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隔たれた地図──見えざるナッジ  作者: 市善 彩華
第1章:ユニコーン/安らぎという名の入口
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第3話「穏やかな始まり(エコーチェンバー島)」

新しい場所で迎えた朝。

普段の習慣が少しずつ変わり、見慣れた日常とは異なる時間が流れていく。

日々の細かな出来事が積み重なり、心の中に静かな変化が芽生え始める。


淡い光に包まれながら、今日も一日が動き出す。

目が覚めたのは、8時を少し過ぎた頃だった。

外からは柔らかな陽の光が差し込んでいて、カーテン越しでも わかるくらいの晴天だ。ふわふわのベッドに包まれながら蓮は、まだぼんやりした頭で、いつもの癖のようにスマホを探した。


「……あ、そっか」


スマホは預けたんだった。入所の初日に提出して、もう手元にはない。ポケGOのアプリを開いて、ポケストップを回す。それが毎朝のルーティンだったのに。

指先がスマホの輪郭を探した瞬間、その習慣の喪失を実感して、少しだけ空白が広がった。


とはいえ、不便ではなかった。

施設内にはWi-Fiが飛んでいて、大きなタブレット端末が部屋に備え付けられている。YouTubeの視聴、ニュースの閲覧、音楽、読書、レシピアプリまで、検閲済みたいだが一通りのことはできる。SNSは制限されていたが、「たまには、こういうのもいいかも」と思える程度には、デジタルデトックスという言葉がしっくりきていた。


ふと、冷蔵庫を開ける。

すると、昨夜は なかったはずのスイーツが入っていた。丸みを帯びたカップに入った、とろけるカスタードプリン。

横にはパックの牛乳と、小さくカットされた果物が数種。


それは、自分で注文したものでは なかった。入所者には毎日一つ、スイーツが自動で届けられる仕組みになっていて、苦手なものは前日のうちにキャンセルが可能。プリンやチョコケーキ、シュークリーム、ティラミス、モンブランなどがローテーションされていて、毎日 些細な楽しみが待っている。


ちなみにタルト系だけは蓮の苦手ジャンルで、登録時に外してもらっていた。

「せっかくあるなら、もったいないし……」と、前もってアプリでチェックするのが習慣になりつつある。


朝食は食堂に行けば用意されているけど、冷蔵庫の中には自分で調理できるだけの食材も希望すれば毎日届く。

卵、牛肉、茄子、コーン、チーズ、豆腐……。

調味料は一通りそろっていて、最低限の調理器具もコンパクトに収納されていた。


「そのうち、料理とか上手くなっちゃったりしてな……」


笑いながら牛乳をコップに注ぐ。

水やお茶、ジュースも共用ラウンジで自由に取れるし、ポイント制には なっているけれど、日常生活で困るほど減るわけでもないらしい。


宅配ピザや宅配寿司のような“贅沢品”は事前申請が必要で、こちらは週に1〜2回が上限。けれど、そういう選択肢があるというだけで、気分転換の幅は随分違ってくる。


前に説明を受けた通り家賃、電気代といった“生活費”は、ここでは全て免除。必要なものは最低限整えられていて、労働の義務もない。

社会から一歩離れて、ただ“休むための場所”として、用意されている。


だからこそ、考えないといけない。

ここにいる間に自分は、どうなってしまうのか。

戻るときが来るのか、それとも……。


「まあ、考えても仕方ないか」


とりあえず、今日のおやつはプリン。

15時に食べるつもりだけど、朝から視界にあると少し気が逸る。


食べたい。でも、まだ。

その葛藤もまた、ここでの生活の一部だ。


ここに来る前は、お米一つ買うのも値上がりが気になってたのに、こっちじゃおかわり自由で、自分で買いに行く必要もない。

まあこっちに来る前は、手軽さ重視でレトルトご飯食べてたけど……それだって、最近は結構高くなってたからな。久々に炊飯器で炊き立てのお米を食べて思う。やっぱ、炊き立ての米うめえわ!


こっちに来る前は、外食も控えめにして、毎月決まった額を貯金に回していた。

「いつかの結婚資金」なんて理由をつけてたけど、正直、それもただの“逃げ道”だった気がする。

何かに備えてるつもりで、実際は、どこにも進めていなかった。


そんなとき、彩華の言葉がふと頭をよぎる。

彼女は日本の個別株投資について、こんなふうに言っていた。


「資金がたくさんある人が更に増やすものだとやればやるほど思うけど……人は人。昨日の自分と比べたいなって。少額からめちゃくちゃ増やしてる凄い人もいるし、夢があるよね♪」


「少額のわりにのめり込んでるよなw」


「だってゲームみたいで楽しいじゃん♪

投資(日本個別株)は、平日が楽しみに変わるし!

少額で、追加入金もなしの超々弱小だけど…とにかく楽しいの!」


──そうなんだ。聞いてたら、なんか楽しそうだな。


「そういえば彩華、若い頃に桃鉄が大好きでハマってたって言ってたよね。

少額だから額は全然違うけどw なんとなく、それに近い楽しみ方してるのかもなって思った」


「桃鉄覚えてくれてたんだ! ありがとう!

やり方色々ある中で私は逆張り好きで、グループも師匠もいないし、イナゴもしなくて孤独だけど…自分で考えるのが楽しいのかも♪」


(イナゴ……?)


知らない言葉に少し戸惑いつつも、彩華の明るく弾んだ文面が脳裏によみがえる。

その声色が、まるで目の前で話しかけてくるようで、思わず頬がゆるんだ。


「順張りで、定期的に追加入金して複利を効かせて…っていうのが王道なんだけどね……

宝くじ当てたいw」


──そんな言葉を、彩華は軽やかに書いていた。


逆張り好きなのも彼女らしいなと思いつつ、ふと、蓮は考える。

──俺は、どっちかと言えば順張り派なのかもしれない。


コツコツ積み上げて、少しずつでも確かなものにしていきたい。

遠回りでも、確実に。そんなふうに、どこかで信じたがっている自分がいる。


──自分も、元の生活に戻ったら。

せっかく貯めた資金で、少額投資から始めてみたい。


そんな気持ちが、ふっと芽生えた。


窓の外の青空をぼんやり見つめながら、蓮は小さな決意を胸に抱いた。

この場所で過ごす時間は、ただの“休息”ではなく、いつか自分を取り戻すための準備なのだと。


「焦らず、自分のペースでいいんだ」

そう自分に言い聞かせて、また一つ深呼吸をする。


ふと、ふいに思い出す。


「ちゃんとマスカルポーネチーズで作ってるティラミスが好き」

彩華がそう書いていたのは、ある深夜の投稿だった。

何か、食いしん坊な彼女らしいなって思った。


無添加のウニも大好きらしい。

「割りたてのウニ、甘くて好き。でも、小さい頃に何回か食べたっきり」──前にDMで、そんなふうにぼやいていた。


そんなやりとりの一つ一つが、なぜか今も頭の片隅に残っている。


もう彩華の言葉も、Xの記録も、ポケGOのギフトも届かない。

会ったこともない。

でも、かつての自分には確かに存在した。


「もう十分だ」


俺は自分に言い聞かせた。

あの頃のやりとりに縛られたままじゃ、前に進めない。


孤独な島の端末の画面の前で、俺は決めた。


……思い出すのは、もうやめよう。


そして、またいつか自由になれたら、そのときこそ彩華に伝えようと思った。

何気ないやりとりに救われてたなんて驚かれるだろうけど──

「ありがとう」と。

貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!

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