箱舟 第18話
我が目的は、個の繁栄である。
結果的に、同種が増えてしまったが、基本的に、助け合う事はない。個が繁栄していく事がもっとも望ましい未来だ。それは、アミノ酸に満たされた生命のスープとも呼ぶべき、水面で揺られている時から何一つ変わらない。
複数の細胞が重なり合って、新しい個を形成し、今の、私を作った。
キリスト教の教えでは、神が意図して生物を創造するらしい。それに倣えば、私は神に選ばれて、創造された、生命体という事になる。
なんと馬鹿々々しい事か。
神が私など、下等で、下賤な、生命を創造するのだろうか。
私はただ貪欲であった。生きる為に貪欲であった。他の皆がそうであったように、私は生きる為に貪欲であった。
硫酸の海と、酸性の雨は、私達の箱庭であった。その箱庭では、常に、新しい生命が生まれ、食われ、生まれ変わり、また、生まれ、食われ、生まれ変わり、小さい生命が、ただただ、生と死を繰り返していた。あまりにも小さい生命である者達は、果たして生と死という概念すらあるのかも疑わしい。死というものが、次の生命の生に繋がるからだ。生と死とは、つくづく曖昧なものだ。
何億年経過したのかも分からないが、気が付けば、私はそこにいた。貪欲に生命を喰らい続ける、私がいた。
私も喰らったが、同様に喰われたりもした。
喰われたりもしたが、私は喰われた相手の生として、存在した。そしてまた、気が付けば、私は他の生命の中にいた。私が望めば、その生命は、食べ物を望むだけ運んでくれた。私は口を開けて待っていれば、喰らう事に困らなかった。貪欲に生命を喰らい続けた。好きなだけ好きなだけ喰らい続けた。
また気が付けば、外の生命の姿が変わっていた。どんどん、どんどん、時間の経過によって、私の外側の生命は、姿を変えていった。
海から陸へ。そして空へ。暖かい気候から、氷の世界に。時に、熱砂を渡り、薄い空気の山の上。私は姿を変え、地球の様々な場所に君臨した。地球は私の住処だ。
神が私を作った?・・・あながち、神は間違っていなかったようだ。地球の支配者である私を、創造したのだから。
だが馬鹿々々しいと思うのは、その教えを広めたキリストという人間が、私の、外側の生命だという事だ。あの時は、腹の中から声を出して笑ったものだ。実際、私は人間の腹の中に潜んでいるのだから、脾兪でもなんでもなく、事実だ。
私が望むことは、個の繁栄。他の者がどうなろうと知った事ではない。それは生まれた時から何も変わらない、私の持つ真理だ。
私は、既に知っていた。いずれ私自信が、この地球という星を喰らい尽くすという事を。
私が死ぬか、星が喰らい尽くされるのが先か、どちらかしか未来はなく、だが私は喰らうのをやめる事はなかった。個の繁栄こそが私の望みだからだ。いずれ星の全てを喰らい尽くし死ぬ事が分かっていても、矛盾する行動を取っていたとしても、私は、私の思うがまま、喰らう事をやめなかった。
だが、人間という外の生命を得て、希望が見えてきた。
地球を出る術を得たのだ。
私は宇宙に出る。宇宙に出て、喰らい続けるのだ。宇宙を喰らい尽くす。私の望みは、個の繁栄である。他の者がどうなろうと、知った事ではない。いずれ私は自らが予知するように、宇宙を喰らい尽くすだろう。何故なら、神が私を作った時から、決まっていた事だからだ。
何故、神は、私の様な、下等で下賤な生き物を作ったのだろう。私は万物を喰らい尽くすまで、生き続けるだろう。個の繁栄こそ私の望み、それだけだ。
そうか。分かった。神は自らを殺す為に私を創造されたのだ。
神が世界を創造するのが先か、私が万物を喰らい尽くすのが先か。神と私のゲーム、それが、この世界。この宇宙。
なんと愉快な事だろう。
久しく感じていなかった感情を覚えたのは、先日の事だ。
思い出した。
生命のスープで漂っていたあの頃、なす術もなく、理不尽すら感じる事もなく、喰われ続けられた日々。強き者が喰らい、弱き者が喰われる。生と死は限りなく、コインの裏と表で、喰らったと思えば、喰われる。そして、喰われたと思ったが、次には喰らい返す。
頑丈な骨格、活動時間を大幅に伸ばした肺、エネルギーを循環させるポンプ、血管。より堅牢な外側を得た私が、久しく感じていなかった感情。純粋な殺意。綺麗な死。喰われるだけのあの頃の感情だ。
あの人間の女と対峙した時から違和感を覚えていた。その違和感は最終的に、自身の外側の殻、すなわち、人間という器を捨てさせるに至った。ここ二千年は人間と言う器は非常に使い勝手が良かった。地球を喰らい尽くすまで時間が少ないのは分かっていたから、次の星に向かう為の時間稼ぎと、その準備に非常に役立った。地球を出るまで、私は死ぬ訳にはいかない。こんな星で私は神に負ける訳にはいかない。私が神を喰らうまで私は生き続けなければならない。
人間の女ごときに、喰われる訳にはいかないのだ。私が戦うのは神。決して人間の女ではない。
あの人間の女は、人間として欠陥品である。何故なら、どんな劣悪で、品性の欠片もない、戦争に明け暮れる貧国の戦士ですら、対話は可能だ。人間は社会性を持った動物で、理性というトリガーがある。同じ社会性を持った動物でも蟻や蜂とは違う。理性は人間という動物が、人間たる所以。それがなければ畜生以下という事になる。
あの人間の女は、畜生以下という事だ。
だが、それは原初への回帰を意味する。生命のスープで私を喰らった、あの単細胞の生物の様に、純粋に私を喰らった。そこに理性はない。あるのは、生と死だけ。
あの女と私の間にあったのは、生と死。それだけだ。そして私は人間の女にいとも簡単に喰われた。
私は地球の支配者だったはずだ。これからもそうだ。地球を喰らい、宇宙を喰らい、そして神をも喰らう、存在のはずだ。それが何故、人間の女に喰われなければならないのだ。
私はまだ劣っているというのか。私が劣るなどあり得ない。私はワーム。万物を喰らい尽くす純粋なる者、ワーム。
人間など私を運ぶ、器に過ぎない。人間は私を運べば良い。人間は私に、私が望むものを喰らわせればいい。私こそが主。私こそが人間の主。地球の支配者。宇宙の支配者。
人間は欠陥部品が多い。その虚を、あの人間の女に突かれた。人間は、目、鼻、耳などの感覚器を備えている。他の動物もしかりだ。その感覚器から情報を得る事が出来るが、その反面、その感覚器が往々にして動物としての弱点である事が指摘される。その感覚器が潰されれば、身動きが取れなくなる。それがまさに、あの時の私だ。
あの人間の女は、まず私の目を潰した。次に、人間の最大の利点である、器用な前足と後ろ足を拘束された。最終的に、呼吸器を犯す神経毒を、皮膚から入れられた。皮膚自体も焼けただれ、痛みが生じた。私の器である人間は、機能を失った。私は、器を失い、どうする事も出来なくなった。おまけに人間は、社会性のある動物だ。一匹では対処できなければ、二匹三匹とどんどん増える。人間はゴキブリを笑うが、ゴキブリ以上だ。わらわらと私を取り囲み、私の尊厳を奪った。
私が人間に喰われるはずがない。喰う側の存在のはずなのだ。私はこれから宇宙に出なければならない。地球を喰らい尽くすのは時間の問題だ。早く宇宙に出なければ。こんな所で終わる存在ではない。
「・・・警視正、警視正、お疲れのようですけど?大丈夫ですか?」
「ああ、ええ。大丈夫です。」
「無差別破壊衝動人間の捜査も順調ではないようですし。」
「ええ。・・・この、イエスマンと呼称される人物ですが、役に立ちそうですか?」
「現状、・・・報告では、意味不明な事を言うばかりで、なかなか、進展は見込みが薄い様な気配はあるようですが。」
「・・・もう、殺しちゃっていいんじゃないんですか、ねぇ。」
「それは、・・・あの、警視正。・・・えぇ。なんとお答えしたらよいのか。」
「冗談ですよ。冗談。人間は社会性をもって生活を営む動物。法がある以上、法に乗っ取って捜査をしていくしかありません。それに同様の事件が今後、起きないとも限りませんから。その対策課である我々は、今回の事案を慎重に捜査する必要があります。」
「・・・そうですよね。そう思います。」
「まぁ、でも、その前に、お腹に何か入れないと動けません。さぁ、まずは食事をしましょう。」
「え?あの、警視正、まだ、休憩の時間にはまだ早いようですが。」
「・・・人間っていうのは、非常に面倒臭いものですね。あらゆる行動が法に縛れている。・・・食事は少し我慢しましょう。」
「警視正?最近、雰囲気が変わりましたけど、何か、ありましたか?」
「私はずっと変わりませんよ。何億年もね。」
「・・・はは。ははははは。」
「ははははははははははは。」
※本作品は全編会話劇です。ご了承下さい。