意味へ至る道 ― 討伐の前に
『放浪の冒険家エルダラン手記』より抜粋
あの日のユレッタは朝から妙にそわそわしてた。
井戸端でも市場でも、出てくる話は「北の森で魔物が出た」とか「マナが乱れてる」とか、そんなのばっか。
最初は誰もが酒場の与太話だと思ってたが、昼前には町中それで持ちきりだった。
で、昼どき。
広場にみんな呼び集められて、普段は市でにぎやかな場所が、やけに重たい空気に包まれてたんだ。
壇に立った町長オルドンが、杖をコンと鳴らして告げた。
「――アルヴェイン卿の御子息、アーシェ殿を筆頭に、討伐のための隊を結成する」
その瞬間、広場が一気にざわついた。
驚きと安堵と不安が入り混じった声が、あちこちで飛び交ってたな。
この町のやつらは皆知ってる。アーシェ殿がまだガキだってことを。
「おいおい大丈夫かよ」って思ったやつも、きっと多かった。俺も心の中じゃそう呟いた。
けどな――あの歳で決断を下したってのは、やっぱすげぇことだ。
その瞬間だけは、みんな少し口をつぐんでた気がする。
呼び名は人それぞれだ。
「ユレッタ防衛」だの「ラドゥス討伐」だの。
けど俺に言わせりゃ、あの日の昼下がりこそが戦いの始まりだった。
胸は高鳴るし、不安も消えちゃいなかった。
それでも――確かにあの瞬間、この町のやつらはひとつにまとまったんだ。
――『放浪の冒険家エルダラン手記』より
――僕は、選択した。
その瞬間、胸の奥で脈が強く跳ねた。
もう後戻りはできない。
その言葉は、町と兵を動かす現実になったのだ。
「アーシェ様……」
町長オルドンが深く頭を下げた。
皺の刻まれた顔に、安堵と感謝の色が浮かんでいる。
「若き御方のご決断に、この町は救われます。心より感謝申し上げます」
その声音に、真心と同時に重苦しい影が差しているように思えた。
だが理由までは分からない。
僕はただ、その言葉を受け止めるしかなかった。
そのとき――
バン、と扉が勢いよく開け放たれた。
「た、大変です!」
慌ただしく駆け込んできたのは、オルドンの使用人だった。
息を切らせ、青ざめた顔で叫ぶ。
「町で……ラドゥスの件が広まっております!」
空気が一気に張り詰めた。
町の人々は、つい昨日まで何も知らされていなかったはずだ。
それが今は、街路や市場で口々に語られている。
遠くからでも、不安のざわめきが押し寄せてくるようだった。
「なに……? どこから漏れたのだ」
オルドンの顔色が変わり、低く唸る。
使用人はおそるおそる言葉を継いだ。
「市場でも、広場でも、人々が口々に……。皆、不安に駆られております」
しばらく沈黙が落ちる。
オルドンは目を閉じ、苦渋を浮かべながら口を開いた。
「……本来ならば、この件は穏便に済ませたかったのでございます」
掠れた声。その理由を語るように、彼は続ける。
「二年後には“承認の儀”が控えております。アルヴェインの名に注がれる時期に、騒乱などあってはならぬ……。ゆえに、余計な影を落としたくはなかったのです」
その言葉の意味を、僕はすべて理解したわけじゃない。
ただひとつだけ分かったのは、
――町の静けさは偶然ではなく、知らされていなかったからこそ保たれていた、ということだった。
横で黙っていたロイスが、わずかに考えるような目をしてから言葉を発した。
「……問題はありません。」
その声音は落ち着いていて、場に落ちた重苦しさを払うようだった。
「アーシェ様がご決断されたのです。それが何よりの道しるべ。
町民にはこう伝えていただきたい――アルヴェイン領として迅速に対処すると」
オルドンは深く息をつき、ようやく頷いた。
「……承知いたしました。すぐに布告の手配をいたします」
ロイスはさらに一歩進み出る。
「では、討伐の段取りを決めさせていただきます」
低く落ち着いた声が、場の空気を切り替える。
「確認されているのは三十体のリザードマン。
数は多くはございませんが、放置すれば増え、周囲のマナを乱す危険がある」
ロイスの声音がさらに冷たく研ぎ澄まされる。
「夜は奴らの領分だ。
だから――明朝ユレッタを発ち、陽が沈むまでに群れを突破して頭を討つ」
言葉に重みが宿り、室内に再び沈黙が落ちた。
「ユレッタの兵には町の守りを固めつつ、周囲に旋回配置していただきたい。
我々が頭を討てば、群れは必ず四散する。
残りの駆除を担っていただきたい」
「……なるほど」
オルドンの顔に理解の色が広がる。
ロイスは最後に付け加えた。
「加えて、一名だけ随行を願いたい。旧ラドゥスの地形に明るく、アーシェ様とシアナ様の護衛にふさわしい者を」
オルドンは重々しく頷いた。
「……承知いたしました。最も信頼できる兵を選びましょう」
そしてしばらくののち、呼び寄せられたのは、まだ若い兵だった。
二十歳前後に見えたが、背筋はまっすぐに伸びている。
素朴な顔立ちに緊張が走り、しかし瞳は真っ直ぐに澄んでいた。
その姿に、どこか懐かしいものが胸をよぎる。
「レオと申します」
青年は胸に拳を当て、きびきびと頭を下げた。
誠実さが滲む所作でありながら、どこか肩の力の抜けた自由さも漂っていた。
オルドンが静かに言葉を添える。
「私の孫でございます。剣の腕もそれなりに立ちます。
幼い頃は母方の縁でラドゥスに暮らしており、地形にも明るい。
案内役としても護衛としても、お役に立つはずです。」
その言葉に背筋を正しながら、彼の存在が心に残った。
――こうして、明朝の出立は決まった。
僕たちは屋敷を後にし、駐屯地へ戻ることにした。
◇
屋敷を出ると、ユレッタの空気は昨晩よりもはるかにざわついていた。
市場の方からは人々の声がかすかに届き、通りを行き交う顔には落ち着きがない。
まだ討伐の布告が出たわけではない。
けれど噂だけで、不安は町全体に広がりつつあるのだと肌で感じた。
駐屯地へ戻る道すがら、胸の奥が少し重くなる。
僕の選択が、やがてこの町を大きく揺らしていく――その現実が静かにのしかかってきた。
◇
詰所に戻ると、ヴァン、ミリア、リイナ、ノルドが揃っていた。
ロイスは迷いなく前に出て、短く告げる。
「明朝出立だ。昼のうちに旧ラドゥスへ突入し、群れを突破して頭を討つ。
ユレッタの兵は旋回配置、残りの駆除を任せる。
我々は少数精鋭――ここにいる者たちで成し遂げる」
簡潔で、揺るぎない命令。
仲間たちはそれぞれ真剣に頷き、武器や装備に手を伸ばした。
その様子を見ながら、胸の奥が熱くなる。
――僕の選択が、この人たちを動かしている。
◇
準備の空気が漂う中、僕とシアナは割り当てられた部屋に戻った。
荷を置き、灯りを落とす。
寝床に腰を下ろしたとき、シアナがふと笑みを浮かべて言った。
「大丈夫よ、アーシェ。あなたの選んだ道は、必ず――意味あるものになるはず」
その声は静かで、それでいて不思議な強さを帯びていた。
僕は頷き、短く答える。
「……うん。ありがとう」
外はまだ人々の気配でざわついていた。
けれど、シアナの言葉に背を支えられるようにして、布団へ身を沈める。
――明朝、選んだ道が動き出す。
そう思いながら、静かに目を閉じた。