選ばなかった男 ― ただ“正しさ”を生きた医師
人生は選択の連続だ。
けれど僕は、一度も“自分の選択”をしたことがなかった。
そんな僕に、もう一度の人生が与えられる――選び直すために。
白い紙の上に、黒い署名欄だけが沈黙していた。
診察室の机に並んだ手術説明書と同意書。
僕はその一枚を手に取り、患者と家族に向き直る。
「今回の手術は、胃の一部を切除するものです。執刀は僕が担当します」
声は自然と抑揚を失い、必要な情報だけを並べる調子になる。
それが一番効率的で、誤解も生まれにくいと思っていた。
「出血、感染、縫合不全、肺炎といった合併症のリスクがあります。可能性は低いですが、手術関連死の危険もゼロではありません」
患者の肩が小さく震えた。
横に立っていた看護師が、不安を和らげる言葉を添えようと息を吸ったのが分かった。だが僕は、そのまま説明を続けて遮った。
「術後はおよそ十日ほどの入院が必要です」
机の上の同意書を、患者の前に押し出す。
沈黙。家族が視線を交わし合い、ためらいながらペンを取った。
「……先生、本当に、大丈夫なんでしょうか」
かすれた声に、一瞬だけ胸が揺れた。
ここで何か、安心させる言葉を添えるべきだと分かっていた。
それでも、僕の口から出たのは冷たい現実だけだった。
「安全に配慮して行います。ただ、保証はできません」
患者の表情に影が差す。
その視線は、僕の胸に確かに突き刺さっていた。――けれど、結局僕にはそれ以上の言葉が出てこなかった。
説明は果たした。正しさは伝えた。
だが、それ以上を求められたとき、僕は口を閉ざすしかなかった。
合理的に進めることしか、できなかった。
外来を終え、廊下に出ると蛍光灯が無機質に床を照らしていた。
消毒液の匂い、遠くで交わされる短い会話。どれも雑音にすぎない。
スマホを取り出すと、医局から送られた来月のシフト表が通知に並んでいた。
当直は八回。
多いとも少ないとも思わない。
決まった通りに働くだけ。八回の夜が、八回の夜として過ぎていくだけ。
そこに選択も、意味もなかった。
――僕は、いつからこうして生きてきたのだろう。
いつから人生の意味を失っていたのだろう。
気づけばいつも、敷かれたレールの上を歩いていた。そこに意味はなく、ただ「正しさ」だけが残っていた。
──白井悠真。
そう呼ばれたこの人生を、僕は一度も「自分で選んだ」と感じたことがなかった。
両親は医師だった。だから、自分も医師になるのが当然のように思っていた。進む道は最初から整っていて、疑うこともなく「正しさ」に従っていた。
努力はした。期待には応えた。優秀だと褒められ、「信用」もされた。成長とともに、それはやがて「効率」を重んじる歩みに変わっていった。
医師としての日々は静かだった。感情を切り離し、冷静に判断し、最小のリスクを選ぶことこそが、自分に課された役割だと信じていた。
……きっと、この人生には何かが欠けていた。
──あの日。
深夜の病院は静まり返っていた。廊下には時計の秒針の音だけが響き、外来の灯りは落とされている。処置室の蛍光灯だけが、白く冷たく輝いていた。
その静けさを切り裂くように、サイレンが近づいてきた。僕が当直を任されていた夜だ。救急搬送で運び込まれたのは十代の少年、交通事故による多発外傷だった。
三十を過ぎ、責任は自然に自分へ回ってくる年齢になっていた。専門医は呼び出したが到着まで時間がかかる。判断を下すべきは、その場にいた僕だった。
検査結果は曖昧だった。脳に損傷の影があるが、致命的かどうかは断定できない。助かる可能性は残されている。だが、手術には高いリスクがある。──どちらにも明確な「正解」はなかった。
医療には正解のない問いがある。どちらを選んでも、命を失うかもしれない。
その夜、僕の前にあったのは、まさにそういう問いだった。
けれど、僕は答えられなかった。
モニターの警告音が、鋭く空気を裂いた。看護師たちの視線が一斉に僕に突き刺さる。
本来なら応援を呼び、最低限の処置を続ける。酸素を送り、経過を観察し、変化があれば即座に動く。それが「普通の選び方」だった。
けれどあの夜の僕は違った。電話を一度かけただけで、手を止めた。何もせず、ただ胸の奥に空洞が広がっていくのを、ぼんやりと感じていた。
そうして動かないまま、モニターの波形を眺め続けた。
そのわずかな間に、少年は急変した。誰の手にも負えぬ速さで容態は崩れ、モニターの線は無情にも水平に伸びていった。彼は処置されることなく息を引き取った。
騒然とする現場。誰も大声で僕を責めはしなかった。だが、誰の目にも明らかだった。──判断が遅れた。それがすべてだった。
胸の奥で、何かがすっと遠のいていく感覚があった。歩いてきた道の先がふいに霞んで消えてしまったようで、どこに向かえばよいのか分からず、ただ立ち尽くすしかなかった。
数日後、病院のロビーで少年の母が嗚咽していた。僕に気づくとふらつきながら近づき、俯いたままかすれた声で言った。
「……どうして、助からなかったんですか……」
それは責めの言葉なのかもしれない。だが僕には、刃よりもずっと鋭く響いた。
誰も僕を公然と責めなかった。だからこそ、その声はずっと僕の中に残り続けた。
ああ、僕はただ、「そこにいただけ」だったのかもしれない。争うこともできた。けれど、しなかった。波風を避けるように、免許を手放した。それが、最も合理的だった。
その後の人生は、静まり返っていた。誰とも深く関わらず、何も期待せず、ただ生きるという動作だけを繰り返していた。
──気づけば、自分は、何ひとつ選ばずに生きていた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋。机の上には食べ終えた弁当の容器が積まれ、点けっぱなしのテレビでは昔のアニメが再放送されている。白い炎をまとう主人公が、仲間と共に闇へ立ち向かう場面が流れていた。
ぼんやりと眺めながら、子供の頃に抱いた憧れがかすかに揺れる。――しかしすぐに消えた。今の自分には、もう何も響かない。ただ画面だけが、無為に光と音を垂れ流していた。
そして問いだけが胸に残った。――この人生に、意味はあったのだろうか。
答えを探すこともなく、また同じ日々が続いていく。朝に目を覚まし、食べ、眠り、気づけば一日が終わる。それは次の日も、そのまた次の日も変わらず繰り返された。
そして、その連なりはある日、ふいに途切れた。
胸の奥に鈍い痛みが走り、呼吸が浅くなる。視界はにじみ、世界は静かに遠ざかっていく。音が遠のき、指先の冷えだけが妙に鮮明に感じられた。
救急の現場で幾度も見てきた症状――それでも、この瞬間の僕は誰にも助けを求めなかった。
死にたいわけではない。ただ、生きたいと強く願うほどの意志も、もう残ってはいなかった。
声を出そうとしても音にならず、胸の奥で空しく反響するだけだった。
心臓が止まる直前、ふと浮かんだ問いがあった。──これは、誰の人生だったのだろう。
その答えは、最後まで見つからなかった。ただ、選ばなかった人生が、確かにここで終わりを告げていた。
……闇に沈む意識の奥で、かすかな光が瞬いた。