第40話 追いつめられたカニの王
「待ってろよ、すぐに行くからな。」
そう言った探偵は監視カメラの死角となった暗がりへと姿を消した。
カメラを通してモニター越しに探偵が自分に向かって指を突き付けているのを見たカニの王は、パニックを起こして慌てふためいた。
「ど、どうしよう? ヤツがこっちに来るぞ…」
目の前でオロオロと行ったり来たりを繰り返すカニの王に向かってくみが軽蔑を込めた表情を浮かべて言った。
「あなた、もうダメよ。探偵さんが必ずあなたを倒しに来るわ。観念する事ね。」
それを聞いたカニの王が立ち止まり、くみの方に顔を向けた。その、右半分が人間で左半分がカニの怪物という恐ろしい顔の右目が血走っていた。その表情を見たくみは自分が放った言葉を後悔した。
「くっそおおおーっ!」
半狂乱気味に叫んだカニの王は素早い動きでくみの傍に駆け寄るや否や、彼女の細い首を人間形状のままの右手で掴んだかと思うと片腕一本だけでくみの身体を軽々と高く持ち上げた。
「うぐっ! ぐううう! く、くるし…」
恐ろしい力で首を絞めつけられ、息の出来ないくみは苦し気な唸り声を上げるしか成す術が無かった。両手を後ろ手に縛られていた彼女は抵抗する事さえ出来なかったのだ。くみにしてみれば怪物の素手による絞首刑に遭っているのと同じだった。
「うっ、うううぅ…」
今度こそ殺されると思ったくみの気が遠くなりかけた時になって、ようやく強く首を締め付けていたカニの王の右手の力が緩められた。
「はあっ、はあっ、はあっ… ゲホッ、ゲホッ」
やっと拷問の様な苦しみから解放されたくみが貪るように息を吸い込んだ後、激しく咳き込んだ。
「今度僕に向かってふざけた事を言ったら、君でも殺すからね…」
まだ咳き込み続けるくみの顔を覗き込んだカニの王が低い声で囁いた。そう告げたカニの王の口調は、いつものふざけ半分の軽口では無く、くみを見つめる彼の右目には紛れも無い憎悪と殺意が込められていた。
「しかし、アイツ… どうやって僕達を追って来てるんだ…? 正確に迫って来ている… それに、どんな罠も通じないなんて…ヤツはまさしくバケモンじゃないか。
信じたくないけど、あんな奴が相手じゃここもヤバいかもしれない… くっそぅ、ここは核爆発級の衝撃にも耐えられるシェルターなんだぞ!」
くみの傍から離れたカニの王が、誰に言うとも無く喚き散らした。
『この男は今、自分に迫って来る恐怖に半狂乱になっているんだわ…』
くみは心の中でそう思ったが、今度は口に出さなかった。次は間違いなく殺されると自分のの本能が告げていたからだ。
「ん? 何のつもりだ? ヤツの進行方向にあるカメラが壊されていくぞ!」
カニの王の言った通りだった。リレー中継の様にして順に切り替わる事で白虎の姿を継続して映し出していた監視カメラが次々に破壊されていく。
「ヤツがやってやがるんだ!」
カニの王が喚く。
くみは首を傾げた。なぜ白虎は監視カメラを破壊するのか?
わざわざカメラを破壊する意味が無いのだ。破壊されたカメラの地点に白虎が存在した事を自分で証明している事になるのだから、カメラによって居場所が発見される事と違いが無いのだ。
恐らく白虎は、カメラを次々に破壊する事でカニの王に自分が迫り来る事の恐怖を与えているのだろう。そして、監視カメラによる地下迷宮内を見渡す視界が次第に狭められていくという心理的恐怖も…
半狂乱に陥ったカニの王の姿を見る限り、その白虎の作戦は見事に功を奏していた。
「ここから逃げるべきか… それとも、ここに立て籠もっているべきか…」
カニの王がブツブツと独り言を発しながら、落ち着きなく歩き回っている時だった。
ドドオォーンッ!
出入り口の方から、もの凄い音がした。
驚いたカニの王とくみが同時にそちらを向くと、信じられない事が起こっていた。この指令室の入り口は分厚い鉄の扉で外部と隔てられていたが、その鉄の扉の中央辺りが部屋の内側に向けて山の様に盛り上がっているのだった。それは部屋の外側から強い力で衝撃を受けた鉄扉が内側へと突出した事を示していた。
ドオーンッ!
再びもの凄い音がしたかと思うと、二人が見ている前でドアの表面が内側へと飛び出して来た。もう、間違い無かった。何者かが外からこのドアに衝撃を与えているのだ…いや、信じられない事だが突出の大きさや床からの高さから見ても、何者かが鉄扉を殴りつけている事は見るからに明らかだった。
「ひいぃっ!」
カニの王が甲高い叫び声を上げた。突出した左のカニの目と同じ様に、彼の人間部分の右目も眼球が飛び出しそうなほど大きく恐怖に見開かれていた。じりじりとカニの王が鉄扉から遠ざかる。
「そ、そんな… この扉は厚さ2cmもある鉄板製だぞ…」
カニの王が驚愕の声を上げたのに続いてくみも叫んだ。
「探偵さんっ! 私はここに居るわ!」
『くみ! ドアから離れてろ! 今からこのドアをぶち破る!』
くみの声に応じる様に鉄扉の外から声が聞こえて来た。何度も殴られてドアが変形した事で出来た隙間によって、部屋の内外に音の行き来が出来る様になったのだ。
それを聞いたくみだけでなく、カニの王も揃ってドアの反対側に遠ざかった。巻き添えを喰らったら堪ったものでは無い。
一瞬の沈黙の後…
ドッカアァーンッ!
爆発の様な強い衝撃を受けて中央から二つ折りになった鉄のドアが部屋の内側に吹っ飛んで来た。扉の鍵と蝶番で繋がっていた鉄製枠と共に破壊された壁のコンクリート部分も飛び散った。その衝撃の強さからいって、白虎がドアを蹴破ったのだろう。それにしても何という破壊力だろうか…
ガイイイーンッ!
ドア枠から外れて吹っ飛んだ鉄製扉が室内の壁に恐ろしい勢いでぶち当たり、もの凄い音を上げた。
外側から破壊された扉付近には粉砕されたコンクリートの細かい破片が煙の様にもうもうと立ち込めていたが、室内の照明に照らされた入り口にヌッと姿を現した何者かがゆっくりと室内に入って来た。
そこに姿を現したのは、人間の姿をした自称『風俗探偵』こと千寿 理その人だった。
「よお、お二人さん。約束通りにやって来たぜ。」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべた探偵が室内に居た二人に向けて嘯いた。
探偵の着ていた服が榴弾の爆発でボロ切れと化した事は前に述べたが、全体的にスリムで筋肉質の彼が身に着けていたのは下半身に穿いた黒いスパッツの様なボトムスの衣料だけだった。恐らく彼の穿いているこのスパッツは特別頑丈で伸縮性に富んだ素材で作られたボトムスなのだろう。実際、これまでの彼の激しい行動でも子ガニ達の襲撃でも破損していない所を見ると、暴れん坊の彼専用に作られた特性コスチュームなのだろう。
この黒いスパッツのおかげで、くみも目を背けずに探偵の姿を見る事が出来た。
「探偵さん…」
まるで遭難中の人間が神か仏に出会ったかの様に感動的な表情を浮かべながら、震える声でくみがつぶやいた。
「き、貴様…」
震え声なのはくみと同じだったが、カニの王の方は遂に自分の前に現れた千寿に対する恐怖からだった。
「ふっ… 声が震えてるぜ、カニの大将よお。」
千寿が馬鹿にした様な笑いを浮かべた表情で言った。
自分に向けられた嘲笑に、カニの王の身体の震えが恐怖から怒りのそれへと変わった。怒りに力を得て恐怖の呪縛から解けたカニの王は、素早くくみの方へ近寄ったかと思うと彼女の細い腰に右腕を巻き付けた。
「うっ! イヤッ! 放して!」
再び捕らえられたくみは後ろ手に縛られたままだったので、激しく身を捩って抗ったがカニの王の強い腕はビクともしなかった。
「いいか、貴様! それ以上、僕の方へ近付いたら、この女の命は無いぞ!」
くみを自分の腕に捕らえた事で再び自信を取り戻したカニの王が、左手の巨大なカニのハサミを千寿に向けて突き出しながら嘲るような大声で怒鳴った。
「ちっ! 呆れるくらい陳腐な脅し文句を吐きやがって! テメエは、そんな風に卑怯なマネしか出来ねえのか!」
激怒した千寿が髪を逆立てながら一喝したが、くみを捕らえたカニの王は強気だった。
「ふん、卑怯もへったくれもあるもんか。頭のいい者が勝つのが、この世の真理ってもんなのさw」
「ううぅ… このクソ野郎があっ!」
卑怯なカニの王への怒りは、再び探偵の身体に異変を引き起こした。彼の肉体に獣人化現象が生じ始めたのだ。
黒いスパッツ以外は素肌を晒していた彼の引き締まった肉体にザワザワと白い剛毛が生え始めたかと思うと一気に伸び始めた。しかし、身体を覆った体毛は全体が白一色では無く、部分的に生えた黒い毛が身体全体に虎の模様を描き出していた。
探偵と自称する千寿 理は、姿形は人間の形状を留めたまま、獣人白虎と化したのだった。
「うっ、うわあああっ!」
カニの王とくみの二人が目にした二度目の獣人化現象だったが、カニの王は初回が監視カメラが映した映像をモニターを通して見ただけだったので、実際に肉眼で見る事となった今回はかなりの衝撃を受けて激しいパニックを来たしていた。
「すごい…」
くみの方は衝撃どころか、二度も目にする事が出来た奇跡に感動さえ覚えたほどだった。
しかし、再び変身した白虎もくみという人質を取られている以上、一気に飛びかかる様な乱暴な真似は出来なかった。
「くそっ、汚い真似ばかりしやがって…」
獣人白虎は鋭く巨大な牙でバリバリと歯ぎしりした。
「へっ! へへへ… そうだよ、大人しくしてるんだ。こっちには人質がいるんだからな。」
数m離れて自分と対峙した白虎に向けて、憎々し気な口調でカニの王が言い放った。
目の前で生の獣人化現象を見た瞬間は強いパニックに陥ったカニの王だったが、腰を捕らえたくみを自分の身体に強く抱き寄せる事で我に返り、再び脅し文句を吐く余裕を取り戻したのだった。
そして、くみの腰を捕らえた右腕で彼女の身体を軽々と持ち上げたまま、カニの王はジリジリと後退を始めた。彼が後ろ向きに寄って行こうとしているのは、部屋の一角に造られた、人が数人入れる広さの小部屋だった。彼はその小部屋にくみを連れ込もうとしていた。
距離を保ったまま、カニの王が後退するのと同じ速さで白虎もジリジリと追って行く。
白虎は僅かでも隙があればカニの王の目の前まで一気に跳躍し、くみを捕らえている右腕を噛み千切るつもりだった。今の彼には、そんな電光石火の早業が可能なのだ。
睨み付ける白虎の目の前で、カニの王とくみの二人が小部屋の中に入りきった時だった。
ガーッ! ガシィーンッ!
二人と白虎を隔てる空間に左右から突然同時に現れた金属製の隔壁が合わさった。
慌てて駆け寄った白虎だったが、時すでに遅く、白虎と二人の間を隔壁が遮ってしまったのだ。隔壁には透明な窓があり、二人が入った小部屋の中が見える。窓越しに覗くカニの王の顔が嬉しそうに笑っていた。
「ハッハハハハッ! 間抜けな白虎さん、あばよ!」
カニの王がそう言ったかと思うと、次の瞬間には隔壁の向こう側の二人が入った小部屋が上へと上昇し始めた。すぐに窓の向こうは真っ暗な空間へと変わった。
「しまった! 俺は何て間抜けなんだ… この小部屋は脱出用エレベーターだったんだ!」
白虎は自分自身を罵りながら、固く握りしめた右拳を隔壁の合わせ目めがけて思いっきり叩き込んだ。
ドッガーン!
そして左右の隔壁の中央に出来た窪みに両手をねじ込み、無理やり力任せに隔壁をこじ開けにかかった。閉じられた隔壁自体は非常脱出用に内部の人間を護るためにシェルター並みの強度だった。
メキメキメキッ!
油圧式の機械仕掛けで開閉する頑丈な隔壁の扉を、白虎の生身の両腕に込められた重機並みの馬力が無理矢理にこじ開けていく。
「ぐおおおおおおおーっ!」
雄叫びを上げながら力を込めた白虎の両腕の力にかかれば、この世に開かない扉など存在しなかった。
バキバキバキーッ!
バチバチバチッ!
隔壁開閉用の強靭な油圧シリンダーが捻じ曲がり、火花を撒き散らして幾つもの部品が弾け飛び、開閉装置そのものが完全に破壊された。
ガガガーッ
壊れたとは言っても、それぞれの重量が軽く百kgを超える隔壁を軽々と左右に押し広げた白虎は、すぐさま人を乗せたキャビンが上下に移動するための垂直通路であるエレベーターシャフト内部に飛び込んだ。シャフト内を見上げると真っ暗な空間が上へと続いている。
地上へと直通で結ぶ緊急脱出用エレベーターなのだろう。カニの王とくみの二人を乗せたキャビンは、この中を上昇していったのだ。
「待ってろ、くみ… この俺が必ず救い出してやる!」
真っ暗な頭上に向けて大声で叫んだ白虎は、垂直にそそり立つエレベータシャフトの壁面に手足の鋭い爪を突き立てて取り付くと、ボルダリングの様な突起物など一切無いコンクリート壁をよじ登り始めた。
またしても悪賢いカニの王に捕らわれの身となった薄幸の美女くみ…
無敵の獣人白虎と化した探偵は、果たして彼女を救う事が出来るのだろうか…?




