罪を刻む誓い
まだ夜の色が濃く残る、夏の早朝。
時刻にすれば四つ刻――外は暗く、東の空だけがかすかに白んでいた。
「……おはよう」
布団から体を起こすと、椅子に腰かけていたシアナがこちらを見た。
昨日と同じく、もう僕より先に起きている。
シアナが僕より早く目を覚ましているのは、いつだって特別な日だ。
だから僕も、少し息を整えて、同じ言葉を返す。
「おはよう」
短く交わした言葉のあと、シアナが小さく首をかしげた。
「眠れた?」
「……少しだけ。でも大丈夫」
その一言だけで、胸の奥の緊張がすこし和らいだ気がした。
この部屋で過ごしたのは、たった二度の夜にすぎない。
けれど、もう何週間もここで暮らしてきたような気持ちになる。
眠った時間よりも、目を開いて向き合った出来事の方が多すぎたからだ。
身支度を整え、腰の短剣に手を伸ばす。
母が託してくれた刃を、戦うために抜く日が来るかもしれない。
前世を含めても、僕はまだ一度も“武器”を抜いて敵と向かい合ったことはなかった。
柄に触れるたび、母の温もりがまだそこにあるようで、心臓が強く打った。
指先がかすかに震える。
それでも――もう覚悟は決まっている。
窓を開けると、ひやりとした夜気が流れ込んできた。
夏の空気は草と土の匂いを含んでいる。
遠くで虫の声がかすかにして、夜明けを待つ町並みは静けさに包まれていた。
――この景色を守るために。
今日、僕は歩き出さなければならない。
◇
準備を終えたところで、扉が叩かれた。
開けると、ミリアが黙って立っていた。
その姿にうなずき、僕とシアナは並んで部屋を出る。
窓の外にはまだ夜の色が残り、空気はひやりと重かった。
やがて城壁の正門前、広場となった場所が見えてくる。
重たい木製の門は半ば閉ざされ、東の空が白むのを待っている。
その前に、すでに討伐隊の兵たちが整列していた。
鎧のきしむ音や馬の鼻息が、夜明け前の静けさを震わせていた。
「ぼっちゃん、じょうちゃん!
おはようございます!」
張りつめた空気を割るように、ヴァンの声が飛んできた。
僕とシアナも、思わず笑みを返して挨拶を返す。
その中に、見覚えのある顔もあった。――レオだ。
ロイスが一歩前に進み、全員の到着を確認すると、簡潔に作戦の概要を復唱していく。
続いて、ノルドが前に出て、落ち着いた声で告げた。
「斥候によれば、強い乱れが確認されていますが、、
危険ではありますが、まだ“魔響区”には至っていない。
……今のうちに動くという判断は、やはり正しかったようです」
短い言葉に、列のあちこちで緊張が走る。
誰もが、その先に待つ危険を理解していた。
その空気の中、レオが列を抜け出し、深く一礼して声を張る。
「アーシェ様、シアナ様。
ガイル様よりお力添えを賜り、心より感謝申し上げます。
今回の作戦において、案内とお二人の護衛――この命に代えても必ず果たしてみせます」
真っ直ぐな声音が、列に静かな重みを落とした。
ロイスが全員を見渡し、静かに告げる。
「突入は八名。
戦闘の主力は私とミリア、ヴァンの三名。
レオはアーシェ様とシアナ様の護衛につくが、剣でも頼れる。
リィナとノルドは補佐に回る。
それ以外のユレッタの兵二十名は、後続として支援に回る。
旋回部隊として側面を制し、退路を確保する。
統率個体を討ったあとは、散ったラザドラグを追い払い、町への被害を防ぐ役も担う。
……突入隊が群れを突破し、統率個体を討つ。必ず生きて戻る。それが命だ。」
言葉を結んだ瞬間、場に沈黙が落ちた。
息を呑む音と、甲冑のきしむ微かな響きだけが、列を走り抜けていく。
皆の視線が背中を押し、ただ重い決意だけが共有されていた。
やり取りがすべて終わり、兵たちはそれぞれの馬の横に立っていた。
手綱を握りしめ、今はただ、出発の合図を待つばかりだった。
ロイスの視線、隣に立つシアナ、そして押し黙った兵たち。
――何を求められているのかは、分かっていた。
この隊を進ませるための“合図”が、僕の役目だった。
胸の奥がきゅっと強張る。
それでも、習っていた誓いの言葉を思い出し、僕は前へと一歩踏み出した。
「――責を負うは我らの誉れ。罪を刻むは我らの誓い。
ネフィルの加護があらんことを」
声が静寂を切り裂くように響いた。
次の瞬間、兵たちは一斉に武器を掲げ、胸に手を当てる。
前世の僕は、神のようなものを信じたことなど、ほとんどなかった。
祈りはただの言葉にすぎず、意味を持たないと切り捨ててきた。
――それでも今は、この作戦にこそ、ほんのわずかでも加護があることを願っていた。
夜明け前の空気に、その祈りと誓いが深く刻み込まれていく。
やがて、兵たちは次々と馬に跨っていった。
僕はレオに手を引かれ、その後ろへと乗せられる。
大柄な背中にしがみつきながら、革の手綱の感触に心臓が早鐘を打った。
――なぜか、懐かしい気配が胸をよぎる。理由は分からないままに。
シアナもまた、ミリアの後ろに身を預けていた。
彼女は軽く振り返り、僕に小さな笑みを見せる。
その笑顔だけで、胸の奥の緊張が少し和らいだ。
討伐隊がゆっくりと町の門へ近づいていく。
そこには三十ほどの人影が集まっていた。
子を抱いた母が子の頭を胸に押しつけ、老人が杖を鳴らしながら静かに見つめている。
誰も声をあげず、ただ祈るような眼差しでこちらを見送っていた。
その先頭に立つ町長オルドンが、深々と頭を垂れた。
町の願いそのものが、背中に託されたように感じられた。
――その姿を見たとき、僕は悟った。
自分の選択に、ひとつの“意味”が刻まれたのだと。
夜明け前の空の下、蹄の音が静かに門をくぐり抜ける。
北へ――ラドゥスの廃村を目指して。
その音は、町の祈りと僕の選択を背負って響いていた。
――選んだ道を、この足で歩き始めたのだ。
『旅路覚書 番外』
筆者:放浪の冒険家 エルダラン
ユレッタの門んとこに集まったのは、まだ夜明け前だ。
馬が鼻鳴らして、兵の鎧がきしんで、空気はやけに冷えてた。
その先頭に立ったのは――アルヴェイン家のガキ。
正直「おいおい、大丈夫か?」って思ったさ。
だって、まだ子供なのは町のやつなら誰でも知ってる。
でもよ、声を張った瞬間に兵の目が変わったんだ。
馬の蹄が鳴りだしたときには、もう誰も迷っちゃいなかった。
あれが、この町の“始まりの一歩”だったのかもしれねえな。




