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隔たれた地図──見えざるナッジ  作者: 市善 彩華
第1章:ユニコーン/安らぎという名の入口
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第7話「微笑みの裏側にある真実(島外:アクシスタワー・ヴェリタス)」

静かに微笑むその裏側に、誰も触れられない秘密が潜む。

安らぎの影に揺れる見えない境界線。計画の枠組みを越え、静寂の中で静かに佇む何か――。

小さな部屋だった。


ここは、島外にある政府の中枢施設「アクシスタワー・ヴェリタス」の一角──各エリアの担当官僚が、計画の進捗をAIに報告するための閉鎖ブースである。

通常、一般職員は立ち入れず、報告内容も高度に暗号化されて記録されていた。


壁には窓もなく、音も光も均一に調整された空間である。中央のホログラム端末にだけ、静かに青白い光が灯っていた。


そこに映し出されたのは、各島の活動状況を示す複数のログ画面。現在フォーカスされているのは──E-Canaria、通称カナリア区。成人層(20〜39歳)の適応観察を目的としたエリアであり、感受性・共感性に重点を置いた行動誘導が行われている。端末やガイド機能を通じたナッジの影響を観察し、自然な選好形成の経過を記録していくのが主な運用目的だ。


「E-Canaria区、定例巡回の報告をお願いします」


落ち着いた合成音声が部屋に響いた。応じるように、スーツ姿の鈴木が椅子に座り、静かに頷いた。感情の起伏を見せず、淡々と報告を始めた。


「特筆すべき混乱は見られませんでした。対象者の多くは端末使用率も高く、ガイド機能への依存傾向も上昇しています。ナッジ反応も一定の成果を維持しています」


「逸脱傾向は?」


「現在のところ、大きな逸脱は検知されていません。ただし──」


鈴木は画面を切り替えた。蓮を中心とした数名の動線と、そこに接触する一人の人物のプロファイルが拡大表示される。


「一名、鳳凰 陽翔。彼は他の対象者から特に強い信頼を集めています。他の対象者──特に五十嵐 蓮との関係において、非典型的な信頼形成を見せています。行動履歴に表れる数値上の偏りはありませんが、体感的な影響力として看過できないレベルに達しつつあります」


「具体的には?」


「言語表現、態度変容、心的距離の縮小速度などにおいて、一般的な傾向をやや逸脱しています。五十嵐側の選好にも影響を与えており、今後の誘導効果にバイアスが生じる可能性があります」


「個人的関係性の形成、あるいは非公式な支援?」


「どちらかといえば前者ですが……現時点では推測の域を出ません。ただ、感情誘導の主軸が鳳凰側に偏りすぎる場合、ナッジシステムの本来の機能と干渉を起こす可能性があります」


「では、是正を?」


鈴木は一瞬だけ目を伏せた。だが声は変わらず、穏やかだった。


「現時点では、計画上の逸脱には至っておらず、明確な是正対象とは判断していません。相互関係を遮断することは可能ですが、それによって五十嵐側の適応度が逆に下がる恐れもあります。今は、双方の自発的な適応反応を見極める段階と考えています。そのため、現段階では観察対象として留意いたします」


室内の照明がわずかに変化した。別の音声が、淡々と指示を続ける。


「巡回頻度の増加を希望しますか?」


「今のところは不要です。次回の定期訪問は従来通り、二ヶ月後で問題ありません」


「了解しました。報告、以上でよろしいですか?」


鈴木はホログラム画面に映る蓮と陽翔の姿を一瞬だけ見つめた。画面越しの彼らは、ただそこに“在る”だけの記録だったが──脳裏に蘇ったのは、巡回時に蓮が言った言葉だった。


「陽翔さんは俺の推しなんです! 鈴木さんも、すごく話しやすくて意外でした。もっとお堅い方かと」


その言葉が鈴木の胸にふっと柔らかな温度をもたらす。あのとき蓮は、ただの“被験者”ではなく、素直で純粋な青年だった。感情を隠さずに言葉にしていた彼の姿が、薄く浮かび上がる。


思い出すべき過去があるわけではない。けれど、どこかで似たような光景を見たような既視感だけが、鈴木の胸を掠める。だが、それを言葉にすることはない。


「……以上です」


淡々とした返答とともに、鈴木の報告は終了した。部屋の照明がゆっくりと落ち、E-Canariaのログは静かに閉じられた。


次に再生されるのは、別島──R-1に関する報告だ。ログ画面が切り替わるのを待たず、鈴木は無言で立ち上がった。自分の管轄ではない。次の担当者と軽く視線を交わし、何も言わずに部屋を後にする。足音すら吸収される静寂の中、扉が静かに閉じられた。


鈴木は歩きながら、頭の中でまだ蓮の言葉を反芻していた。「陽翔さんは俺の推し……」その無邪気な言葉が、彼の心の奥に微かな光を灯していた。厳格で冷静な日々の中に潜む、小さな希望のようなものだ。


その瞬間だけ、彼の胸の内にほんの一瞬だけだが温かな感情が芽生えたことを、誰も知らなかった。


部屋を出て廊下を歩く鈴木の背中は、いつもの冷静な姿とは どこか異なっていた。足音は静かに吸い込まれ、通路の壁が淡い光を反射する。だが、彼の目はどこか遠くを見つめていた。


鈴木は心の中で問いかける。


「これが本当に計画通りなのか?」


彼の内心に微かな動揺が広がる。全ては完璧に制御されたはずの計画。しかし、そこに映る青年たちの人間らしい感情の波紋が、鈴木の心に影を落としていた。


鈴木は手元の端末を軽く握りしめた。画面には蓮と陽翔の行動ログが細かく表示されている。

数値は平穏を示していたが、そこには測りきれない何かがあった。


静かな廊下の空気が、わずかに重く感じられた。

鈴木の胸の内に、今まで感じたことのない違和感がじわじわと広がっていく。


「どこかで間違っているのかもしれない……だが、どうすればいい?」


彼は一度深く息を吸い込み、次の報告に向けて気持ちを切り替えようとした。しかし、その心はまだ揺れていた。


──そんな鈴木の姿は、誰にも知られることはない。

ただ静かに、計画は進行し続ける。

貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!

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