進撃の朝 ー 双つ道の誓い
『作戦記録 ユレッタ北方異常対応』
記録者:アルヴェイン家ヴァルデン領兵 ノルド
本日未明、ユレッタを発ち、北西旧ラドゥス村方面へ進軍。
作戦目的は以下の通り。
一、群れを率いる統率個体の撃破。
二、統率崩壊後に散る個体群の掃討、およびユレッタへの被害防止。
突入隊は八名。主戦力はロイス副官、ミリア、ヴァンの三名。
アーシェ様、シアナ様も直々に随行。
後衛支援としてユレッタ兵二十名が配され、側面制圧と退路の確保にあたる。
現在、街道を北上し森手前にて一度目の休息を終えた。
兵の士気はおおむね高い。装備の不備も認められず。
ただし周囲のマナには乱れがあり、進軍以降の危険度は増す見込み。
以上、ここまでの経過を記す。
町の柵門が、朝靄の中に小さくなっていく。
木の門と見張り台だけの簡素な防御線は、振り返ればすぐに霞んで見えなくなった。
町の人々の視線を背に受けながら進むうちに、もう帰れない距離まで来てしまったのだと実感する。
先頭を行くのはロイスとヴァン。
ロイスは無言のまま前を見据え、槍を構える背に緊張が漂う。
一方でヴァンは軽く振り返り、にかっと笑って手を上げた。
「気張っていきましょうや!」
その一言に、後方の兵たちの表情がわずかに和らぐ。
その背を追うように、僕とシアナを乗せた二騎が続いた。
僕はレオの馬に抱えられ、シアナはミリアに支えられている。
さらに後方にはノルドやリィナ、そして二十名のユレッタ兵が列をなし、蹄の音と鎧の軋みだけが街道に響いていた。
レオが小声で告げる。
「このまま街道沿いを北へ進みます。やがて西へ折れて、森を抜けた先に……旧ラドゥスがあります」
その声音には重みがにじんでいた。
しばしの沈黙ののち、彼は気遣うようにこちらを振り返る。
「揺れは大丈夫ですか? 気分が悪くなったりしていませんか」
「……はい。大丈夫です」
そう答えると、レオは小さく頷き、少し伏し目がちに続けた。
「母が、あの村の出身でして。
子供のころは何度も遊びに行ったんです。
本当に綺麗な村でした。川も森も豊かで……」
そこで言葉が途切れる。
前を向いたままの横顔に、やはり胸に去来するものがあるのだろう。
それを口にすることはなく、静かな沈黙だけが落ちた。
その沈黙を埋めるように、蹄の音が一定の調子で響き、鎧の軋みが重なっていく。
僕は口を開きかけて、結局言葉を失った。
街道の両脇では夏草が風に揺れ、遠く霞む山並みを鳥の影が横切っていった。
澄んだ青空が広がっていく中で、行軍の音だけが変わらず耳に残る。
やがてレオが、その音に重ねるように口を開いた。
「……それにしても、アーシェ様は立派です。
このご年齢で町を導く決断をされるなんて、僕にはとてもできません」
胸が少し詰まり、思わず言葉が漏れる。
「たしかに、覚悟をもって決めました。
……でも、本当に良かったのかはわからないんです。
僕は昔から、どう決めたらいいのか、わからなくなるときがあって……」
言ってから、自分でも少し変な言い方だと思った。
けれどレオは気に留める様子もなく、優しく笑った。
「わかります。僕も、迷うことばかりですから」
少し間を置き、蹄の音がまた響いたところで静かに重ねる。
「けれど……決めないで後悔するより、決めて進む方が良いと、僕は思っています」
押しつけでも慰めでもない、そっと背を押すような声音。
――どこか懐かしい響きだった。
再び沈黙が落ち、馬の揺れと蹄の音だけが続く。
やがてレオは小さく息を吐き、わずかに笑みを浮かべた。
「……本当は、こういうことを口にするのは良くないのでしょうけど」
「家の内情を外で語るのは、本来あまり格好のいいことじゃありませんから」
視線を前に向けたまま、彼は続けた。
「父は、祖父を継ぐには相応しくないと、よく言われています。
だから世間では、“僕が祖父を継ぐのだろう”と見られていて……」
少し息を止めるように間を置き、声を落とす。
「それでも、自分の道は……自分で決めたい」
その言葉に、胸の奥がかすかに疼いた。
――この人と僕は、どこか境遇が重なっているのかもしれない。
だから彼も、それを感じて、僕に話してくれているのかもしれない。
思わず口を開いていた。
「……でも、自分で決めるって、どういうことですか?」
レオは少しだけこちらを振り返り、穏やかに目を細めた。
「そうですね……言葉にすると難しいですが」
蹄の音に合わせるように小さく息を整える。
「人に決められるんじゃなく、自分で選んだ道を歩きたいんです。
ただ流されて進むんじゃなくて……確かな意味を持って、選びたい」
言い終えると、しばし蹄の音だけが続いた。
やがてレオは声を和らげる。
「……僕は、この国の外に出てみたい」
小さく間を置いて、声を落とす。
「まだ見ぬ世界を歩き、その冒険を記録に残したいんだ」
その横顔に、言葉以上のものを感じた。
――なぜだろう。懐かしい誰かの姿が胸によみがえる。
前世の兄。
誰よりも優秀で、そして誰よりも自由を望んでいたあの人。
……あの人が僕の前から消えた日から、僕の歩むレールは完成してしまった。
胸の奥にかすかな痛みが残る。
けれど蹄の音が途切れず耳に届き、現実へと意識を引き戻す。
思わず口を開いていた。
「……素敵な夢だと思います」
自分でも驚くほど、自然に言葉がこぼれていた。
レオは目を細め、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……ありがとうございます」
それだけの返事なのに、不思議と胸の奥が温かくなるのを感じた。
◇
会話の余韻を残したまま、列は黙々と街道を進む。
夏草の匂いが風に混じり、鳥の影が高い空を横切っていく。
夜明けの冷たさは消え、陽はすでに昇り、朝の熱気がじわりと広がっていた。
やがてロイスが手を上げ、列を止めた。
「ここで一度、足を休める。馬の息を整えろ」
その声は簡潔だったが、兵たちはどこか安心した表情を浮かべる。
ノルドとリィナが小声で配置を確かめ合い、また黙って前に向き直った。
ふと横を見ると、ノルドが腰の小冊子を取り出し、短く何かを書きつけていた。
任務の合間にも、記録を欠かさないらしい。
兵たちが鞍から軽く腰を浮かせ、手綱を緩めて馬の首を撫でる。
革の匂いに混じって、獣の荒い息が白く立ちのぼった。
ほんの短い休止だったが、張り詰めていた空気がいくらか和らいでいく。
シアナも馬から降り、軽く息を整える。
すぐにミリアが水袋を差し出した。
シアナは小さく礼を言ってそれを受け取り、喉を潤す。
ミリアは無言で頷くと、剣の柄に再び手を添えた。
守り抜く覚悟が、その仕草ひとつで伝わってくる。
シアナがふとこちらを見て、ぽつりと呟いた。
「……今、楽しそうにしてる」
「え?」
思わず聞き返すと、シアナは少しだけ口元を緩めた。
「本当に。表情が柔らかいもの。自分では気づいてないんでしょうけど」
その笑みには、年相応の無邪気さが混じっていた。
胸の奥がわずかに熱くなる。
確かに――レオとのやりとりは、不思議と心を軽くしてくれていたのかもしれない。
◇
再び蹄音が揃い、列は進み出す。
ほどなくして前方に分岐が現れ、レオが声を張った。
「ここから西に折れます。このまま進めば、しばらくして森に入ります。列を乱さないように」
隊列が進路を変え、街道を外れて西へと折れる。
蹄が固い石畳から土の道に移り、響き方が鈍くなった。
しばらく進むうちに、朝の光は強さを増し、影は短くなりはじめていた。
それでも前方にそびえる森の奥だけは、なお深い闇を抱えている。
近づくにつれ、胸の奥にかすかなざわめきが広がっていく。
風が止んだわけでもないのに葉擦れの音が途絶え、空気の流れが重くよどむ。
(……これが、マナの異常)
肌に触れる感覚がどこか濁っていて、呼吸さえもわずかに重くなる。
世界の“調子”が狂っていくような違和感。
それをはっきりと感じ取ったのは、僕にとって初めてのことだった。
その入口を前に、ロイスが手綱を引いて振り返る。
「――ここから先が本番だ。
旋回部隊は所定の位置へ。突入隊はこのまま森を抜け、統率個体を討つ。
突入部隊はここで下馬しろ。馬は兵に預ける」
兵たちが次々と鞍から降り、手綱を従兵に渡していく。
レオが馬を止め、僕の体を抱えるようにして下ろしてくれた。
地面に足がついた瞬間、緊張で心臓が強く脈打つのを感じる。
シアナもまたミリアに支えられて降り、剣の柄に静かに手を添えた。
森の影はすぐ目の前に迫っていた。
冷たい気配が風に混じり、空気そのものが重たく沈んでいく。
僕は無意識に短剣へと手を伸ばしていた。
心臓の鼓動が速まる。
――これから、本当に踏み込むのだ。
そのとき、隣のレオが声を落とした。
「アーシェ様……“双つ道の話”をご存じですか」
「……はい」
「二つの道の前に立った旅人に、神はこう告げたといいます。
“正しい道などない。選んだお前が、その道に意味を与えるのだ”」
そう言って、レオは少し笑みを見せた。
僕も思わず口元が緩む。
「……はい」
返事はそれだけだった。
けれど、不思議と胸の奥が軽くなる。
ヴァンが「さて、いよいよっすね」と短くつぶやき、兵たちが無言で頷いた。
その空気の中で、朝の光が背を押すように、僕たちは森の中へと足を踏み入れた。
――意味を刻む選択が、今まさに始まろうとしていた。