕より速く――
灰の走りが閃き、右腕を断ち切った。
赤い瞳がぎらりと光る。
王は膝を沈め、肺の奥から息を吸い込む。
「まずい……ブレスが来る!」
ノルドの声が戦場に響いた。
次の瞬間、紅蓮の奔流が吐き出される。
地を焼き、結界を焦がし、全てを呑み込まんとする灼熱。
その炎の中を、一条の灰が駆け抜けた。
恐れを食らい、責任を刻む――灰狼流。
一閃が炎を裂き、王の胸を貫いた。
黒鉄の鱗が砕け、刃は心臓へと届く。
轟音が止み、炎が霧散する。
巨体が揺れ、赤い瞳が大きく見開かれた。
――やったのか。
胸の奥で言葉が弾けた。
信じられない。
あの王を、真正面から斬り伏せた――。
すごすぎる。
ただ、その一言しか出てこなかった。
足が震え、呼吸が浅くなる。心臓が耳元で鳴り響いている。
気づけば、ロイスを包んでいた灰色の闘気はすでに消えていた。
肩は荒く上下し、息は途切れがちだ。
それでも槍を握る手を離さず、彼は前へ進む。
とどめを刺す、その意思だけを宿して。
「……ッ!」
王の喉から、最後の叫びが迸った。
「ぐぅえぁあああああああ――ッ!」
断末魔の咆哮が大気を裂き、地を震わせる。
そして――
マナが騒めいた。




