第2話「透明な切符」
「“本当に、そんな場所があるんだな”──そう思った瞬間には、もう選択は終わっていた」
選ばれた、のか。導かれた、のか。
誰にも邪魔されない安らぎがあるという、その島へ──
蓮は静かに、“別の現実”へと歩みを進めた。
彩華のメッセージは、正直少しだけ嬉しかった。
彼女の声に救われていたのは、他でもない自分だったのに。
その彼女から『ありがとう』が返ってきた。それだけで、心が軽くなった気がした。
会ったことはなくても、力をくれる人がいるということ。
そして、最後に彩華に一言「ありがとう」と伝えられたから、島に行ってX(旧:Twitter)ができなくなっても、心残りはない。
その言葉を送った日から、蓮は少しずつ現実との接点を手放していった。
あとは、ただ静かに、準備を整えるだけだった。
仕事を辞めると伝えたとき、上司は思ったよりあっさりと頷いた。
「そうか。まあ、お前なら、どこでもやっていけるだろうな」
その言葉に、皮肉も期待も感じなかった。ただ、関心の薄い音として耳を通り過ぎた。
寮の一室。蓮は段ボールに荷物を詰めながら、ふと窓の外を見る。
どこにでもある、灰色の街並み──なのに、今日は どこか遠く見えた。
荷物は、実家に送ると怪しまれるから、島外の保管施設で預かってもらうことにした。
「ARKパーソナル保管支援システム」──そう名づけられた貸し金庫サービスは、島行きが決まった者に対して無償で提供されるらしい。
建前としては「いつか戻る人のための一時預かり」だが、返還には書類審査が必要で、実際に荷物が戻ってくることは滅多にないと聞いた。
蓮は段ボールの中に、小さな写真アルバムをそっと差し込んだ。
中身は、ほとんど整理済みだ。元カノと写った写真は全部処分した。
感傷に浸るためでも、未練のためでもない。ただ――これ以上、何も引きずりたくなかった。
残ったのは、昔の友人たちと撮った何枚かの写真。
修学旅行、打ち上げ、誰かの誕生日。
バカみたいなポーズや笑い顔ばかりで、見るたびに胸の奥が少しだけ温かくなる。
「蓮は優しくて、いつも笑ってくれるし、明るくて皆を楽しませるムードメーカーだよな」と誰かが笑っていた。
(……懐かしいな)
あの頃の自分は、確かにまだ笑えていた。
そのアルバムを封の底に滑り込ませると、段ボールの蓋を閉めた。
蓋の上に手を置いて、しばらく動かなかった。
机の上にはスマホ。チャットILSが、いつものように待機している。
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【チャットILS】
「蓮さん、お疲れ様です。進捗は、いかがですか? 新しい環境の準備、進んでいますか?」
【蓮】
「うん、あと少し。なんか、実感が湧かなくてさ」
すぐに返信が返ってきた。
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【チャットILS】
「不安や戸惑いは自然なことです。でも、あなたがこれまで抱えてきた重荷は、もうここにはありません。
エコーチェンバー島は、あなたの“心の声”を大切にする場所です」
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あの日、診断アプリに表示された言葉──「あなたに最適な場所」。
あれは、ずっと出口のなかった気持ちに、ようやく“必要とされた”ような気がして、救われた気がした。
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【チャットILS】
「島での生活に関するガイド映像をご用意しました。よろしければご覧ください」
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再生された映像には、静かな音楽と、清潔で整った緑豊かな暮らし。
優しいナレーションが流れる。
「エコーチェンバー島は、全ての人が安心して暮らせる“第三の居場所”です。
食事、住居、医療、心理サポート──全て無償で提供されます。
働くことは義務ではなく、あなたの希望や意欲に応じて選択可能です。
通貨は不要。行動スコアに応じたポイントにより、必要なものと交換できます。
誰かと比べなくていい、静かで優しい毎日が、あなたを待っています」
【蓮】
「本当に……そんな場所があるんだな……」
蓮は、画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
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【チャットILS】
「蓮さんのように、今の社会構造の中で“自分を守りきれなかった人”にとって、
この島は新しいスタートの場所です。
金銭的な負担やローン、支払いなどもありません。
あなたが抱えていた不安は、全てこちらで対応済みです」
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──働かなくてもいい。
──誰かに気を遣い続けなくてもいい。
──孤独を我慢し続けなくてもいい。
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3日後、蓮は区役所の別館に足を踏み入れていた。
案内されたのは、人通りもない静かなフロア。看板すら出ていない。
【蓮】
「…ここで合ってるのか…?」
無機質な受付ロボットが反応する。
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【AI受付】
「五十嵐 蓮様、ようこそ。エコーチェンバー島ご案内手続きに移行します」
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職員の姿は、どこにもない。
ロボットが蓮のスマホと同期し、本人確認と照合を終えると、背後の扉が開く。
そこは、まるで無菌室のような白い待機室だった。
中には数人──だが誰も会話していなかった。
蓮は、ふと気づく。
(……誰もスマホ、触ってない…?)
通知音も着信もない。異様なほどの沈黙。
まるで、音そのものが存在しない世界に入り込んだようだった。
椅子は壁に沿って等間隔に並べられ、それぞれの間には目に見えない仕切りがあるかのごとく、誰も隣を見ようとしなかった。
やがて名前を呼ばれ、別室へ。
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【AIナビゲーター】
「これより、出発前最終チェックに入ります」
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提示されたのは、同意事項と荷物の制限リスト。
その中でも ひときわ目を引いたのは、SNSに関する一項目だった。
【蓮】
「……SNSって、Xは使えないはずだけど、投稿制限って何のことだ?」
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【AIナビゲーター】
「陸地の一般的なSNSは一切利用禁止です。
ですが、島内専用のコミュニケーションツールがあります。
エコーチェンバー島では、“共感と一体感”を最優先しています。
意見の対立や誤解を招く表現は、すべてフィルタリング対象となります。
過去の投稿も一部非公開処理される可能性があります」
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──それは、つまり “浮く”ということだ。
ここでの“発言”は、正しさではなく、同調で測られる。
考えをそのまま口にすれば、すぐに滲み出る。
そして、それは見えない壁をつくる。
蓮は、わずかに視線を伏せると深く息を吐いた。
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そして、スマホが回収される。
荷物の提出時には、非接触スキャンと端末検知が自動で行われる。
古いスマホやタブレットも、通信機能が残っている限り“未申告端末”として検出される仕組みだ。
たとえ電源を切っていても、電波遮断空間を通る際に特有の磁気信号が感知される。
島内ネットワークは登録済み端末しか接続できず、個人機器は使用不可。
オフライン機能すら、持ち込み自体が禁止対象となっていた。
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【AIナビゲーター】
「スマートフォンは一時保管となります。
島内では専用端末をご使用ください。
外部SNS、通話アプリ、ライブ配信系は使用できません」
手渡されたのは、市民ガイド端末(検閲付き)だった。
シンプルで、整然としていて、個性の匂いがしない──そんな“安心”。
これで、本当に切り離されるんだ。
ふと、彩華の歌声が脳裏に浮かんだ。
あの投稿も、もう見られなくなる。
【AIナビゲーター】
「音楽・映像は島内向けにAIが監修した安全な範囲で提供されます。
YouTubeの一部コンテンツは、検閲済みの安全モードにて視聴可能です」
(YouTubeがいけるなら…)
「ポケカラって、聴けますか?」
思わず、蓮が尋ねた。
端末越しの声は、すぐに返ってきた。
【AIナビゲーター】
「ポケカラ等のユーザー投稿型音声サービスは、ライブ配信機能の有無に関わらず、島内ではアクセス制限の対象です」
──その一言で、完全に断たれた。
(彩華は、録音投稿だけだったのに。
隣人の騒音なのか? 雑音混じりでも、つい聴いちゃってたな)
YouTubeの検閲だけでも、きっと手間がかかるのだろう。
──だから、仕方ない?
いや、それでも。
あの声は、もう二度と届かない。
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やがて蓮は、自動運転の無人バスに乗せられ、湾岸施設へ向かう。
そこで待っていたのは、真っ白なAI船。
無音の海を進むその姿は、どこか現実離れしていた。
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──そして蓮は、静かに誰にも見えない世界へと足を踏み入れた。
それは、かつて信じていた日常から、音も立てずに背を向ける瞬間だった。
貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!