第19話「届かない願い、笑顔の裏で(エコーチェンバー島:カナリア区)」
静かに過ぎていく、穏やかな日々。
この島で出会った人との繋がりが、少しずつ心の奥にあたたかさを残していく。
──けれど、“本当の気持ち”に気づいたとき、人は もう一度、現実と向き合わずにはいられなくなる。
蓮がふと漏らした「戻りたい」という言葉。
それは、ただの弱音ではなく、この場所のあり方そのものに問いを投げかける一歩だった。
陽翔は、蓮のその想いをどう受け止めるのか。
小さな選択が、静かに歯車を回し始める──。
中庭のベンチに、陽翔と蓮は並んで座っていた。あの日と同じように、穏やかな風が二人の髪を優しく撫でている。木々の葉がゆっくり揺れ、陽射しがリズミカルに地面へと降り注ぐ。
「やっぱ、ここ……いいっすね。落ち着く」
蓮がふと呟いた。陽翔は、それに頷きながら遠くの空を見つめていた。雲がのんびりと流れている。どこか他人事のような風景。でも、ここにいるときだけは、不思議と気持ちが柔らかくなる。
しばらく無言の時間が続いた。
「陽翔さん……一つ聞いていいですか」
蓮の声が、どこか躊躇いがちに響く。陽翔は、ゆっくり顔を向けた。
「何でも聞けよ」
「……ここから、出たいと思ったことってあります?」
その問いに、陽翔は少し驚いたように目を見開いた。けれど、否定はしなかった。代わりに、深く息を吐いて空を仰ぐ。
「来てすぐは働かなくていいし、人と対面で関わらなくて済むし、悪くないなって思ってた。
でも、段々わかってきたんだ。ここは思ったより息苦しい場所だって」
「……やっぱ、そうっすよね」
蓮は苦笑いを浮かべながら、足元の草を指先で軽く撫でた。その動きには、どこか迷いと躊躇がにじんでいた。
「実は……俺、昨日夢見たんすよ。元の世界の夢。夢の中で、お母さんが弁当作ってくれてて……それだけなのに、目が覚めたら涙出てて。何でもない日常。びっくりしました、自分でも」
陽翔は静かに目を細めた。蓮の声には、普段とは違う、弱さと真っ直ぐさが混ざっていた。
「……帰りたいって、思った?」
「はい。……でも、無理なのわかってるんすよ」
蓮は笑おうとしたが、その笑みは どこか痛々しかった。
「こっちに来るとき、覚悟してきたんすよ。戻れないこと、わかってて。だから……『戻りたい』って言うこと自体、間違ってるのかなって……でも……」
「でも?」
陽翔の問いかけに、蓮は少しだけ俯いた。
「ここで陽翔さんと出会って、色々話して……“人と繋がること”って、こんなにあたたかいんだって思い出したんです。そしたら、余計に……戻れないのが辛くなってきて」
陽翔は、静かに頷いた。
「わかるよ。俺も、最初は逃げるようにして来たけど……今は違う。蓮といる時間が、すげえ大事になってる」
「推しにこんな嬉しい言葉かけてもらえるなんて幸せ過ぎるんですが(笑) 陽翔さん、ありがとうございます」
蓮は、素直にそう言って目を細めた。その目には、ほんの少しだけ光が宿っていた。
「兄貴が気づいてるかは分かんねえけど、もしかしたら……俺、まだこの島にいたいって思われてるかも(笑)」
「え?」
「いや、俺さ、最初来るときは陥れられたり理不尽なことあったりで、もうどうでもいいって感じで逃げるようにここに来たんだよ。だから、多分“現実を諦めた人”って分類で送り込まれてるんだと思う。でも……今は違うんだよな」
陽翔は、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「兄貴に相談したら、なんとかしてくれるかもしれない。けど、それでまた圧力かかったら……って思うと、言い出せなくてさ。
それに……今は蓮がいてくれるから、こうして笑える。楽しめてるんだよ、この場所を」
「陽翔さん……」
「だから、蓮が“帰りたい”って思ってくれたこと、なんか……嬉しい。希望を持ってる証拠だからさ」
その言葉に、蓮は少しだけ目を潤ませた。
「……でも、やっぱり思うんすよね。どうして、こんな仕組みになってるんだろうって。帰りたいって思うことさえ、許されないなんて」
「……多分、“ここでしか生きられない”って思わせることで、システムの安定を保ってるんだと思う。逆に言えば、帰りたいって気持ちは、この場所にとっては“異物”なんだろうな」
「俺たちが、異物……か」
蓮は自嘲気味に呟いたが、すぐに顔を上げた。
「でも、そんなの関係ないっすよね。だって、俺はまだ、外の世界でやり残したことあるんすから。──それに、俺だけじゃないかもしれない。帰りたいって思ってる人、他にもいる気がする」
陽翔は黙って頷いた。蓮の言葉が胸に響いていた。
誰かと出会って心を動かされて、もう一度前を向く力が生まれる。それはきっと、どんな場所にいても尊いものだ。
「蓮が帰りたいって言ってくれて、俺、救われたよ。俺も……あきらめたくねぇって思えた」
蓮は一瞬だけ言葉を飲み込み、それでも意を決したように言った。
「戻ったら……また陽翔さんの演技、見たいなって思います。ただ……一般人と芸能人って、別の世界の遠い人に戻っちゃうのかなって。でも、それはそれで……離れても、陽翔さんのこと応援してるんで」
その言葉に、陽翔は目を細めた。
「……蓮、ありがとな。てか、もう“友達”だろ。肩書きとか関係なく、俺は そう思ってる。
戻れたらさ、まずは……連絡先、交換しような」
蓮は、どこか寂しげに微笑んだ。
──そのとき、遠くから聞こえてきたのは、誰かの足音だった。
ベンチの向こう。白く光る石畳の上を、スーツ姿の男が静かに歩いてくる。迷いのない足取り。陽翔はその顔を、すぐに見分けた──兄、鈴木だった。
「……兄貴?」
陽翔が小さく呟いた瞬間、蓮は陽翔と目を合わせて言った。
「……来ましたね」
次の瞬間、鈴木は二人の前で足を止め、いつものように淡々とした表情で言った。
「……報告の件で。少し大事な話になる」
二人は顔を見合わせる。穏やかな風が止まり、空の色が少しずつ変わり始めていた。
──運命の歯車が、また静かに音を立てて動き出していた。
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