門を越えて
「――悠真」
前世の父に呼ばれた声が、胸の奥でよみがえる。
家族は皆、医者という道の上にいた。
父も母も病院で働き、兄は医学部に進むための進学校に通っていた。
姉もまた、母のように医者になるのだと口にしていた。
その流れの先に、自分も並ぶのだと、何の疑いもなく思っていた。
やりたいと思ったことも、少しはあった。
姉と一緒にケーキを作って家族が驚いたときや、当時見ていたアニメのプラモデルを祖父に買ってもらい、黙々と組み立てていたとき。
そういう時間は、たしかに楽しかった。
けれど、そういう「楽しいこと」は決して長くは続かなかった。
気づけばまた机に向かい、正しい答えを選び取る日々に戻る。
窓の外に広がる街の光を眺めながら、一瞬「別の世界」を想像することもあったが、それは夢想にすぎないと、自分で打ち消していた。
褒められるのは、勉強や医学に関わることだけ。
だから僕は、呼ばれるままに正しい方向へ首を向けた。
承認される方が、安全で、間違いがなかったからだ。
――これが、白井悠真という少年だった。
◇
僕はアーシェとして机に向かっていた。
屋敷付きの学匠が、国と王統について淡々と語っている。
「我がセレストリア王国は、エラニア大陸の南東にて覇を唱える大国にして――
御代は第二十五代、カリオン三世陛下でございます。
その王統を支えるのが、三大貴族。
そのひとつが、アーシェ様方アルヴェイン家。
王都近郊に本家を構え、古くより王家の柱として仕えてまいりました。
また、ご当主ガイル様は分家にあたられ、西方の国境に位置する要衛――ヴァルデン領の統治を預かっておられます。
同地は、帝国と小国群に接する地にて、代々、軍の抑えを担う要衝にございます。」
現国王、王統、三大貴族。
学匠の言葉を聞きながら、胸の奥に残っていた疑問が強くなる。
父に命じられた、あの“話”。
――これは、知っておくべきことだ。
僕は顔を上げ、意を決して口を開いた。
「その……あの話って、どういうものなんですか?」
学匠は小さくうなずき、落ち着いた声で答えた。
「――《責罪の儀》のことですね?」
僕は小さく頷いた。
「王族が十二歳を迎えると、北東の《ネフィレス》にて、断罪の灰をその身に浴びます」
淡々と、しかし言葉は重かった。
「それは、己の“罪”を知り、その“責任”を身に刻むための試練」
「同時に――《選定の祝福》を授かるための儀でもあります」
学匠は、僕をまっすぐ見て、言った。
「これを経ねば、王位継承の資格は得られませぬ。
さらに、この儀式はただの通過儀礼ではございません。
諸家の振る舞いによって、いずれの王族を推すかが定まる。
ゆえに儀式は、王国の未来を形づくる政治の場でもあるのです」
僕は机の上に手を置きながら、静かに考える。
(誰につくかで、貴族の力の流れが決まるってことか。
派閥――前世の病院でも、同じような構図を見ていた。)
罪。責任。
その響きが胸の奥に重く沈んだ。
――前世で、僕が何度も避けてきた言葉に、よく似ていた。
授業が終わり、外に出ると、庭にはやわらかな風が吹いていた。
春の陽射しは明るいけれど、まだ少し冷えが残っている。
石畳の向こうで、木剣を構えたシアナが執事オルフェと向かい合っている。
「はっ!」
小さな掛け声とともに振り下ろされる剣。
受け止めたオルフェは、ほとんど力を込めていないように見えるのに、シアナの体は弾かれる。
「焦らず、足を崩さぬことです、シアナ様」
「わかってる!」
真剣な顔で立ち直るシアナ。
まだ幼いのに、その瞳には強い光が宿っていた。
僕も木剣を握らされ、列に加えられた。
けれど振るえばすぐに体がよろめき、踏ん張る間もなく剣をはじかれて尻もちをつく。
「アーシェ、だいじょうぶ?」
駆け寄ってくるシアナは、汗に濡れた頬を赤らめながらも笑顔だった。
「無理に戦おうとしなくていいんだよ。私が守ってあげるから」
そんなのは、いつものことだ。
シアナは昔から僕に優しい。
けれど、そのたびに――守られるばかりの自分が、少しだけ情けなく思えた。
オルフェが木剣を拾い上げ、穏やかな声で言った。
「剣は力だけではありません。積み重ねれば、必ず形になります。……アーシェ様も、焦らず歩まれればよいのです」
僕は黙ってうなずいた。
けれど、そのたびに守られるばかりの自分が、情けなく思えてならなかった。
――あの日の小さな無力感は、胸の奥に長く残り続けていく。
───
その後も、オルフェに教えを受ける日々は続いた。
剣の型を覚え、読み書きを習い、時に姉や母と過ごす。
そんな変わらない日常が、淡々と積み重なっていった。
季節は巡り、背丈は少し伸び、
そして、四年の歳月が過ぎていた。
◇◇◇
九歳の夏。
太陽の光が――銀色にきらめいていた。
この年を境に、僕の人生は大きく変わっていくのだった。
その日も、いつもの訓練を終えたところだった。
「アーシェ様、旦那様がお呼びです」
僕は汗を拭う間もなく、メイドに連れられた。
案内され広間へ入ると、数日前に遠征より帰還したばかりの父ガイルと、そして家族が集まっていた。
その父の隣には、凱旋の折にも見かけた長身の兵士が、無言で控えている。
ただ父の傍にいるだけで、息が詰まるほどの威圧感を放っていた。
ガイルは短く告げる。
「私は明日、王都へ発つ。……エルミナも同行させる」
その瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめた。
名を呼ばれたエルミナは、ゆっくりとうなずく。
表情は変わらず、声も発さなかった。
けれど――なぜだろう。
その姿は、いつも通りでありながら、なぜかどこか遠くを見据えているように見えた。
短い沈黙ののち、ガイルの視線がこちらに向く。
「ユレッタ方面で、小規模なマナの乱れが報告されている。調査はロイスたちに任せる。……アーシェ、シアナ。お前たちも同行しろ」
「ほんとに!?」
シアナは弾かれたように声を上げた。
父の決定に迷いなく応じ、瞳をきらきらと輝かせる。
突然すぎる命令に、僕は胸が不安で締めつけられた。
屋敷町のファルナより外に出たことなど一度もない。
理屈よりも先に、幼い身体は怯えた。
頭ではわかっているつもりでも、胸の奥は小さく震えていた。
――そのとき。
シアナが僕の顔をちらりと見て、そっと手を握ってくれた。
不安で胸が締めつけられていたけれど、シアナの手の温もりで、ほんの少しだけ安心できた。
◇
翌朝。
ガイルは数人の部下とともに出立した。
その列に並ぶエルミナの姿を見て、思わず息をのむ。
白いローブが朝の光を受けて揺れていた。
それはただ美しく――けれど、どこか遠かった。
父の背中と並び立つその姿を、幼い僕は言葉にできず、ただ胸に刻んだ。
◇
数日後、まだ空が白み始めたばかりの早朝、調査へ向かう準備が整えられていた。
僕のためには、小さな旅装束と淡い色のローブが用意されていた。
袖に腕を通すと、まだ少し大きくて、布の重みが妙に現実感を帯びていた。
さらに、腰には短い刃を収めた鞘が結わえられていた。
小ぶりな短剣――母が護身用に与えてくれたものだ。
幼い僕にはその重みが過剰なほどに思えたが、同時に母の温もりがそこに宿っているようでもあった。
それでも、剣を佩くということが、ひとつの境界を越えることのように感じられた。
隣のシアナは、すでに準備を整えていた。
幼さを残しつつも、きちんと仕立てられた深紅の服の上から短い外套を羽織り、腰には磨かれたばかりの小剣が下げられている。
淡い銀髪は肩のあたりでゆるやかに揺れ、瞳には強い意志が宿っていた。
その姿は――まさに、僕がかつてフィクション作品の中で見た“冒険者”のイメージそのものだった。
ほんの少し憧れにも似た感覚が胸をよぎったが、すぐに不安が押し寄せる。
これは物語の中の夢ではなく、現実の世界なのだ。
◇
その日、空はまだ眠たげな色をしていた。
東の端に、かすかに光の輪郭が浮かびはじめている。
あの男は、その静けさのなかで屋敷を訪れた。
父の横に控えていた兵士――名をロイスといい、父の副官であることをそのとき初めて知った。
ロイスは恭しく一礼し、静かに告げる。
「ご準備は整いましたか。
詳細は道中にてお話ししましょう」
僕とシアナはうなずき、ロイスの後について部屋を出た。
長い廊下をくぐり、中庭に並んだ馬車へ向かう。
そこには、父の凱旋の折に見かけた顔がいくつもあった。
鎧を整えた兵たちが控え、馬を繋ぐ手際は無駄がない。
僕の胸は小さく震えていた。
それでも、シアナと並んで馬車に乗り込む。
母、オルフェ、そしてメイドたちが並んで見送っていた。
御者の手綱が鳴り、車輪がゆっくりと転がり出す。
揺れに身を任せながら窓の外を見やると、屋敷の大きな門が近づいてくる。
何度も内側から眺めたことのある鉄の門扉――けれど、外へ抜けていくのはこれが初めてだった。
これまですべては屋敷の中で完結していた。
学びも遊びも、家族との時間も。
外の世界はただ窓越しに遠くを眺めるものであり、決して自分の足で踏み入れる場所ではなかった。
馬車はきしむ音を立てながら、ゆっくりと門へ向かう。
その頃には、空はもう淡く明るみはじめていて、朝の光が、静かに影を薄くしていくのがわかった。
門をくぐる。
鉄がきしむ音とともに、空気の匂いが変わる。
屋敷の外へ。
ここに、生まれてから初めて踏み出す世界。
――その先に広がるのは、僕が白井として知っていた世界とは全く違う。
美しく、そして残酷な世界だった。
抜粋 ― 『セレストリア王国正史』より
かつて神ネフィルは、人の罪を映す獣《灰の狼》を造り給うた。
灰の狼は、ただ獣にあらず。
それは「責任なき欲」を喰らい、残された者に「責任」を背負わせると伝えられる。
ゆえに王統を継ぐ者は、必ず灰の狼の前に立たねばならぬ。
十二歳を迎えた王族は《ネフィレス》に赴き、断罪の灰を浴びる。
罪を知り、責任をその身に刻むためである。
逃げる者は狼に喰われ、立ち向かう者は赦される。
そのとき与えられるのが《選定の祝福》。
これを経ねば、王位の継承権は得られぬ。
――王冠とは、責任の象徴である。
ゆえに王国の未来は、責任を負う者の肩にのみ託される。




