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隔たれた地図──見えざるナッジ  作者: 市善 彩華
第2章:ケルベロス/境界を越える声
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第27話「助けてもらいたくて、助けた(スローダウン群:レナトゥス島)」

※この作品は、安楽死や臓器提供などの問題を題材にしていますが、あくまで架空の設定として描いています。

フィクションだからこそ、読者の皆さんが「命の選択」や「社会と個人の関係」について、自由に想像し、考える余地を持てる物語にしました。

薄暗い機内の座席で、男性は窓の外を見つめていた。雲の向こうに青い海が広がっている。自分は、ここに何を求めて来たのだろう。


「もう、いい加減に楽になりたい」

そう呟いた声は、誰にも届かない。胸の奥でずっとくすぶっていた虚しさが、今はっきりと形になる。過去の自分の行いも、社会に置き去りにされた感情も、全部が重くのしかかる。生きる希望なんて、もうどこにも見つけられない。


日本では、安楽死は許されていない。医師は、その行為で刑事責任を問われ、誰かに自分の命を委ねることすらできない。

スイスでは条件付きで安楽死が可能だが、健康な若者が選ぶことはできない。自分は、まだ若い。体も健康だ――だから、選択肢はなかった。


ところが、日本で状況が動いた。高齢化社会の新たな選択肢として、「自発的安楽死支援法」が可決されたのだ。

本人の明確な意思と複数の審査を経れば、一定の条件下で安楽死が認められる――そんな制度が誕生した。

未成年は禁止されているが、年齢制限が厳格でないため、若者でも利用できるケースが出始めていた。


SNSやニュースでは賛否が渦巻いた。

「若者の貴重な命が失われている」と怒りの声もあれば、「本人の意思を尊重すべき」と理解を示す意見もあった。

短いコメントやニュースの見出しだけが、世界の一部を切り取るように広がっている。男性は、それらをぼんやりと眺め、心のどこかで安堵していた。


「ようやく、行ってもいい気がする」

その思いが、重く沈んでいた胸の奥で揺れた。


レナトゥス島――この島では、安楽死と臓器提供がセットで行われていた。自分の臓器を誰かのために使い、最後に自分の命を手放すことができる。

島の理念は、極めてシンプルだ。生きたい人の命を救うため、自らの命を差し出す。その究極の選択を、国家が安全にサポートしている。


島に到着すると、スタッフが淡々と手続きを進める。

受付で、身分証を差し出すと、スタッフが端末にかざした。

「マイナンバー照合中です。医療記録と、これまでの手続き履歴を確認しています」

数秒後、画面に「本人確認完了」と表示される。


さらに心理士による面談で、「この決断に一時的な衝動はないか」「他に支援は受けられなかったか」を確認された。

男性は静かに頷き、書類にサインをした。


「審査は通過しました。これより最終手続きに入ります」と、係員は淡々と告げる。


施設内の空気は静かで、無駄な装飾も音楽もない。何もかもが、行動と決断のためだけに設計されているようだった。


その後、医師が改めて説明した。

「この島では、臓器提供後に安楽死が可能です。法的なリスクはありません」

その冷静な声に、男性は少しだけ安心する。


準備室で、医師が手際よく機器を確認する。

点滴、麻酔、臓器摘出の手順――全てが計算され、繰り返される。


「怖いか?」

心の中で問いかけてみる。答えは、すぐに返ってきた。

「全身麻酔をするんだ。眠って、目を覚まさなければそれでいい。怖いのは――きっと、それまでだ」


男性はベッドに横たわり、視界に入る白い天井を見つめる。これまでの人生で、誰かのためにできたことは少なかった。今、自分の体が誰かの希望になる――それだけで、少しだけ救われた気がする。


眼球や腎臓、肝臓、そして心臓など……自分の体の一部が、これから誰かの新しい命に繋がる。視力が悪くても、健康状態に制限があっても、この島の制度では可能だった。全ては、最後の安楽死に向けて、安全かつ丁寧に準備されている。


医師が近づき、麻酔薬を投与する準備をした。

深呼吸をして、心を落ち着ける。怖い。痛いのは嫌だ。

だけど、それ以上に大切なのは、この体が誰かのために役立つことだ。


ゆっくりと麻酔が体に回る。まぶたが重くなり、視界がぼやける。意識は、まだ鮮明だ。

「ありがとう……」


最後の瞬間、男性は自分の胸の奥で静かに決意した。自分は、もうこの世界にはいない。

だが、誰かの中で生き続ける――その微かな温もりが、孤独な心をわずかに慰める。


ベッドの上で目を閉じたまま、耳に届くのは機械の規則正しい音と、遠くの波の音のような静けさだけ。

「さよなら……そして、ありがとう」


外の世界では、この出来事は大々的なテレビニュースにはならなかった。目立つスキャンダルや暴力は一晩で報じられるが、誰かが自ら命を差し出す行為は地上波では扱われにくい。

かわりに、インターネットのニュースサイトとSNSが短い断片を流す。

「レナトゥス島で若者の安楽死、臓器提供を伴う」「同意書の取り扱いに疑問」――見出しは淡々としているが、コメント欄は荒れていた。


・誰かを殺すとかビルから飛び降りて第三者を巻き込むとかでもなく、自分の命を差し出して生きたい人を助けたんだから、親御さんは誇るべき

・同意書なしで安楽死できるって本当? 遺族は辛いだろ……

・どうしてこういうのがテレビじゃなくネットだけで流れるの? 浮気や不倫は一晩でトップニュースになるのに。


父はスマホの画面をただ見つめる。二か月前、息子の様子は明らかに変わっていた。仕事を辞め、笑わなくなり、深夜に長電話をする日々。

父は「いつでも帰って来い」と言えなかった。言葉を飲み込み、胸に引っかかったままだった。

そんな自分を元気づけるように妻は「もしその言葉を伝えていても、同じ結果になったと思うわ。あの子は、あの子にできる形で人助けをしたのね、きっと」と気丈に振る舞っていた。


数日後、簡素な封筒が届く。差出人は「厚生医療省・生命管理庁」名義。中には、こう綴られていた。

「このたび、貴家ご子息は当島において臓器提供を行い、自発的安楽死の意思表示に基づき永眠されました。生前のご決断に対し、命を受け継がれた方々および関係者一同より、深甚なる感謝を申し上げます。

つきましては、誠にささやかながら謝礼をお送り申し上げます。」


言葉は礼儀正しく整えられていたが、父の胸は張り裂けそうだった。郵便の最後に挟まれていた短い一文が、冷たく重かった。


「息子さんの選択を尊重していただければ幸いです。」


父は、その一文を何度も読み返した。誰かのために命を差し出した行為を、役所は形式化していた。

だが、父は息子の最後の夜の長電話の相手や、漏れた小さな呟きを知っていた。もっと早く気づけなかったのか、声をかけられなかった自分を責めた。

しかし同時に、息子が誰かを助けたと聞き、安堵する自分もいた。矛盾が胸に絡み合い、言葉にならない。


SNSでは議論が続く。

擁護する声もあれば「法の抜け穴を突いた人殺しだ」と糾弾する声もある。

匿名で命を取り戻した家族が感謝を述べるスレッドもあり、そこには歓喜と安堵が混じっていた。


父親は画面を見つめ、言葉を失う。息子の意思を尊重するしかない現実と、若過ぎる命が失われた痛みが胸に重くのしかかる。


父は、ふと画面を閉じて呟いた。「あの子は――助けてもらいたくて、助けたんだな」

貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!

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