空虚の白衣
白井悠真――それが、僕の名だった。
それ以上のことを、僕は自分について語れなかった。
三十歳。男。外科医。
並べてみても、そこに「自分」はいなかった。
目の前で行われているオペは、手順のすべてが決まっていた。出血も最小限で、縫合も滞りなく終わった。
「閉創、終了です」
助手の声が響き、僕はゆっくりと――銀色のメスを置いた。
金属がトレーに触れる“カン”という音が、白い空間に静かに溶けていった。モニターの波形は安定し、機械の電子音だけが、静かに拍を刻んでいた。
終わったのだと、頭では理解していた。けれど――胸の奥では、何も動かなかった。
この工程から結果までの決まった流れは、まるで――僕の人生のようだった。
僕は、決められた“答え”に辿り着くことは得意だった。けれど、自分だけの“答え”を見つけることは――できなかった。
オペの終わりも、僕の生き方も、同じだ。最善の結果を出すことはできても、“何のために”それをしているのか――その意味だけは、いつも置き去りにしてきた。
それは、三十年間、僕が“自分の意思”で、何ひとつ選んでこなかった結果だった。
そして、
これは――
僕の“この人生”が、もう一度だけ“選ばせた”物語だ。
異世界での僕の、もう一つの人生。
――「選択」と「意味」を知る物語。
◇ ◇ ◇
翌朝
勤務医の僕は、いつもの電車に乗っていた。それは、僕の――変わらない毎日だった。いつも通りの揺れの中で、ふと視線がモニターに止まる。
映像広告では、魔法使いの少女が仲間と共に、悪の魔法使いと対峙していた。――世界的ベストセラー小説を原作にした、シリーズ映画の宣伝だった。キャッチコピーには、こう記されていた。
「その選択が、未来を変える。」
――選択。
その一語が、僕の人生の“空洞”に響いた。
車輪とレールが擦れ合う音が、虚ろに、耳の奥を満たしていく。隣に立つスーツ姿の男は、無表情にスマホを見つめている。向かいの席では、学生らしき少女がイヤホンを耳に差し、窓の外へと視線を投げていた。
誰もが、決められた流れに身を委ねているように見えた。
けれど――心の中までは覗けない。それが、自分だけのことなのか。あるいは、周囲の誰もが同じなのか。
僕には、分からなかった。
◇
それも、外科医の僕には、周期的に訪れる光景だった。
白い紙の上で、黒い署名欄だけが沈黙している。診察室の机には、手術説明書と同意書が並んでいた。僕はその一枚を手に取り、患者と家族に向き直る。
「今回の手術は、胃の一部を切除するものです。
執刀は、僕が担当します」
声は自然と抑揚を失い、必要な情報だけを並べる調子になる。それが一番効率的で、誤解も生まれにくいと思っていた。
「出血、感染、縫合不全、肺炎といった合併症のリスクがあります。
可能性は低いですが、手術関連死の危険もゼロではありません」
患者の肩が小さく震えた。横に立っていた看護師が、不安を和らげる言葉を添えようと息を吸ったのが分かった。だが僕は、そのまま説明を続けて遮った。
「術後はおよそ十日ほどの入院が必要です」
机の上の同意書を、患者の前に押し出す。
沈黙。
家族が視線を交わし合い、ためらいながらペンを取った。
「……先生、本当に、大丈夫なんでしょうか」
かすれた声に、一瞬だけ胸が揺れた。ここで何か、安心させる言葉を添えるべきだと分かっていた。それでも、僕の口から出たのは冷たい現実だけだった。
「安全に配慮して行います。
ただ、保証はできません」
患者の表情に影が差す。その視線は、僕の胸に確かに突き刺さっていた。――けれど、結局僕にはそれ以上の言葉が出てこなかった。説明は果たした。正しさは伝えた。だが、それ以上を求められたとき、僕は口を閉ざすしかなかった。合理的に進めることしか、できなかった。
患者が診察室を後にすると、短い沈黙が落ちた。
看護師が視線を伏せ、ためらいがちに口を開く。
「……先生、もう少し患者さんに寄り添った言葉をかけても、いいんじゃないでしょうか」
言い切ったあと、彼女は申し訳なさそうに小さく付け加えた。
「差し出がましくて、本当に申し訳ありません」
その声音は、叱責ではなく願いのように聞こえた。
けれど僕は、返す言葉を見つけられなかった。
外来を終え、廊下に出ると、蛍光灯が無機質に床を照らしていた。
消毒液の匂い。遠くで交わされる短い会話。どれも、僕には雑音でしかない。
スマホを取り出すと、医局から送られた来月のシフト表が通知に並んでいた。
当直は八回。理由は、分かっている。
不満も文句も言わないイエスマンの僕は、皆が嫌がる当直に、入れやすかったのだろう。
僕は、決まった通りに働くだけだった。
八回の夜は、八回の夜として過ぎていく。
与えられた役割を果たすこと。
それが、僕にとって唯一の自己肯定であり、他人と繋がるための手段だった。
そこに、選択も、意思も、なかった。
――僕は、いつから人生の意味を失っていたのだろう。
気づけばいつも、敷かれたレールの上を歩いていた。
そこに意味はなく、ただ「正しさ」だけが残っていた。
──白井悠真。
そう呼ばれたこの三十年ほどの人生を、
僕は一度も「自分で選んだ」と感じたことがなかった。
両親は医師だった。
だから、自分も医師になるのが当然だと思っていた。
進む道は、最初から整えられていた。疑うこともなく、「正しさ」に従って歩いた。
子供の頃から、努力はした。期待には応えた。優秀だと褒められ、信用もされた。
そして成長とともに、それはやがて「効率」を重んじる歩みへと変わっていった。
医師としての日々は、静かだった。
感情を切り離し、冷静に判断し、最小のリスクを選ぶことこそが――自分に課された「役割」だと信じていた。
……きっと、この人生には、何かが欠けていた。
そして、あの夜が訪れた。
──八回目の当直の夜だった。
深夜の病院は、異様なほど静まり返っていた。廊下に響くのは、時計の秒針の音だけ。外来の灯りはすでに落とされ、処置室の蛍光灯だけが白く冷たく輝いている。
その静けさを切り裂くように、サイレンの音が近づいてきた。
救急搬送で運び込まれたのは、十代の少年。交通事故による多発外傷――血に濡れた身体が担架の上で震えていた。
三十を過ぎると、責任は自然に自分の肩へと降りかかるようになっていた。専門医は呼び出したが到着まで時間がかかる。判断を下すべきは、その場にいた僕だった。検査結果は曖昧だった。
脳に損傷の影があるが、致命的かどうかは断定できない。
助かる可能性は残されている。
だが、手術には高いリスクがある。
──どちらにも明確な「正解」はなかった。
医療には正解のない問いがある。
どちらを選んでも、命を失うかもしれない。その夜、僕の前にあったのは、まさにそういう問いだった。けれど、僕は答えられなかった。
モニターの警告音が、鋭く空気を裂いた。看護師たちの視線が一斉に僕に突き刺さる。本来なら応援を呼び、最低限の処置を続ける。酸素を送り、経過を観察し、変化があれば即座に動く。
それが「普通の選び方」だった。けれどあの夜の僕は違った。電話を一度かけただけで、手を止めた。
何もせず、ただ胸の奥に空洞が広がっていくのを、ぼんやりと感じていた。
そうして動かないまま、モニターの波形を眺め続けた。
そのわずかな間に、少年は急変した。
誰の手にも負えぬ速さで容態は崩れ、モニターの線は無情にも水平に伸びていった。
彼は処置されることなく息を引き取った。
騒然とする現場。誰も大声で僕を責めはしなかった。
だが、誰の目にも明らかだった。
──判断が遅れた。
それがすべてだった。
胸の奥で、何かがすっと遠のいていく感覚があった。歩いてきた道の先が、ふいに霞んで消えてしまう。どこに向かえばいいのか分からず、僕はただ立ち尽くすしかなかった。
数日後、病院のロビーで少年の母が嗚咽していた。僕に気づくとふらつきながら近づき、俯いたままかすれた声で言った。
「……どうして、助からなかったんですか……」
それは責めの言葉なのかわからない。だが僕には、刃よりもずっと鋭く響いた。
誰も僕を公然と責めなかった。だからこそ、その声はずっと僕の中に残り続けた。
ああ、僕はただ、そこにいただけだったのかもしれない。
僕は、波風を避けるように、病院を辞めた。それが、最も合理的だった。
その後の人生は、静まり返っていた。
誰とも深く関わらず、何も期待せず、ただ生きるという動作だけを繰り返していた。
──気づけば、
自分は、何ひとつ選ばずに生きていた。
カーテンを閉め切った、薄暗い部屋。机の上には、食べ終えた弁当の容器がいくつも積み上がっている。つけっぱなしのテレビでは、大ヒット映画の一作目が再放送されていた。
――魔法使いの少女が、仲間と共に闇へ立ち向かう場面。
子どもの頃、兄と姉と一緒に映画館で観た作品だった。あれから、もう何十年も経つ。原作はとっくに完結しているらしいが、僕は結末を知らなかった。
第五作の公開以降、権利の問題か何かで続編は作られなかった。だが最近になって制作が再開され、再び人気を集めている。キャストも一新されてしまい――もう、僕の興味はそこにはなかった。
それでも、たしかにあの頃の僕は、この物語に登場する一人の魔法使いに、強く憧れていた。
テレビの光が、容器の山に淡く反射する。かすかな記憶が、胸の奥でふっと揺れる。
――だがすぐに、静かに消えた。
今の自分には、もう何も響かない。
ただ、画面だけが無為に光と音を垂れ流していた。
そして問いだけが胸に残った。
――この人生に、意味はあったのだろうか。
答えを探すこともなく、また同じ日々が続いていく。
朝に目を覚まし、食べ、眠り、気づけば一日が終わる。それは次の日も、そのまた次の日も変わらず繰り返された。
そして、その連なりはある日、ふいに途切れた。
頭の奥で鈍い痛みが弾け、視界がにじむ。体の右側の感覚が、すっと消えていった。世界が静かに遠ざかっていく。音が薄れ、指先の冷えだけが妙に鮮明に感じられた。
救急の現場で、幾度となく見てきた症状――それでも、この瞬間の僕は、誰にも助けを求めなかった。
死にたいわけではない。
ただ、生きたいと強く願うほどの意志も、もう残ってはいなかった。
声を出そうとしても音にならず、胸の奥で空しく反響するだけだった。
死の直前、ふと浮かんだ問いがあった。
──これは、誰の人生だったのだろう。
その答えは、最後まで見つからなかった。
ただ、選ばなかった人生が、確かにここで終わりを告げていた。
……闇に沈む意識の奥で、かすかな光が瞬いた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、大河ファンタジーを目指しており、
アーシェという一人の主人公の“異世界での人生”を丁寧に描いていきたいと思っています。
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