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作家の棲み処:後編

「早く」


 オウカが起きると、頬に畳の跡が付いていた。オウカはいつの間にか眠っていたらしい。親切に毛布が掛けてある。オウカは重たい瞼を開けた。蜘蛛爺とアラビが人気の大福について感想を言い合っていた。二人の会話は白熱している。水を差すのも悪いと思い、二人にバレないようのっそり廊下にでた。とりあえずオウカはトイレに行くことにした。


 床の板が軋む。空気が湿って肌寒い。尿意も限界に近い。オウカが内股で歩いていると、廊下の奥に扉が見えた。できるだけ慎重に走る。漏れてしまうから。今お腹を押さえつけられたら、確実に出るだろう。ただこの扉の先にトイレがある保証はどこにもない。縋るような思いでオウカは扉を開けた。 


 扉から出たオウカの顔は歴戦の戦士の顔だった。


「ふぅ」


 溜まり物のないオウカの吐息が暗い廊下に響いた。響く声が何となく耳に引っ掛かる。ここの廊下はどこまで続いているんだ。オウカはスッキリした頭で疑問を浮かべた。実はトイレに着くまでに十分かかていた。それなのにまだ廊下の奥は暗く続いている。


 オウカは好奇心旺盛なタイプだ。気になることのためなら犬のうんこだって踏む。アラビと会ったきっかけでもあるし、河童との共通点でもある。


 オウカは目を凝らして奥を覗いてみた。しかし暗く続く廊下の先は何も見えない。覗いても無駄だ。


「・・・」


 オウカは奥に進むことに決めた。もちろんここが迷宮じゃなく人様の家だという事は分かっている。だからある程度進んだら戻るつもりだ。


 進み続けて五分。冒険気分で歩いていたオウカだったが、終わりは案外早かった。暗かった廊下の先に光が見えたのだ。灰色の曇った光。オウカは少し残念に思った。ある程度進んでも無遠慮に歩いてやろうと息巻いていたからだ。だが、現実はこんなものだ。気を取り直して光へと向かう。不思議なことに近づいても光の中は見えてこない。オウカはそのまま光の中をくぐった。


 光の中では川が流れ、雨が少し降っていた。空気はひんやりと湿って、カエルの鳴き声もする。草を揺らす風がオウカの体を撫でた。寒さを感じながらオウカは呆然とした。次いで、もと来た廊下を見る。暗く続く廊下は確かにある。


「なんなんだ。この家・・・」

 

 オウカがいまだに呆然としていると視界の端で何かが動いた。見ると女が寝ていた。岩の上に座りながらうたた寝をしている。よく落ちないな。オウカは理解した。考えても理解できないことを理解した。オウカが引き返そうか迷ったとき女が起きた。オウカの気配を感じ取ったのだろう。


 女の頭が上がる。切れ長の目が重たそうにして開いた。焦点のあっていない目で周りを見ると、オウカを捉えて動きが止まった。目をすぼめてオウカを見る。刹那、目がまん丸く見開いた。まるで猫のような眼光。女はすっと立ち上がる。するとオウカの視界が暗闇で覆われた。驚いて辺りを見渡すと、身体の重心が崩れた。身体は勢いよく倒れ背中に衝撃が走る。オウカは女が押さえつけたと理解した。二の腕に女の爪が付き刺さる。頭のすぐ近くで女の息遣いが聞こえる。オウカは恐怖を覚えた。襲われているのだ、仕方がない。だがそれ以上にオウカの心は高揚していた。経験したことのない異常。異常の中で恐怖する自分。オウカの顔に笑みが浮く。すると女の手から力が抜けた。感じていた女の重みもない。女がオウカから離れたのだ。


 オウカは体を起こす。背中がじんじんと痛む。目の前にはまだ暗闇が広がっていた。廊下のとは違うただただ虚無の空間。雨もいつの間にか止んでいる。身体の輪郭があやふやになる感覚。湿った空気がオウカの体を溶かしていくようだ。女はまだオウカを見ているのだろうか。オウカはたしかにまだ女の視線を感じている。


パシャ


水の跳ねる音が鳴った。また別の場所で音が鳴る。音は何度もなり続ける。オウカをぐるりと囲うよう順番に。女が走っている。見えないがオウカには分かった。


「誰だあんた」


 オウカの問いかけに、少し音の間隔が伸びた。


「ククククク、クフフフフフフフフフフ」


 楽しそうな女の声が空間に響く。女の笑い声は永遠と続く。女は問いに答える気はないらしい。

 

 オウカの中で女の笑い声が走り回る。鼓動も声につられて速くなる。体内の温度は上昇し、皮膚から汗が蒸発する。口角の上がった口から熱い息が漏れ出た。オウカは額につたった汗を手の甲で拭う。気温も徐々に高くなってゆく。女の笑い声が水音に混じり、水の跳ねる音もいたるところで聞こえ始めた。もう女がどこにいるのか分からない。


 突然、視界が白一色に覆われた。目に痛みが走る。瞳に光が飛び込んで目が眩んだのだ。ちかちかする目で外を見渡すと辺り一面水が広がっていた。驚いて視線を落とすとオウカも水の上に立っていた。しかし不思議なことに沈まないことをオウカは疑問に思わなかった。気づくと女の笑い声も消えている。オウカは廊下を探したが見つかることはなかった。


 数秒経ってようやく目が慣れた。周りの景色がはっきり見える。空は相変わらず曇り空。水面は気温のせいかあちこちで高く靄が立っている。水の下は深くてよく見えない。波は立っていないのでとても静かだ。周りを見渡すが女の姿は無い。どこに行ったのだろう。


「どうするか」


 オウカは腕を組んで考える。女も廊下もない空間。状況も理解できず、アクションを起こす材料もない。何をしたらいいのか。オウカは何秒か考えてとりあえず歩くことにした。


 すると、オウカの視界に強大な影映り込む。横幅およそ二十メートル。水中にいるそれは徐々に大きくなる。オウカの背筋にゾクリと鳥肌が立つ。毛穴からは脂汗が一斉に滲み出た。それはオウカへ泳いできているのだ。オウカは一目散に逃げる。しかしオウカの顔には笑みが張り付いていた。震える手を思いっきり握りしめる。足が重いが高揚と恐怖が体を前へと突き動かす。息が上がり肺が痛い。心臓も血流の勢いで破裂しそうだ。オウカが後ろを振り返ると影が目と鼻の先にまで近づいている。オウカは無理やり足の回転を速めた。


 いきなり水面が揺れる。オウカは呆気なく体勢を崩す。止まった体に疲労がどっと押し寄せた。振り返ると影が姿を現した。あまりの迫力に失笑する。


「ははは、こんなの、逃げても、意味・・・ないや」


 オウカが腰を下ろすとそこには巨大な鯉がいた。夥しい文字がその鯉を形作っている。ぎょろりと光る猫のような真っ赤な目。そこにはオウカの愉快そうな表情が映っていた。オウカは観念して首を振った。


「食うでもなんでも好きにしてくれ」


 オウカは楽しそうに叫んだ。鯉は鰓から水を放出すると、口を大きく開く。水はそこへ滝のように流れだした。オウカも木屑のように流される。鯉の口まで目前。オウカは震える足でゆっくり立ち上がり両手を広げる。肺に一杯空気を溜め

「楽しかっt」


パン!


 乾いた音が響いた。気がつくと目の前がただの和室に変わっていた。部屋には物が一切ない。上げていた腕を下ろして、視線を横に向けると、頭を抱えてうずくまっている女と、それを睨みつけるアラビのが映った。


「やりすぎ!」


 アラビが叫ぶ。ただ女はそれどころではないらしい。アラビは溜息をつくと視線をオウカに移した。アラビはそのままオウカに駆け寄る。


「あはは、足がぶるぶる震えてるよ。運動不足なんじゃない?」

 アラビの声色は怒っている。オウカは心の中で肩を震わせた。

「かもな。それでアラビはどうしてここに」

「どうしてって、オウカを探してたからだよ。人様の家を探索するオウカをね」

「はは・・・」

 アラビの目は笑っていなかった。

「セン来て!オウカに言うことあるでしょ」

 アラビの言葉に女は素直に従った。痛む頭を摩りながら近づいてくる。女はオウカの前まで来ると頭を下げた。

「オウカ君、少し物珍しくてやりすぎちゃった。ごめんなさい・・・」

 オウカは一瞬呆気にとられた。先程までとまるで人が違う。

「えっと、驚いたけど怪我もないし気にするな。あと、俺も楽しかったし」

 オウカの言葉を聞いて女はすっと頭を上げると、顔を明るくさせた。

「ありがと。これからよろしくね、私のことはセンって呼んでくれれば構わないから。」

 センはオウカの顔に近づいて愉快そうに笑うと「気が向いたらまたやろうね」と、小さく囁いた。オウカも小さく「楽しみだ」と返した。アラビがもう一度溜息をついく。

「は~、もういいや。オウカ」

「?」

「センは蜘蛛爺の相棒みたいな存在なんだ。()()に仲良くしてあげて」

 センはオウカと目が合うとウインクをした。




 センとの会話も一段落付いたところで帰ることになった。もともと雨宿りのつもりだったので時間的にはゆっくりしすぎだ。ちなみに廊下は先程よりも短くなっていた。詳しいことは分からないが、廊下から奥はセンの手足のようなもので自由自在に操れるらしい。


 アラビはペンの蟲となった蜘蛛爺に別れを告げると外に出ていった。オウカもそれに続こうとする。しかし、「この街は楽しいか?」と蜘蛛爺に呼び止められた。オウカは蜘蛛爺の唐突な質問に迷うことなく「もちろん」と即答した。


「今日みたいに危険なことが起きてもか?」

「まあ、退屈よりはましだな」

「そうか、・・・注意しろよ」

「ああ、ありがと」


 蜘蛛爺は再びペンを走らせた。オウカも玄関をくぐる。霧の中へ入ったアラビを追いかけて。

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