最後のシフト
夜が、ゆっくりと世界を包み込んでいく。
夕陽は静かに沈み、その座を月と星へと譲り渡す。
灰色に染まる空の下、俺の夜のルーティンが始まった。
――別に俺はヴァンパイアでも、夜行性の怪物でもない。ただの人間だ。ただの、生きるためにもがいてる人間。
俺にとって夜は、休息の時間じゃない。働く時間だ。
俺の仕事は、イナマートの夜間レジ係。
この国で最も有名なコンビニチェーンのひとつだ。ライバル? まあ、ベタマートとかジョーマートとか……どこも熾烈な戦いを繰り広げてる。
運命か、カルマか、それともシフト管理の悪意か。
気づけば俺はこの店の“夜勤固定”要員になっていた。
ローテーションも、交代制も、存在しない。完全固定。
理由は「説明するとややこしいから」だって? はいはい、つまり「お前しか断らないから」ってことだろ。わかってるって。
本来、夜勤は二人一組でやるもんだ。
でも今夜も――というか、ほとんど毎晩のように――俺はひとり。
まあ、正直それで構わない。
客なんて数えるほどしか来ない。
あとはひたすら暇な時間。大量に。
掃除とか在庫チェックとか、やるべきことはある。
……けど、実際のところ、俺はただカウンターでぼーっと座って、ダラダラしてるのが好きだった。
「はぁぁぁぁぁ……」
長いため息が漏れる。
正直、働くのなんて大嫌いだ。
でも……それ以上に、空腹が嫌いなんだよな。
この世界は、金によって回っている。
金こそが神。金こそが空気。
人は朝早く起きて、必死に働き、プライドすら売って、紙切れや数字のために生きている。
金なんて大嫌いだ。けど、必要なんだ。
……皮肉なもんだよな。
「お金じゃすべては買えない」って言うけど、すべてに金が必要だろ。
金が動けば物が動く。
物は技術から生まれ、
技術は――人間の知と野心の子供だ。
止まることなく、時間のように前へ進む。
一秒、一分、一時間……
一日、一週間、一年――
そして、気づけば「未来」だ。
人間は常に進化を望む。もっと先へ、もっと上へ。
そのために何でも創る。
ロボット、AI、宇宙コロニー、果ては大量破壊兵器まで。
人は、欲深い。
限界に触れ、やがてその限界を越えた。
まるで神の領域で遊ぶかのように。
――俺? 俺は関係ない。
俺はただの夜間レジ係。たまにミネラルウォーターを切らすコンビニで、ひっそり働いてるだけ。
技術も、戦争も、創造も、破壊も……そんなの、俺の人生には無縁だ。
……さて、くだらない話はこのへんにしようか。
その夜、小雨が街を濡らしていた。
俺はレジカウンターの奥に座り、ぼんやりと蛍光灯の下で時間を潰していた。
冷たい空気が服の隙間から忍び込んでくる。
そのときだった。
店の外、ガラス越しに――
誰かが、立っていた。
黄色いレインコート。
じっと、動かずに店を見つめている。
まるで時間が止まったかのように、まばたきひとつせず。
……数分後、その人は店に入ってきた。
びしょ濡れ。
ゆっくりとした足取り。
真っ赤な瞳で、真っすぐ俺を見てくる。
顔は、影と雨でよく見えない。
でも、はっきりわかる――俺を見てる。まっすぐに。
その手に持っていたのは……
傘、じゃない。
――刀、だった。
え? 刀?
強盗? コスプレ? それとも……ヤバいやつ?
一歩、また一歩。
彼の足音が、時間を切り裂くように響く。
心臓が激しく脈打つ。
手のひらが汗ばみ、足は震えるのに動かない。
……こいつ、普通の人間じゃない。
そして、彼が口を開いた。
声は低く、深く、井戸の底から響くようだった。
「……お前が……世界を……救え……」
――は?
え? 今、なんて言った?
レインコート着て、赤い目して、刀持って現れたやつが?
……世界を救え、って?
思考が停止した。
言葉が出ない。
質問する暇もなく――彼は刀を持ち上げた。
時間が止まる。
斬られる――そう確信した瞬間、
俺の体は勝手に動いていた。
カウンターの下からバットをつかみ、
力いっぱい、彼に向かって振り抜いた。
――シュンッッ!! バキィィィン!!!
……バットは、真っ二つに折れた。
でも、それは受け止められたからじゃない。
斬られたからでもない。
――まるで、“切り裂かれた”かのように。
俺は吹き飛び、床に尻もちをついた。
息が荒くなる。
そして、凍りついた。
……彼はまだ刀を抜いていなかった。
鞘に収めたまま、微動だにせず立っていた。
まるで――“怪物”だった。
手が震える。心臓が潰れそうだ。
鞘に手をかけ、いつでも抜ける態勢。
俺は、パニックになっていた。
でも、そのとき俺の頭に浮かんでいたのは――
「……まさか、レジ金狙いじゃないよな?」
ポケットから小銭を取り出し、震える手で床にばらまく。
必死にかき集め、差し出そうとしたその瞬間――
彼は、もういなかった。
音も、気配も、何も残さず。
ただ――ひとつだけ、残されていた。
カウンターの上に、
静かに置かれた一本の刀。
……俺は凍りついた。
「……なんだ、これ。」
強盗にしては不可解すぎる。
殺す気なら、できたはずだ。
何も奪わず、何も言わず――刀だけを残して消えた。
刀を見つめながら、俺はつぶやいた。
「……ま、バットの代わりってことで。」
でもなぜだろう。
この刀、妙に……重い気がした。
深く息を吸う。
朝になり、交代の二人がだるそうにやってきた。
俺は黙ってうなずき、店を出た。
話す気にはならなかった。
あまりにも奇妙で、現実味がなさすぎる。
外はまだ雨。灰色の空。人の少ない道。
家に帰って顔を洗い、適当に飯を食って、眠る。
――また夜が来るのを待ちながら。
昨日と同じように。
その前の日とも同じように。
また夜が来る。
小雨は止まない。冷たく、静かに降り続ける。
俺は準備をして、服を着替え、夜の朝食を済ませ、家を出る。
そして今回は――あの刀を持っていく。
あの、黄色いレインコートの男が残した、正体不明の“遺品”。
けれど、家を出てたった五歩のところで――俺は異変に気づく。
地面に亀裂。
歩道がひび割れ。
隣の家の瓦が落ち、数軒の家が倒壊していた。
……今朝までは、何の異常もなかったはずなのに。
俺は、何かを見落としていたのか――?
……わからない。