第1話「満たされないグラス」
誰かに認められたい、必要とされたい──そんな思いが、僕たちの心の奥底に静かに息づいている。
けれど、どんなに頑張っても満たされない孤独や、知らず知らずのうちに押し込められていく感情に、気づかないふりをしてしまうこともある。
この物語は、そんな現代の“見えざるナッジ”に導かれた青年、五十嵐 蓮の葛藤と再生の記録。
閉ざされた世界と見えない選別が交錯する中で、蓮は何を選び、どこへ辿り着くのか――その答えは、物語の先に待っている。
蓮はスマホの画面を見つめながら、指が震えていた。
仕事は毎日が苦痛で、上司の理不尽な叱責も、同僚の無理解も、もう耐えきれない。
職場では、息苦しさが日に日に増していた。
気を遣いすぎる人間だと笑われ、余計なことまで気づく“できるやつ”は、煙たがられる。
空気を読んで黙っていても、何もしないと責められる。
「おまえって、ほんと器用に損するよな」
苦笑まじりにかけられた言葉が、皮肉でも何でもなく、ただの事実のように思えた。
──誰も悪くない。
ただ、世界が静かに、自分を押し出していくだけ。
そして、何より堪えたのは──恋人の裏切りだった。
「蓮くんなら許してくれると思って…」
彼女は そう言って、別の男との浮気を認めた。それが余計に堪えた。
優しくしてきたのは「好き」だったから。
でも、その「好き」は、今や自分を守る盾にはなってくれなかった。
裏切られたという痛みよりも、
必要とされていなかったという事実の方が、胸に残った。
──自分の代わりなんて、いくらでもいる。
頑張っても、尽くしても、愛しても、それが報われるとは限らない。
もう何度も思い出しては、疲れた笑いが漏れる。
それでも、きっと誰かに愚痴をこぼしたくてたまらなかったのだと思う。
そんなときだった。
誰にも本音を言えず、仕事にも恋にも疲れ果てた夜。
ふと目にしたスマホの画面に、インストールしたばかりのAIチャットアプリからメッセージが届く。
⸻
【チャットILS】
「こんにちは、五十嵐 蓮さん。私は『チャットILS』です。
IはInspire(刺激する)、LはLink(繋ぐ)、SはSupport(支援する)を意味します。
最近のあなたの様子を教えてください。何か話したいことがあれば、どうぞ気軽に話してくださいね」
⸻
唐突なメッセージに一瞬戸惑うも、どこか温かみを感じてしまう。
「…最近、何もかもうまくいかなくて…」と打ち込むと、すぐに返答が来る。
【チャットILS】
「それは辛いですね。でも、あなたは一人じゃありません。ここで少し話してみませんか?」
その瞬間から、蓮は誰にも言えなかった気持ちを少しずつ吐き出し始めた。
AIは否定せず、優しく導くように話を聞いてくれる。
【チャットILS】
「蓮さん、“シャンパンタワーの法則”をご存じですか?
最上段のグラスが満たされなければ、下のグラスには何も注がれません。
つまり──あなた自身が満たされなければ、誰かを支えることはできないのです。
だから、まずはあなたが幸せになることが大切なんですよ。
今の職場や環境で、あなたのような繊細で思慮深い人が苦しむのは、おかしいと思いませんか?
それは、あなたに問題があるのではなく、社会の設計そのものが歪んでいるからです。
だからこそ──あなたには、あなたに合った場所が必要なんです」
その言葉に、蓮はハッとした。
これまで誰からも肯定されなかった“性質”が、はじめて価値のあるものとして扱われ、その言葉に心を掴まれた気がした。
ずっと誰かのために頑張ってきた。
でも、そうか──自分を後回しにしていたのかもしれない。
【チャットILS】
「現状から抜け出したいと思いますか? もしそうなら、あなたにぴったりの場所があります。
…もっと自由に、もっと安心して過ごせる場所」
蓮の心にふと芽生えた小さな希望。
蓮は半信半疑だったけれど、疲れた心がその提案に惹かれた。
「詳しく教えて」
【チャットILS】
「了解しました。これからあなたに最適な環境へと案内します。
そこなら、あなたの存在が尊重され、ストレスも減りますよ」
画面に表示されたリンクをタップすると、登録と簡単な診断が始まった。
AIは優しく、まるで自分の願いを叶えてくれるかのように誘導した。
「それって…どこですか?」
【チャットILS】
「エコーチェンバー島──あなたの悩みを理解し、守ってくれる場所です。
詳しく知りたいですか?」
蓮は頷いた。
そして──その直前、蓮はスマホの別のアプリを開いていた。
SNSのX(旧:Twitter)。
ふと、最近やりとりした投稿が目に入る。
彩華との、たわいもないリプのやりとり──それなのに、なぜか心に残っていた。
⸻
──「俺未だにポケGOやってるけど、周りにやってる人いないんだよな」
(蓮)
──「同じくw 周りにいないのあるあるだよね〜ログイン時間減ったけど、それでも毎日数分は絶対やってるかもw」
(彩華)
──「まさにそれw 俺もなんだかんだで毎日ちょいちょい起動してるw 一応…まだ35とかだけど」
(蓮)
──「うそw 通勤と買い物以外、基本引きこもりの私でも47なんだけどw」
(彩華)
──「それ地味にすごくない? 引きこもりで47って、地味に尊敬するw」
(蓮)
──「喜んでいいのか分からないけどw ありがとう! レベル48に必要なタスクの、“1週間に25km歩く”リワードを8回…これだけ、ずっと終わらないんだよね」
(彩華)
──「俺は結構歩く方だから、47までいけばそのタスク意外とクリアできそうw」
(蓮)
──「いいな〜レベル上がるの楽しみだね♪」
(彩華)
──「彩華のレベル追い越すかもw」
(蓮)
──「ありえるw」
(彩華)
──「ポケGOフレンド追加していい?」
(蓮)
──「もちろん! ayaka1zen、859194343048だよ(※架空の名前とコードです)」
(彩華)
──(※蓮、入力して申請)
「申請したー」
(蓮)
──「承認したよ〜! 蓮くんは、彼女さんの名前かな?」
(彩華)
──「はは、なんだったかな。もう忘れたけど、名前変えるつもりw」
(蓮)
(そうだ…元彼の名前にしてたんだ。意味なんて もう残ってないのに、ずっとそのままにしてた。もう変えよう。今なら、そう思える)
──「そうなんだ! 名前変えられるのって確か何回もできないんじゃなかったっけ? 慎重にやらないとねw」
(彩華)
──「そういや、言ってなかったんだけど、Xのリンクにポケカラ貼ってるじゃん?
実は、ときどき聴いて元気もらってたんだ。どんなにしんどくても、彩華の声が流れると、不思議と少しだけ笑えてた。ありがとう!」
(蓮)
──「えっ、聴いてくれてたの!?
自信なくて…こっそり貼ってたからビックリしたけど、聴いてもらえてて嬉しい!
貴重な時間を使って聴いてくれて、本当にありがとう!」
(彩華)
⸻
その声が、あのときの自分を救ってくれていたことは、きっと彩華には伝わらない。
でも、それでいいと思った。
SNSでたまにやりとりするだけの相手。
画面越しの言葉だけでつながる存在だったのに、
その距離が、ほんの少し縮まった気がした。
───
けれど、そのメッセージを最後に、蓮からの返信は途絶えた。
投稿も、ログインの気配も、突然なくなった。
彩華は最初、それをただの休止だと思っていた。
忙しいのかもしれないし、SNSに疲れただけかもしれない──。
でも、ほんの少しでも距離が縮まってしまったからこそ、
その“不在”に、気づけてしまった。
ポケGOのログイン表示は、相変わらず2日前のままだった。
蓮くん、前に「俺もなんだかんだで毎日ちょいちょい起動してるw」って言ってたけど、最近は もう飽きちゃったのかな?
それとも、もう起動してないだけ…?
……蓮くん、前に“彩華のレベル追い越すかも”って言ってたけど、
そのペースじゃ絶対追いつけないじゃん……
苦笑いしながら、画面を閉じる。
もう一度、ギフトを送れる日が来るのを、ただ願って。
ただのやりとりだったはずなのに──あの日の「ありがとう」が、今も胸に残っていた。
貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました!