名を失った場所
『ユレッタ北方異常対応』
記録者:アルヴェイン家ヴァルデン領兵 ノルド
現在、隊の消耗は中程度。
長期戦は不利と判断される。
隊は村付近に到達。
当初、ロイス殿はアーシェ様・シアナ様を村前の小丘に残し、
レオ殿を護衛として待機させる意向であった。
しかし、アーシェ様ご自身の強い意思、
およびレオ殿の責任ある判断を尊重し、随行を継続。
ここより――村への突入を開始する。
森を抜けた瞬間、一行は足を止めた。
視界の先に、荒れ果てた村が広がっている。
崩れた屋根、裂けた壁、石畳にこびりついた黒い血痕。
吹き抜ける風に混じる鉄の臭いが、胸の奥をざらつかせた。
アーシェとシアナのそばを歩くレオの歩みが、わずかに遅くなる。
誰も理由を問わなかった。
ここが――かつて彼が暮らしていた村だということを、全員が知っていたからだ。
重苦しい沈黙を破ったのは、ノルドの低い声だった。
「……マナの乱れがひどい。この濁りの中での活動は、長くはもたない」
ロイスは頷き、リイナへ視線を送る。
「リイナ、群れの頭の位置はわかるか?」
「……この距離なら、いけそうです」
リイナは深く息を吸い、目を閉じた。
しばしの静寂ののち、眉を寄せて告げる。
「二十体前後の反応があります。
そして……最も強い波は、村の中央――あの建物から」
指差した方角を見て、レオが低く言った。
「……あそこは、祭堂だ」
その一言に、場の空気が張り詰めた。
かつて人々が祈りを捧げた場所が、今は魔の巣と化している。
ロイスは村を見据える。
崩れた家々、沈黙した通り――その全てを無表情に確かめ、静かに仲間たちを見渡した。
槍を握り直し、淡々と告げる。
「正面突破する。進行の妨げになる個体は排除しつつ――頭を叩く」
恐怖を煽る言葉はない。
必要なことだけを、簡潔に。
皆は無言で頷き、剣と盾を構えた。
その背筋を正すのは、ロイスの冷静さそのものだった。
「行くぞ」
低く響く声に、一行は村へと踏み込む。
――その瞬間、空気が歪んだ。
濁ったマナが流れ込み、視界が白く霞む。
影は輪郭を失い、音はざらついて響く。
荒れ果てた村が、さらに異様な幻影に覆われていった。
「来るぞ!」
ロイスの声が鋭く響いた刹那、瓦礫の影から黒い影が飛び出す。
五体のラザドラグ。
左右の路地から、崩れた屋根の上から、正面の瓦礫の隙間から――
多方向から同時に襲いかかってきた。
「進行しつつ、迎撃!」
ロイスの号令が鋼のように響く。
リィナの盾が押し出され、ヴァンの剣が閃き、それぞれ足を止めずに応戦した。
陣形は揺れるが、一歩も退かなかった。
――その背を見て、僕も足を踏み出していた。
森での戦いでは、恐怖に縫いつけられたように動けなかった。
今も脚は震えている。
けれど――進む。
(僕ができることをする。ここまで来たから――)
胸の奥に、確かな熱が芽生えていった。
咆哮が路地を震わせた。
五体のラザドラグが同時に迫る――だが陣形は揺るがない。
ヴァンが短く息を吐き、剣を閃かせた。
正面から迫る一体の顎を、正確に断ち割った。
鮮血が飛び散り、巨体は前のめりに崩れ落ちた。
別の一体が、ミリアへと刃を振るう。
彼女は迷いなく盾を構え、
魔物の持つ斧を、正面から受け止めた。
衝撃が走った。
だが――盾は退かない。
ミリアは、その力を押し返し、
反動を逃さぬまま、体を踏み込ませる。
逆手に持った剣が閃き、鱗を割り、深く突き刺した。
呻き声を上げる間もなく、魔物は石畳に崩れ落ちた。
横合いから飛びかかった影を、レオが迎え撃つ。
踏み込みと同時に剣を振り抜き、胸板を深々と裂いた。
血を吐き、魔物は倒れ込む。
残る二体に、ロイスが一歩踏み込む。
槍が大きく薙ぎ払われ、一体の首が刎ね飛ぶ。
さらに鋭い突きがもう一体の心臓を貫き、巨体を後方へ吹き飛ばした。
「進むぞ」
ロイスの低い声に、一行は無言で頷き、前へ進む。
二体の巨躯が崩れ落ちた通りは、血の匂いで満ちた。
荒れ果てた村の空気はさらに淀み、耳鳴りのような濁流が残響する。
やがて、一行は中央の広場に辿り着いた。
そこに建っていたのは、まだ形を保った祭堂だった。
外壁は裂け、屋根も所々崩れていたが、建物としての姿は残っている。
しかし内部からは、濁った気配があふれ出していた。
視線を向けただけで胸の奥がざらつくほどに強烈な波――
群れの頭が、あの中にいる。
ロイスは仲間たちを見渡した。
誰の目にも迷いはなく、ただ前だけを見据えている。
恐怖を抱えているのは――僕だけだ。
それでも足は動いていた。
震えながらでも、皆と同じ方向へ。
彼らは僕を守ると誓い、僕の選択を信じて進んでいる。
「――このまま行くぞ」
ロイスの言葉に、剣と盾を握る音が重なった。
ヴァンが前に出て、扉の前に立った。
「みんな、心の準備は大丈夫か?」
誰も答えなかった。
剣を握る音と、吐き出される息だけが返事となる。
ヴァンは小さく頷き、低く言った。
「――開けるぜ」
次の瞬間、彼は足を振り抜いた。
重い扉が軋みを上げ、蝶番ごと吹き飛ぶ。
濁った空気がどっと流れ出し、闇に沈んだ祭堂の内部が露わになった。
割れた石柱、崩れかけた祭壇。
かつて祈りが捧げられた場所は、いまや災厄の巣に変わり果てていた。
その奥から、巨影がゆっくりと姿を現す。
鱗は油膜のように黒く光り、闇を映したような不気味な輝きを放っている。
濁った赤の双眸がぎらりと光り、こちらを射抜いた。
丸太のように膨れ上がった腕がわずかに動くだけで、空気が震える。
その手に握られていたのは、人の背丈を優に超える大剣。
刃は欠け、赤黒い痕がこびりついている。
幾度となく命を屠り、血と絶叫を刻み込んだ証のようだった。
――僕の前世で知っていた「リザードマン」とは、明らかに次元が違う。
ただの亜人ではない。
群れを束ねる王。
赤く濁った双眸がぎらりと光り、こちらを捉える。
その視線に射抜かれた瞬間、背筋に冷たい刃を押し当てられたように全身が凍りついた。
胸の奥で囁きが響く。
――あの時の決断は、誤りだったのではないか。
責任を背負うと選んだことこそが、皆を死地へ導いたのではないか。
未来よりも先に、心が折れそうになった。
震えるほどに。
だが同時に悟った。
ここからが、本当の選択なのだと。




