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隔たれた地図──見えざるナッジ  作者: 市善 彩華
第2章:ケルベロス/境界を越える声
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第25話「穏やかな日常の向こう側」

新しい朝は、そよ風のように緊張と期待を運んでくる。

見慣れた街並みも、今日は少し特別に感じられる。

誰かの優しい声や、細やかな笑顔に触れるたび、胸の奥に小さな火が灯る。

今日という日は、そんな日常の向こう側で思いがけない再会が待っている――。

採用通知が届いた日、胸がざわついた。ここで働けるのか──不安と期待が入り混じる。

初出社の日、名刺を受け取り机に座ると、隣に先輩たちの穏やかな笑顔があった。

「わからないことがあったら、遠慮なく聞いてね」

その一言が、緊張で硬くなった肩をゆっくり解きほぐしてくれる。


この会社で、自分は本当にやっていけるのか。噂通りのホワイト企業という話は本当だろうか。新しい日々が静かに始まろうとしているが、心の中には不安と期待が入り混じる。


最初の数週間は覚えることが多く、手が思うように動かないこともあった。それでも、先輩たちは否定せず、「いい質問だね」と励ましてくれた。


以前の職場なら、質問するだけで突き放され、理不尽な怒りを押し付けられた。ここでは全く違う。

少しずつ業務の流れを掴み、穏やかな日常に馴染んでいく。

わからないことを聞いても否定されず、肯定されることで、自分の存在を認められた気がした。


当たり前だった残業もなく、定時前に「そろそろ片付けようか」と声がかかる。前の会社では、そんなこと一度もなかった。

「そんなの自分で考えろ」と突き放され、聞けば理不尽な回答で、責任だけ押し付けられていた。「おまえって、ほんと器用に損するよな」と当時の上司の苦笑が今も耳に残る。


……あの頃、俺は後輩に言っていた。

「わからなかったら聞くこと、恥ずかしいのは聞かずに進むことだから」と。

けれど、その言葉を一番必要としていたのは自分自身だったのかもしれない。

ここが“普通”なら、前の職場は きっと異常だったのだろう。


入社から数週間は右も左もわからず戸惑いばかりだった。会社のルールや業務フロー――どれも丁寧に教えてくれる環境に、最初は逆に緊張した。それでも先輩たちは笑顔で受け答えしてくれる。

「ここまで丁寧に教えてくれる人たち、いるんだな……」と心の底から思った。


数ヶ月が過ぎ、仕事のリズムにも慣れてきた。定時前にふと声をかけられると、少し嬉しくなる自分がいる。

「そろそろ片付けようか」――その一言が心の余裕を作ってくれる。同僚たちも皆、穏やかで協力的。誰もが必要以上に責めず、困ったときは助け合う。


けれど、穏やかな日々を過ごしていても、島で見た光景は時々胸をよぎる。あのとき救えなかった人たちは、今もあの島に縛られているのだろうか。自分だけが報われていいものか。

いや、そんなことはない。今度こそ、誰かを見捨てないために動ける自分でいたい。


昼休みに少し歩こうと思い、近くのコンビニに向かう。

自動ドアをくぐり、少し申し訳なさそうにスパイシーチキンを注文する。揚げてもらっている間、周囲の商品棚をなんとなく眺めていた。


そのとき背後から声をかけられ、振り向くと見覚えのある男性が立っていた。

「お久しぶりです」――声の主は、かつて自分が指導していた後輩だった。

「え、林……!」一瞬、言葉が出なかった。名前を呼ぶのも少し気恥ずかしい。


「五十嵐さんが辞めてから、さらに雰囲気悪くなったんです。俺も実は……つい最近辞めました。

あんな上司、恨まれても刺されてもおかしくないです。

それに、いつ上から処分されるかわからないし、まあ自業自得ですね」

その目には怒りだけでなく、少し照れくさそうな光が混ざっている。


「俺たち後輩の間で、五十嵐さんは教え方も上手くて、優しいって評判だったんです!

だから皆、理不尽に上司に怒られているのを見ると、もどかしさで胸がいっぱいでした」と続ける。


五十嵐は言葉を失った。その視線の奥にある真剣さは、昔の自分が後輩たちに抱いていた気持ちと重なり、胸にじんわりと温かさが広がる。


「でも……五十嵐さんは、いくら上司に嫌なことされても、俺たち後輩にも優しく教えてくれたじゃないですか。

きっと今は、まともな場所で輝いているんだろうな、と。あの会社ざまあって感じです(笑)」


コンビニの店員が揚げたてのスパイシーチキンを袋に入れて差し出す。香ばしい匂いに自然と笑みが零れ、手を伸ばして受け取る。


「林、ありがとう。覚えてくれて怒ってくれて」


「もちろん覚えてますよ。

五十嵐さんのこと、俺だけじゃなく皆も感謝してましたから」

後輩は、少し頬を赤らめながら軽く会釈する。


──あの頃、自分があの場所でやれることをやってよかったんだ、と静かに思う。報われるのは自分だけじゃない。

誰かを少しでも支えられる日々の積み重ねが、未来を少しずつ変えていくんだ、と実感する。


後輩との短い再会が、胸の奥で小さな火を灯す。


「ところで……最近は どうですか、五十嵐さん」

後輩の声に少し力がこもる。


「穏やかだよ。落ち着いて仕事ができるし、パワハラなんて目にしたこともないよ(笑)

前の場所と比べれば、天国みたいな毎日さ」


小さな笑いが二人の間に流れる。香ばしいチキンを頬張りながら、未来への希望を胸に抱く。あの頃の後輩たちも今は、それぞれの場所で輝いている。自分もここで、誰かを支える存在であり続けたい、と改めて思った。


コンビニの出口で、後輩は軽く手を振る。「またどこかでお会いできたら、今度は ゆっくり話しましょう!」その言葉が、穏やかな日常の尊さを再確認させる。


──穏やかで、優しく、少しだけ懐かしい午後。小さな再会と香ばしいチキンの匂いが、今日という日の価値を静かに刻んでいく。

貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!

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