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隔たれた地図──見えざるナッジ  作者: 市善 彩華
第2章:ケルベロス/境界を越える声
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第28話「赦す復讐(スローダウン群:レメディア島)」

すがるように信じた言葉に裏切られ、生活も人間関係も崩れた彼女。

怒りと後悔、羞恥と悲しみの渦の中で、一つの選択を迫られる。


赦すこと──それは他人のためではなく、自分のための行為。

そして、復讐──それは誰かを壊すことではなく、自分の人生を取り戻すこと。


被害者としての痛みを胸に抱きながらも、彼女は静かに立ち上がる。

自分の笑顔こそが、最も確実な復讐であると知ったから──。

──白い光がまぶしかった。

波のリズムだけが、室内に淡く響いていた。


彼女は待合室の椅子に座り、震える指で端末を握りしめていた。そこに映るのは、SNSで見つけた「未来を導く占い師」の広告。


少し前まで、タイムラインは救いの言葉で溢れていた。


〈運命の分岐点に立つあなたへ〉

〈開運のためには“少しの投資”が必要です〉


その“少し”が、全財産になるまで、あっという間だった。


「どうして信じてしまったんだろう……」

声にならない独白が漏れる。騙されたというより、すがりたかったのだ。


生活も人間関係も壊れ、未来が見えなかった。

そのとき、“誰かが導いてくれる”という言葉は、あまりに優しく響いた。


カウンターの奥で無機質な声が響く。

「ようこそ、レメディア島へ。ここは心理療養と再構築のプログラムを提供します」

淡々と告げる女性スタッフの声は、冷たい海風のように彼女の頬を撫でた。

---

初日のセッションは、過去の行動を可視化する再現プログラムだった。仮想のモニターに、かつての自分が映る。

「この人なら信じられる」「未来が変わる」――あのときの言葉が、今は耳障りなノイズに変わっていた。涙は出ない。ただ、自分への怒りが静かに滲む。


心理士が淡々と告げる。

「赦すとは、他人のためではなく、自分を軽くすることです。怒りや後悔に囚われ続ける限り、“被害者”という枠から抜け出せません」


赦す?

簡単にできるはずがない。憎しみと羞恥と後悔が、複雑に絡み合っている。


数日後、被害者たちが一堂に集められた。

「みんなで大家さん」「投資詐欺」「占いの誘導」「マルチ商法」「カルト宗教」「結婚詐欺」「ロマンス詐欺」――

異なる経路や手口で心と金銭を奪われ、同じ場所にたどり着いた人々。

全員が、自分の“信じる力”を利用された者たちだった。


前方のスクリーンに「社会適正庁 根岸 元気」と表示される。スーツの男が静かに登壇し、無表情で言った。

「皆さんには、再発防止と心理的回復のための再構築プログラムを受けていただきます」

機械のように一定の声で、慰めも怒りもない。しかし、その冷静さが、被害者たちの緊張を少しだけ和らげていた。


一人の女性が震える声で尋ねた。

「どうして……誰も止めてくれなかったんですか?」

根岸は短く息を吸い、端末を閉じた。

「――自己責任であり、自業自得だ。

だが、いっぱいいっぱいになり藁にもすがりたいとき、人は簡単に信じてしまう。……俺の母親がそうだった」


その一言に空気が揺れる。母は若い頃、カルト宗教に全てを捧げ、家族に迷惑をかけた経験があった。

家庭は荒れ、周囲にも影響が及んだ。小さな彼は、母の苦しみを見続け、冷静さを身につけざるを得なかったのだ。


「人を信じるのは、本来とても難しく、そして尊い行為だ。

けれど、あまりにも容易く信じてしまえば、その尊さは すぐに利用される。

だから、ここでは“疑う力”も学んでもらう。

誰かを赦す前に、自分を守る術を知ることが、再生の第一歩です」


夜、宿舎の窓から見える海は静かだった。彼女は今日の記録を読み返す。


モニターの端に、小さく“選択”の文字が浮かぶ。


〈赦す〉

〈復讐〉

〈無視〉


どれを選ぶのも自由だ。

指を止め、考え、そして ゆっくりと“赦す”を選ぶ。


赦すと言っても、何も相手を許して忘れることと同義ではない。彼女は小さく笑ってから、心の奥で別の決意を固めた。

復讐――それは、相手を壊すことではない。

自分の人生を、取り戻すことだ。


今度は、私が幸せになる番。失った時間を取り戻すために働き、学び、人との信頼を少しずつ取り戻す。

いつか、私を騙したあいつらが“あの人を騙した”と噂する前に、私は もう笑っている──それが、一番効く復讐だと気づいた。

そして、彼女は心の中でそっと呟く。

「どうせ私のこと、向こうはバカだと笑っているんだろうな。でも今度は、こっちが笑ってやる番だ」


犯罪者たちに憎しみを向けるのではなく、自分の人生を充実させることで、静かに、しかし確実に勝利を刻む。

笑顔を取り戻すこと、それこそが最も効く復讐だと、彼女は知っていた。

海風が優しく頬を撫で、心の奥の冷たさを溶かしていく。


選択完了の文字が光り、静かな音が鳴る。涙は出なかったが、胸にわずかな温もりが残った。

窓の外、波の音が一定のリズムで打ち寄せる。まるで“自分を責め続ける心”が、少しずつ静まっていくようだった。


根岸は端末を閉じ、静かに呟く。

「……これも管理の仕事の一部だ」業務としての冷静さの裏で、被害者たちの揺れる心を感じている。

信じることの危うさ、自己責任の重み、藁にもすがる気持ち――全てが彼の胸の奥で微かに反響していた。


薄暗い待合室で、被害者たちは静かに座る。手元の書類が、向き合う現実の重みを教えてくれる。

SNSで誘われた高利回り案件、怪しい不動産クラブ、占い、カルト宗教――どれも裏切りだった。

誰もが自分を責め、沈黙の中で小さく涙をぬぐう。


窓の外には青い海。

騙された痛みも、信じた優しさも、全ての記憶が静かに波に溶けていく。

わずかながらも希望の光が、初めて踏み出す一歩をそっと照らしていた。

貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!

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