第48話 雪女の猛攻に凍り付いた9月の海!
現在の日本においては温暖化の影響で9月中旬の気候は真夏とそうは変わらない。それにもかかわらず、お雪と呼ばれる一人の女が登場した事によって局地的にではあったが、この周辺一帯が一気に冬と化したかの様に急激に冷え込んでいた。
女を中心にして木枯らしに似た寒風が吹き荒れる渦巻きが発生し、その中で雪が舞い狂っていた。しかし奇妙な事に、夜空にひと際輝く満月を覆い隠す黒雲など一切認められず、この地域における海面の凪ぐ穏やかな気象状況が急変した訳でも無いのだ。
まるで、空中に浮かぶ女を中心にした空間だけが突然に冬と化したかの様な、奇妙としか言いようの無い気象状況を呈しているのだった。天変地異とは、この様な事を言うのであろうか?
なぜ、このような現象が生じているのか…? もちろん、この突然出現した美しい女のせいである。
この『お雪』と呼ばれた女こそ、日本各地で古来より昔話や伝承として語り継がれる『雪女』や『雪女郎』と呼ばれる妖怪変化そのものなのであった。
今、目の前で現実に天変地異を生じさせている妖怪雪女は、かつて江戸時代のある地方の村において多くの旅人を凍らせて死に至らしめるという悪行を繰り返していた。困り果てた村長からの依頼で村を訪れた魔槍『妖滅丸』を携えた青方 龍士郎と名乗る一人の高潔な武士によって雪女は退治され、『妖滅丸』内部の異空間に封じ込められたのだった。
以来、この『青方』姓を名乗った武士の家に代々家宝として伝えられて来た『妖滅丸』内に長年に渡って雪女は封じられていたのだ。
この『妖滅丸』が何故、獣人白虎に変身する私立探偵である千寿 理の手に渡るに至ったのかは筆者が著した別の物語で語られているので、ここでは割愛する。
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「ううぅ、寒い…」
身体の前に手首で縛られたままの両手を胸に当て、くみは突然訪れた寒さに身を震わせた。原子力潜水艦『クラーケン』の甲板上に立つ彼女にとって周りの気温が一気に20℃ほども下がってしまったのだから無理も無かった。くみは防寒着を着ている訳では無いのだ。
「モタモタするんじゃない、早く原潜に乗るんだ。」
前を歩くカニの王がイライラしたような声で、急かす様にくみに言った。すでに人間では無くなっている、この怪物にはくみほどの寒さを感じないのだろう。
二人の乗ったヘリは無事に原子力潜水艦『クラーケン』の後部甲板に着艦し、ヘリを降りた二人は『クラーケン』の乗組員に誘導されて艦内へと入るべく巨大な原潜の甲板を艦橋に向けて歩いているところだった。
初めて潜水艦の甲板上などという不慣れな場所を歩くくみにしてみれば、たとえ急かされても早く歩けるはずが無かった。彼女は仕方なく、覚束ない足取りながらも先ほどまでの潜航で海水に濡れた甲板の上を入り口のある艦橋に向かって歩いた。その彼女の頬に冷やりとした何かが一瞬触れたかと思うとすぐに消え去った。何事かと思ったくみの目の前にひらひらと舞い落ちて来る白く小さな欠片…
「え? 雪…? 何で…9月に雪なんかが?」
冷え込みに身を震わせながら、空を見上げたくみは一瞬自分の目を疑った。自分の頭上では信じられない現象が起こっていたのだ。
空には獣人白虎が乗る燃え盛る車輪の形状をした妖怪『火車』が、まだ動きを見せようとしないまま飛行していた。そこから少し離れた、ちょうどくみ達の乗る原潜『クラーケン』の真上の空域に、白虎達とほぼ同じ高度で竜巻に似た渦巻き状の空気の流れが生じていたのだ。しかも信じられない事に、その渦巻きの中では気流に乗った大量の雪がまるで吹雪の様に舞い狂っているのだった。
「あ、あれは何…? あの渦巻きの中だけ雪が降って…吹雪いてる?」
どういう訳か、まだ残暑の厳しい9月中旬における海水も暖かい日本近海の上空に、突然発生した内部に吹雪の吹き荒れる空気の渦が居座っているのだった。そして、その吹雪の渦はまるで『クラーケン』を狙ってでもいるかの様に真上にピタリと静止しているのだ。
「ぬぬぬぬ… あんな気象現象なんて見た事も聞いた事も無いぞ。」
くみの前で同様に空を見上げていたカニの王が唸った。
もちろん、こんな気候現象など現実にある筈が無かったのだが、日本人なら誰でも知っている昔話に登場する雪女などという妖怪変化が実在したという事実を知らない者に理解する事など到底不可能だった。
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「ほほほほほ! 主様ぁ、あの鉄で出来た妙ちくりんな形をした船を動けなくするだけでいいのかえぇ? それくらい妾には、いと容易き事なりぃ。
その目で、よ~く見ておられよ!」
見た目こそ妙齢の妖艶な美女にしか見えない妖怪雪女はそう声高に叫ぶと、真っ赤な紅を引いた形の良い口をカッと開いた。綺麗な並びのお歯黒を塗った上下の歯を開いた彼女の喉の奥から唸りを上げて突風が吹き出し、大量の雪とともに吐き出された。
ごおおおおおおおおーっ!
空中に浮かぶ雪女の周りに舞い狂っている雪の渦よりもさらに凄まじい勢いの吹雪が、真下に向けて開いた彼女の口から迸り出た。いったいどんな呼吸機能をしているのだろうか、息継ぎなど必要としないかの様に雪女の口から吹雪が吐き出され続ける。
雪女の吐き出す猛烈な吹雪が凄まじい勢いで真下の海に停泊する『クラーケン』に襲いかかった。
「待て、お雪っ! 凍らせるのは、あの船じゃねえ! 周りの海を凍らせて船を閉じ込めるんだ! 船の内外に乗った人間を絶対に凍らせるんじゃねえぞ!」
慌てた白虎が雪女に向けて叫んだ。すると雪女は口から猛吹雪を吐き出し続けながらも、了解した返事の代わりに白虎に向けた美しい目を僅かに細めて微笑んで見せた。おそらく、承知したと言う彼女の意思表示なのだろう。
ごおおおおおおおおーっ!
雪女は口から猛吹雪を吐き出し続けながら、首をぐるりと動かし始めた。『クラーケン』を中心にした周囲の海に向けてゆっくりと息を吹きかける様に…
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自分達が乗った『クラーケン』の上空で渦を巻いている奇妙な竜巻から突然吹雪が吹きつけて来たかと思うと、その後すぐにくみは上空で叫ぶ白虎の声を聞いた気がした。何と言っているかまでは分からなかったが、『クラーケン』に直接向いていた吹雪は向きを変えて艦の周辺の海面に円を描くように吹き付けられる様になった。
ピキッ、ピキピキピキッ! ピシッ! カシーンッ!
「あ、あれは何の音…?」
『クラーケン』を取り囲む海面のあちこちから、奇妙で鋭い音が鳴るのを聞いたくみが不安げにつぶやく。寒くてたまらなかったが、彼女には意味不明の音が暗闇に包まれた周囲のそこかしこで聞こえて来る事の方が恐ろしかった。今、原潜『クラーケン』の真上にいる奇妙な竜巻のせいでくみ達の元へは明るい満月の光が届いていないのだった。周囲が暗いのと吹き荒れる吹雪のせいもあって視界が著しく悪化し、全くと言っていいほど『クラーケン』周辺の海面が見えないのだ。
ピシッ! ピシッ! ピキピキピキーッ!
吹き荒れる吹雪と聞こえて来る奇妙な音は、くみの脳裏にあるイメージを浮かばせずにはいられなかった。
「ひょっとして… この音は海面が凍り付く音じゃ…?」
彼女は季節外れの猛吹雪が海面を凍り付かせるイメージが頭に浮かんだのだ。南極や北極でもでもあるまいし、9月の日本近海でそんな事が起こる筈が無い…くみがそう思った次の瞬間だった!
バキバキバキッ! メキメキメキッ!
ググググググーッ!
今までよりも恐ろしい音がすぐ近くで鳴り響いたかと思うと、全長100mを越す巨大な『クラーケン』の艦首部分がググっと持ち上がり始めたではないか。
「キャーッ!」
甲板に乗っていたくみとカニの王、そして二人を艦内へと誘導するために甲板に立っていた2名の原潜乗組員が、艦首が持ち上がった事により当然下がっていく艦尾の方へと着艦していた武装ヘリと共に滑り落ち始めた。
ガキッ!
カニの王が左腕の巨大なカニ爪を『クラーケン』の硬い甲板に突き立てた。頑丈に作られた潜水艦の外殻を物ともせずにカニの鋭い爪は見事に突き立った。自分が転がり落ちるのを防いだカニの王は、次に人間の形状を残した右腕で同じく艦尾へと滑り落ちようとしていたくみの縛られたままの両腕をがっしと掴んだ。すでに人間では無くなったカニの王の強靭な膂力を持ってすれば、華奢なくみの身体など片腕でも軽々と持ち上げる事が出来た。カニの王にとってはくみは人質であるだけでなく、特別に大切な存在でもあったのだ。支配者である自分の意志以外で彼女を危険な目に遭わせる訳にはいかなかった。カニの王とくみは滑り落ちるのを免れたが、彼らの乗って来た武装ヘリは低くなった艦尾方向へと滑り続けた。
すでに『クラーケン』の船体は艦首が30度ほども持ち上がっていた。くみ達と同じく何とか甲板にしがみつこうと必死で足掻いていた2名の原潜乗組員は、奮闘むなしく凍り付いた甲板上を転がり落ちていった。しかし、彼らが武装ヘリと共に落ちた先は通常の海水ではなく、硬く凍り付いた氷の上だったのだ。
ガッシャーンッ! バキバキバキッ!
「ぎゃあああーっ!」
「HELP!!」
硬い氷に叩き付けられた武装ヘリが無残にも壊れる音が2名の乗組員達が上げた悲鳴と共に周囲に鳴り響いた。
心の優しいくみにとっては、たとえ敵であろうと、またしても自分の身近で尊い人間の命が奪われたのが大きなショックだった。本当なら悲鳴や破壊音から耳を塞ぎたかったが、縛られた腕をカニの王にぶら下げられている身とあっては、それも叶わなかった。
先ほどから暗闇でくみが耳にしていた奇妙な音は、『クラーケン』を囲む海水の表面が凍り付き、固体となった海水が氷山の様に隆起してぶつかり合って立てていた軋み音だったのだ。
ギシギシギシッ!
そして、巨大で重い原子力潜水艦『クラーケン』の船体を持ち上げていたのは、この凍り付いた海面から氷山の様に隆起する固体化した海水の仕業だったのである。いかに最新鋭の性能と装備を誇る原子力潜水艦といえども、驚異的とも言える自然の力の前では成す術も無かった。膨大な量の海水が凍結した氷に閉じ込められたばかりか、軽々と船体を持ち上げられて潜航どころか航行さえ不能に陥っていたのだ。
さらに驚いた事に、凍っているのは『クラーケン』の周りの海水だけでは無かった。閉じ込められた『クラーケン』を中心とした半径1kmほどの海域の海面が一斉に凍り付いていたのである。つまり、たった数分にして全長が直径2kmほどにも及ぶ巨大で分厚い氷の島が出来上がり、中心に全長100mあまりの『クラーケン』を閉じ込めてしまったのであった。
これが、見かけは白装束姿の華奢な美しい女にしか見えない妖怪『雪女』が、たった一人で引き起こした状況なのである。それにしても、恐るべしは妖怪雪女の能力…
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「ようし、よくやった! でかしたぞ、お雪! これで邪魔っけな『クラーケン』は航行不能だ。『大海妖』の仇は討ってやれたな。」
妖怪『火車』の背に乗って上空を飛行する白虎が、眼下の光景を見下ろしながら満足げな表情で言った。
「乗って来たヘリはぶっ壊れたし、『クラーケン』があの様じゃあ、もうカニ男はこの広い海上をどこへも逃げられねえ。
よし、くみを取り返しに行くぞ。『火車』! あの氷の上に俺を降ろせ!」
「御意」
火炎車輪妖怪である『火車』は主である白虎の命令に従い、雪女の作り出した氷の島へと降下を始めた。
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「クソっ! 役立たずのクソ原潜が! とにかく、この『クラーケン』から降りるぞ。このままじゃあ、冷凍ガニになっちまう…」
『クラーケン』の硬い甲板に左手のハサミを突き刺して滑り落ちるのを防ぎながら、そう毒づいたかと思うとカニの王は右手にぶら下げたくみの身体を自分の方へ軽々と引き寄せた。
くみは嫌でたまらなかったが、今掴まれている手を放されたら憐れにも先に転がり落ちていった二人の原潜乗組員と同様、自分も数十m下の硬い氷上に叩き付けられるだろう…そう思うと、不本意ではあっても彼女は憎いカニの王のなすがままにされているしか無かった。
カニの王の力強い右腕と、人間のような温かさの感じられない不快な身体に抱きしめられた格好になったくみは自分の足元でカサカサと妙な物音がするのを感じ、急いでそちらへ目を向けた。
「え? 何…? うそ!」
すぐ直下に彼女が見たのは満月の月明かりに照らされた自分とカニの王の下半身だったわけだが、そのカニの王の下半身で人間の形状をしていた二本の脚が、気味の悪い変形を始めていたのだった。それまでは二本だった左右それぞれの素脚は四つの枝に分かれ、細く分枝した脚がそれぞれ太く硬く、そして長く変形していく。
左右四本ずつに分枝した計八本の長く伸びた脚は人間とは異なる関節で構成され、赤い色をした硬い表面に無数のトゲ状の突起が生えた甲殻類の特徴を持った外骨格の脚へと変化していったのだ。
カニの王はヘリに乗る前にこの姿をしていたので初めて見るわけではなかったが、自分のすぐ目の前でおぞましい姿をした怪物の下半身に変身していくのを見るのにくみの神経は耐えられなかった。
「うっ! げええぇ…」
くみはたまらずに吐いたが、この数時間飲み食いをしていなかった彼女の吐き出した吐瀉物は苦い胃液だけだった。
「どうした、くみ? 君は僕の妻になるんだから、そろそろ人間以上の生物に進化した僕のこの美しく優れた姿にも慣れてもらわなくちゃね。
どうだい? この脚なら『クラーケン』の硬く凍った甲板上でも滑りはしないよ。ふふふ…君と二人で、あの気の毒な乗組員達みたいに無様に落ちたくはないからねw」
ガシッ、ガシガシガシ…
それまで 『クラーケン』に突き立てていた左手のハサミを引き抜いたカニの王は、完全に外骨格化を遂げた先端が鋭く尖った八本の脚を表面が凍り付いた硬い原潜の外殻表面に突き立てながら器用に歩き始めた。人間の二本脚では、たとえ金属製のアイゼンが付いた登山靴を履いていても、こう上手くはいかなかっただろう。
現在、30度に艦首をもたげた形で艦の中央付近が凍り付いた海面に突き刺さった様に閉じ込められている原潜『クラーケン』の艦橋後部甲板を、下半身が巨大なカニの姿と化したカニの王がくみを右腕に抱えたまま横歩きで降りていくという、幻想的な光景が満月下の洋上に展開されていた。まさに夢の中でしかお目にかかれない様な光景だった。
「しかし、見事に凍り付いたものだな… まだ季節は9月の中旬だってのに。しかも、ここは南極じゃなくて日本近海だよ。」
『クラーケン』の艦上から氷の島と化した海水の上に降り立ったカニの王は、抱いていたくみを氷上に下ろして周囲を見回しながらつぶやいた。
寒さに震えながら、くみは上空を見上げた。さっきまで空中に存在していた吹雪の渦は、すでに消え去り、美しい満月が煌々と下界を照らしているばかりだった。
そして、くみはその澄んだ夜空にいるべきはずの姿が存在しないのに気が付き愕然とした。
「た、探偵さんが…いない?」
慌てたくみは必死になって頭上の夜空を見回したが、洋上の夜空に隠れる所など存在しない。現在、彼女達のいる氷の島の周囲には海と空しか無かった。遥か遠方に日本の陸地が見えはするが、さっきまで頭上を飛行していた妖怪『火車』の姿は確認出来なかった。あの車輪型をした妖怪は炎を身に纏って回転しながら空を飛ぶのだ。これ以上、夜空に見えやすい姿をした存在は無いのだから、広い太平洋の上だとしても彼女が見つけられない筈が無かった。なのに、その姿は…見つけられなかった。くみが頼りとする探偵、千寿 理が変身した白虎の姿は無かったのだ。
「そんな…」
くみは身体中の力と気力が消え去った気がして足元がふらついた。
『もう終わりなんだわ…』
絶望感によろめくくみの身体を、傍にいたカニの王の力強い右腕が伸びて来てしっかりと支えた。
「ふふふ… ふははははは! 僕はヤツに勝ったんだ!
『クラーケン』で逃げるのは失敗したが、しつこかったヤツも遂にあきらめたみたいだ。くみ、君はヤツに見捨てられたんだよ。
ははははははは!」
全長が直径2㎞にも及ぶ氷の島のほぼ中心に立ったカニの王の上げる高らかな笑いが静かな夜に響き渡った。
自分の唯一の希望だった白虎が姿を消し、絶望に打ちひしがれたくみは、その高笑いから耳を塞ごうとしたが両手首を縛られたままの彼女には悲しい事にそれさえ出来なかった。
「ひひひひひ、うひひひひ…
僕はカニの王なんだぞ。こんな海を渡るなんて造作もないさ。陸地に戻ったら、再びカニの王国を築いて人間の世界を支配するための活動を開始してやるよ~ん! うひゃひゃひゃひゃ!」
絶望に打ちひしがれて冷たい氷に膝をついたくみの横で、勝ち誇るカニの王の狂ったような笑いが氷上に響き渡った時だった。
「そんな事させるかよ」
突然、上方から、低いがハッキリとした声が聞こえて来た。
二人だけとなった広い氷の島に突然その声が聞こえた時、カニの王の高笑いは止まり、絶望に打つひしがれて身体中の力が抜けていたくみの身体がビクッと反応した。
「こ、この声…」
二人は同時に同じ言葉を発した。




