夜に委ねる
『旅路覚書 第三篇』より抜粋
筆者:放浪の冒険家 エルダラン
ユレッタの町ってのはな、ヴァルデン領の北西にある川沿いの中継地だ。
王都から北の城塞グラディスに行く連中は、だいたいここを通る。
だから宿場町にしてはデカいし、市場もわりと賑わってる。飯も道具も手に入る。
……まあ、人も物も集まるってことは、それを狙うヤツらも出てくるわけで。
盗賊だの、川沿いからちょっかい出してくる魔物だの。
町の兵がサボれない理由はそこにある。
歩いてみれば、通りは人と声でいっぱい。
旅人からすりゃありがたい町だ。宿の飯は質素だが腹はふくれるし、川魚の塩焼きはけっこうイケる。
ただな……ユレッタには変な噂もある。
「夜更けになると空気が重い」とか「風が通ってるのに声が籠もる」とかな。
与太話に聞こえるだろ? けど、実際に泊まってみた俺も――少し、胸の奥がざらつくような気配を感じた。
便利で、にぎやかで、旅人をほっとさせる町。
だがその影に、何か言葉にできねえものが潜んでる……そんな気がするんだよな。
坂の下に広がるユレッタの街へと、馬車は静かに進んでいく。
夕闇が濃くなり始めた頃、町の門が見えてきた。魔光灯の淡い灯が門番たちを照らし、アルヴェイン家の紋章に気づいた彼らは、姿勢を正して頭を下げる。
その様子を窓越しに見つめながら、胸の内に小さな違和感が灯った。
……僕たちは“見る側”ではなく、“見られる側”。伏せられた視線に、どこか他人行儀な温度があった。
門がきしみを上げて開き、馬車はそのままユレッタの中へ入る。
夜の気配が広がる石畳の街路。両脇には灯りのともる建物が並び、窓の奥からは食卓を囲む影や静かな笑い声。屋敷町ファルナとはまったく違う、都市としての整然とした賑わい。
――ここがユレッタ。ヴァルデン領最大の街。
学匠によれば、規模はファルナの三倍。王都セリオンと北方グラディスを結ぶ要衝として発展してきた拠点だという。
僕にとっては、これが“初めての都市”。
地図では知っていた。講義でも聞いていた。
けれど、風の流れや石の匂い、魔光灯が描く陰影に身を置いてはじめて、“ここに来た”という実感がゆっくり染みていく。
馬車は市街地の奥へ進み、やがて中央通りの広場で止まった。
御者のヴァンが手綱を引くと、軋む音が静かに収まる。
「坊っちゃん、着きました。ここからは徒歩っす。町長殿の屋敷、そこの角を曲がってすぐです」
僕は頷き、扉の取っ手に手をかけた。
隣ではシアナがまだ半分眠たげに外をぼんやり眺めている。その緊張のなさが、少し羨ましい。
扉が開き、足を地につけた瞬間――石畳の感触が革靴越しにじわりと伝わる。
“外に出た”という実感が身体の奥へ広がる。まだ何も始まっていないのに、どこか落ち着かない。
隣で馬車から降りたシアナが、ふいに背筋を伸ばした。
つい先ほどまでの眠気は跡形もなく、凛とした空気をまとっている。……急に雰囲気が変わった。横顔を覗き込んだが、彼女は気づかぬふりで前だけを見ていた。
「アーシェ様、シアナ様」
声をかけてきたのはロイスだ。すでに馬を降り、手綱を従者へ預けながら向き直る。
「マナ異常の調査は明日から。今夜は町長へ到着の報告と状況の確認を行います。お二人もご同行を」
シアナが小さく頷く。
ロイスは背後の護衛にも目配せした。
「他の者はここで待機。荷下ろしと、町の詰所への連絡を」
的確な指示ののち、僕たちに会釈して歩き出す。
その背を追い、町の一角へ向かった。石畳を打つ足音が、夜の通りに控えめに響く。
広場から少し奥――町長の屋敷が建っていた。
レンガ造りの端正な外観に、手入れの行き届いた低木の垣根。正門の灯火のそばで使用人が一礼する。
「町長はお待ちです。どうぞ中へ」
案内に従い、屋敷へ足を踏み入れる。
中は思ったより広く整然としていた。赤い絨毯、魔光灯の柔らかな明かり。絵画や花飾りにも堅苦しさはない。先導する使用人の後ろで、ロイスの背がゆったりと揺れる。
――そういえば、今朝もこの背中を見ていた。
見慣れた屋敷の温もりが、背の向こうに遠ざかっていった早朝の廊下。
今は明かりも壁も空気も、少しずつ違う土地。けれど、僕はまた同じ背中を見て、歩いている――ふと、そう気づいた。
「こちらです」
扉がノックされ、通されたのは、質素ながら広い部屋。装飾は控えめだが調度は行き届き、地方行政の中枢として過不足がない。
中央に控えていた年配の男性が歩み寄る。背筋は伸び、白髪まじりの口ひげ。目元に疲れの影を宿しつつ、動きには威厳があった。
「ようこそ。アルヴェイン家のご子息、そしてご令嬢……ユレッタへお迎えでき、大変光栄に存じます」
丁寧に一礼して名乗る。「町長のオルドンと申します。よろしくお願いいたします」
シアナが一歩前へ出た。
「丁重なお迎え、感謝いたします、町長殿。シアナ・アルヴェインと申します。今回は弟の補佐として同行しております」
姿勢にも声にも迷いがない。――家で見せる顔とは違う、“貴族の姉”の顔だった。思わず見とれる。
少し遅れて、僕も前へ出る。礼儀は教わっているが、身についた感覚はまだ薄い。前世の面接の記憶を手がかりに、できる限り丁寧に頭を下げる。
「アーシェ・アルヴェインです。父に代わり、本件の調査にあたります。よろしくお願いします」
オルドンは柔らかく微笑み、深く頷いた。
「お二人にお越しいただけるとは町の誉れ。きっと皆の励みとなりましょう」
ロイスが一歩出て、簡潔に切り込む。
「では、現地の状況を」
「はい。北西の村――ラドゥスで、魔物の異常な活性が確認されました。住民の避難が間に合わず、村は壊滅状態。加えてマナの流れに乱れがあり……無響区化が進行している可能性があります」
一瞬、沈黙。
ロイスは目を細め、落ち着いた声で返す。
「ラドゥスで“小規模なマナ異常”との報告は受けています。しかし今のお話とは隔たりが大きい」
「報告は事実です。私は確認した内容を正確に伝えました。どこかで伝達が変質しているのなら……それも含め、私の責です」
嘘は感じられない。
ロイスは短く息を吐き、口調を崩さず続けた。
「任は調査が主でしたが、既に想定を超えています。現地対応は視野に入れていましたが、今の戦力では心許ないかもしれない」
一拍置いて、視線を戻す。
「ほかに補足があれば伺いたい。判断材料は多いほどいい」
「承知しました。把握している情報は、すぐ取りまとめてお渡しします」
「助かります」
ロイスは頷き、締めくくる。
「今夜のうちに整理し、明朝までに対応方針をお伝えします」
会話を聞きながら、その場の空気を飲み込む。
ロイスは冷静に、事実だけを積み上げていく。――任せておけば大丈夫。そう思った途端、懐かしい感覚が胸をかすめた。
かつての僕も、誰かの決定に身を預けていた。正しいかどうかではなく、“選ばない”のが一番楽だと、いつの間にか思っていた。
今もまた、流されている――。
⸻
屋敷を出ると、外はすでに夜の色。
月は淡く、家々の窓から漏れる灯が石畳にやさしい陰影を落としている。人影はまばらで、町全体がゆっくりと夜に沈んでいく最中だ。
初めて踏み入れる町。けれど、この景色はどこか整いすぎている。
壁の色、屋根の傾き、掲げられた旗の向き――穏やかに見える風景の底に、わずかな緊張が潜んでいる。胸の内側でも、それに呼応するようにざわめきが立った。
ロイスの背中を見送り、僕とシアナは屋敷を後にする。
舗装の行き届いた石畳を、二人並んで歩く。今は足音だけが夜の通りに控えめに響いていた。
「……アーシェ」
ぽつりと名を呼ぶ。続きはない。それだけを残して、また黙る。――もう、いつものシアナだ。
町長の前で見せた凛とした立ち居振る舞いは、まるで誰かが入れ替わったようだった。けれど今、隣にいるのは朝の屋敷から続く、気まぐれで少しからかい癖のある、僕の知っている“姉”。
――昔から、僕の手を引いてくれたのは、いつもこの姉だった。
知らない場所でも、怖い時でも、隣で笑ってくれる。その姿をまた見られたことが、少し嬉しい。
やがて、視界の先に目的地が見えてくる。
町の北側、大通りを外れた先――外との境界に近い場所に、ユレッタの警備を担う駐屯地。夜の帳のなか、静かに門が口を開いている。
……この時の僕は、まだ思っていた。
すべては、ロイスが決めてくれるのだと。
けれど、この夜が明けた先に、まさか“自分の決断”が迫られるとは――想像すらしていなかった。
やわらかな灯りが揺れる駐屯地の門をくぐり、僕は中へと足を踏み入れた。