第22話「小さな一歩」
社会から隔絶された日々を終え、新たな生活が始まる。
孤独な日々を経て得たもの、それは誰かと繋がり合うことの大切さだった。
たとえ道が霧の中にあっても、確かな未来へと歩み出す勇気がそこにある。
今、彼は一歩ずつ確かな道を踏みしめていく――。
島にいた期間は、本来「空白期間」とされていた。しかし、実際には政府の公的研修・社会貢献プログラム「未来リンクプロジェクト」に参加していたことになっている。
外部には、それ以上の情報は一切知らされておらず、生活費や食事はプログラムから支給されていたとされていた。
だが、その裏側に存在する、誰にも知られてはならない秘密の場所――エコーチェンバー島の実態は、外部と完全に遮断された閉鎖空間での拘束だった。その秘密は、厳重に守られており、島の存在すら知られていない。
働く必要はなく、衣食住は保証されていた。食事は決して質素ではなく、毎日届くスイーツを楽しみ、たまにはポイントで自分たちで寿司やピザを注文することもできた。
しかし、それでも生活は「生きる」というよりは、ただ与えられた環境の中で消費するだけの受動的な日々であった。外部との交流は完全に断たれており、インターネットは検閲済みの動画や情報しかアクセスできず、外の世界の動向は ほとんど知らされなかった。それでも音楽動画なども、AI検閲に通過すればYouTubeで問題なく視聴が可能だった。
エコーチェンバー島の静けさは、時に重苦しい沈黙となり、蓮の胸の内に重くのしかかった。監視の目は常に彼らを追い、自由を奪い去った。
「未来リンクプロジェクト」の名のもとに、その実態は社会から切り離されたものであり、声を失い、ただ監視されるだけの存在に変えられてしまった。
繰り返される単調な時間の中で、自分の価値や居場所がどこにあるのか分からなくなっていく。
それでも、他者との接触が完全に断たれていたわけではない。蓮は同じ環境にいる陽翔との間に、唯一の確かな繋がりを感じていた。
だが、その密な繋がりは島の中で異物として排除されることになった。
目に見えない壁に囲まれ、外の世界に戻る道筋すら見えない不安、知られざる場所に閉じ込められているという恐怖、そして未来がまったく見えない絶望感。それらが彼の心を蝕み、時に孤独を押し寄せさせた。
しかし、島での生活が終わりを告げ、蓮がようやく外の世界に戻ったとき、かつての日常は遥か遠くの過去のように感じられた。社会から完全に「不可視」とされていた時間は、胸の中で決して消えることなく、重くのしかかっていた。
退職後、その島に滞在している間に退職金が振り込まれていたことは、些細な喜びだった。貯金もあったため、今のところ生活に困ることはない。
しかし、現実は決して甘くはなかった。未来への不安が絶えず蓮の心を蝕み、窓の外に広がる街のざわめきと冷たい風が、その不安をさらに際立たせていた。
失業保険の申請は、まだしていない。それは「ここぞ」というときのために残しておきたい“保険”のようなものだった。焦って申請に行くことは、プライドが許さなかったのかもしれない。
家賃や光熱費、食費は確実に迫りくる。貯金はあるが、働かなければ減る一方だからだ。蓮は何度も通帳の残高を確認し、その数字を見るたびに胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
それでも、蓮は焦ることなく、ゆっくりと慎重に未来へ向かう一歩を踏み出そうとしていた。誰にも言えなかった“不可視の時間”を胸に抱え、スマホの画面に指を伸ばす。
LINEのトーク画面が開かれ、短くメッセージを打ち込んだ。
「すみません、相談してもいいですか……?」
送信ボタンを押した瞬間、肩の力が少しだけ抜けたように感じた。ずっと胸にのしかかっていた重みが、ほんのわずかだけ軽くなった気がした。
数分後、スマホが震え、返信が届いた。
——
【鈴木 秀平】
「五十嵐くん、連絡ありがとう。
遠慮しないで何でも話してほしい。
今は大変な時期だと思うけど、一人で抱え込まないでほしい。俺もできる限り力になるから、気軽に頼ってほしい。焦らず、一つずつ一緒に考えていこう。困ったことやわからないことがあれば、いつでも連絡して!
蓮くんって呼んでいいかな?
もちろん嫌じゃなければだけど」
——
丁寧な言葉を読み進めるうちに、蓮の胸の奥にじんわりと温かさが広がっていった。誰かに寄り添ってもらえるありがたさが、心に小さな灯をともす。
厳しい現実が目の前にあっても、自分は一人じゃない――そう思えることが、何よりも心強かった。
蓮は、すぐに返信を打つ。
「もちろん! 蓮って呼んでください!
俺も秀平さんって呼ばせてください!」
蓮はスマホを握りしめ、静かに心を整えた。あの島での出来事は決して消えない。けれど、誰かに支えられながら歩んでいける――そんな予感が胸に芽生えていた。
これが新たな一歩の始まりだった。
——
窓の外には、遠くの街灯が霧にぼんやりと溶けて見えた。冷たい風がカーテンを揺らし、部屋の中に冬の匂いを運んでくる。
蓮は何度も深呼吸を繰り返しながら、過去の不安と未来への期待を胸に感じていた。
思い返せば、あの島での孤独や葛藤は、決して無駄ではなかった。
陽翔さんと交わした言葉、笑顔、それらが支えとなっていたのだ。気づけば、秀平さんとの距離も近づいて頼れる人も増えていた。
今はまだ不安が多いけれど、一人ではない。そう実感できるだけで、心は軽くなった。
未来は見えない霧の中のようにぼんやりとしているが、確かに足元には道がある。
蓮は、ゆっくりと立ち上がり、スマホをポケットにしまった。
そして、部屋の灯りを消し、窓の外の静かな夜の街を見つめながら、心の中で新たな決意を繰り返した。
「ゆっくりでいい。焦らずに、確かな歩みを続けよう」
そう呟き、蓮はベッドに身を沈めた。
貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!




