第26話「名を持たぬ母(スローダウン群:アヴェニア島)」
自分で決めたはずなのに……心が追いつかない。
そこに、この制度の残酷さがあった。
匿名出産――母性のある人には、あまりに静かで、あまりに辛い制度だった。
「高額報酬と子ども。どっちを取る?」
国家指定医療施設――通称“アヴェニア島”と呼ばれる外部には秘密の入院プログラム。
表向きは、希少ホルモン治療や専門検査のための長期入院とされるが、実際には匿名出産プログラムが運営されていた。
時折「産まれたばかりの赤ちゃんが遺体で発見される」といった痛ましいニュースが報じられる。
しかし、少子化が進む現在、貴重な命をどうにか守りつつ、国家は出産者に報酬を支払う制度を設けた。
入院者は出産のみの責任を追い、育児の義務を負わず、国家が子どもを管理・育成する。条件を了承した者は、入院期間中の医療費、宿泊費、検査費用は国家負担となり、さらに治験協力費が支給される。
参加者は契約書を交わし、入院する運びだ。
「本プログラムに参加することで、今後産まれる子どもに関するいかなる権利を有さず、国家が全面的に管理することに同意します。
また、入院期間中の医療費、宿泊費、検査費用は国家負担とし、治験協力費として金銭を支給します。
加えて、職場への傷病手当は請求できないものとする。」
入院初日、施設スタッフから会社提出用の書類を受け取った。
契約書には退院後、職場復帰する際に怪しまれぬよう、会社提出用の書類には、こう記載されている:
「貴社の社員:薄井 恭子は、特殊医療プログラムによる入院のため、当期間中の医療費・宿泊費・検査費用は国家負担となります。
治験協力に伴う費用も国家より支給されるため、会社からの傷病手当は必要ありません。」
薄井は書類を確認しながら、心の中で少しだけ笑った。半年間、会社に妊娠を隠して休めるだけでなく、報酬まで支給される。誰にも知られず、社会との接触も制限される。
スマートフォンは使用できず、外部連絡は徹底管理。出産後の子どもは別施設で国家により育成され、彼女自身の育児負担はない。
誰にも聞かれず、答えもない。国家の未来のため、そして自分の報酬のために、匿名出産プログラムの扉は今日も静かに開かれていた。
一方、外部では制度の存在がひっそりと議論されていた。SNS上では賛否両論の声が渦巻く。
・女だけ出産すれば報酬もらえるのズルくね?
・出産は命懸けだよ!!
・いや、私はちゃんと育てたいから、こんな報酬もらえない。権利を与えるかわりに報酬は納得できる。
・国家が育てるなら、逆に安心して産めるんじゃない? もうトイレに死体遺棄とか悲惨なニュースも出ないでしょ。
・よくよく考えたら、もっと子供手当増やすべきだよね。育てない人には高額報酬って…やるせないな。
投稿は短時間で数百件のコメントが集まった。しかし、当局は情報操作を行い、議論は すぐに削除される。
それでも、この制度の存在の知名度は高い。なぜなら何度削除されても、同じような議論が繰り広げられるからだ。そして、デジタルタトゥーとしてスクショに残した人が再アップロードして、さらに広まってしまう。
入院者たちはスマートフォンも持てず、こうした議論を入院してる間だけは知りえない。
施設内では、入院者は“匿名出産プログラム参加者”として番号で分類されるだけ。
医療スタッフは優しくも厳格で、出産後の子どもの扱い、DNAや精神データの収集、出生管理システムの運用も全て国家が統制していた。
自由な時間はあるが、社会からは隔絶されており、外部の目からは見えない生活が続く。
社会的な矛盾も、国家の意図も、個人の願望も、全て島の壁の向こうで静かに閉ざされている。外界では議論が消され、島では静寂の中、匿名出産プログラムが進行していく――未来のために、そして国家の計画のために。
カーテンの向こうから、微かな産声が聞こえた。
それは数秒のことだった。
助産師が手際よく何かを確認し、すぐに赤ん坊は別室へ運ばれていく。
「抱くことは許可されていません」
看護師の声が静かに響いた。
――わかっていた。契約のとき、何度も説明を受けた。
“自分は、ただ産むだけ”。感情を排除するための措置だと。
高額報酬の引き換えにこの選択をしたのは、誰でもない私なのだから。
それでも、胸の奥がきしんだ。
ただ一度でいい、抱かせてほしかった。
たとえ数秒でも、この腕に重みを感じたかった。
引き取られていく小さな命を、視界の端で見送りながら、思わず小声でつぶやく。
「高額報酬?……こんなの安いもんだよ」
声は震えていた。
「だって、二度と会えないし。私が母親だなんて、あの子は一生知ることはないんだから」
涙を堪えるように目を閉じると、静かに潮騒が聞こえた。
遠く、波が岩に砕ける音。
――私は、やっぱり子どもが欲しかったんだ。
どんなに貧しくても、自分で育てたかった。
失ってから気づくなんて、ほんとバカみたい。
蛍光灯の明かりが淡く滲む。
外の世界では、また誰かが「匿名出産制度」を検索しているかもしれない。
けれど、その実態を知る者は、誰も語らない。
国家の管理下で、一つの命が静かに記録され、
そして、母の存在は“抹消”された。
それが、この国の“優しさ”のカタチだった。
眠っていた母性は、産声を聞いた瞬間に目を覚ます。
その瞬間から、報酬は“代償”へと変わるのだから。
貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!




