作家の棲み処:前編
オウカとアラビは橋の下で雨宿りをしていた。散歩の途中いきなり降ってきたのだ。すぐ横では川が徐々に勢いを増してきている。辺りは雨で閑散としており、雨の音がよく響く。雨は激しさを増す一方。完全に帰るタイミングを逃してしまっていた。
「今日はよく降るな。」
オウカの声が雨の音によく混じる。
「そうだね。」
かれこれ三十分は経っただろうか。アラビは白い息を吐いた。二人は雨が嫌いじゃない。今、橋に叩きつける雨音、辺りに充満する湿った空気、水たまりに広がる波紋。どれを取っても心が弾む。ただ、今日は陽の下でのんびりと歩きたい気分だった。だから、すこしこの寒さが心に沁みた。
二人の沈黙を雨音が埋めていく。
不意にアラビが「あ、」と呟いた。表情がみるみると明るくなっていく。
「どうした。」
アラビはオウカの方を勢いよく向いた。
「ついて来て。」
アラビがスタスタと歩いて行く。
「どこに?」
アラビは「すぐだから」とだけ。そもそもここに居るのは雨でどこにも行けないからだ。この豪雨ならなおさら。では、どこに行くのだろうか。全く予想がつかない。オウカは少し冒険心がくすぐられる感覚に襲われた。
オウカはアラビの言葉に従うことにした。アラビの背中を追う。この向かう先には何が待っているのだろうか。
「柱?」
どうやら、橋の柱が待っていたらしい。
ペンが紙に振り下ろされる。インクが紙に滲み文字ができる。淡々と文字が生まれるが、たしかにその文字は紙の中に世界を構成していった。紙に文字が埋め尽くされると、その紙は放り捨てられる。そしてまた新たな紙へペンは動く。
石造りの壁。湿った冷たい空気。苔むした部屋の角。畳の上の本と紙の山。奥がまるで見通せない廊下。まるで快適とは言えないそんな部屋に、男がペンを黙々と走らせる。時折余っている四本の腕を使い資料用の本を読む以外はただひたすらに書いていた。永遠に続くだろうと考えられるほど無機質な空間に、扉をノックする音が響く。ノック音はそのまま扉を開く音へと変わった。
「お邪魔するよ、蜘蛛爺。」
「お邪魔します。」
少し服を濡らしたアラビとオウカが入ってくる。その際オウカは驚いた表情を浮かべていた。男は二人を気にすることなく物語を書き続けている。オウカは男の様子を怒っていると捉えたのか、玄関から上がるのを躊躇していた。
「遠慮しないで入りなよ。蜘蛛爺はいつもあんなだから。」
「お、おう。」
オウカはまだ男のことは気にしていたが、とりあえず中に入った。
オウカが座るスペースを探している間に、アラビはテキパキとお茶の準備や、服と髪を拭くタオルを出していた。
「そんな勝手にしていいのか?」
オウカはようやく見つけた場所にちょこんと座り込んだ。
「まあ、毎度のことだしね。」
アラビは床に散らかっている本を本棚にしまっていく。流れるような手つきには何回もやって来たことが見て取れた。だが、この量を片付けるのは重労働だ。オウカは温かいお茶を一口すすると立ち上がり、散らかっている本をまとめていった。どこに片づけるかアラビに聞くと「本棚なら適当に」という事だったので、大きさだけは揃えて本棚に詰めていった。予想通り大変だったが、本が終わったら次は散らかった紙。紙も適当にまとめるだけという事だったので、いくつかの塊に分けて紐でまとめておいた。ただ、見た目よりも多く紙が落ちていたので、思った以上に時間が掛かった。まとめた紙は廊下に置いておく。崩れないようバランスよく。この時、不意に廊下の奥を覗いたのだが暗すぎてよく見えなかった。
ようやく一段落し、広くなった畳に腰を下ろした。いつの間にかアラビが座布団を敷いていた。つかれた腰に優しい。
「おつかれ。手伝ってくれてありがと。」
アラビはこう言っているが忘れてはいけない。家主はアラビではなく、机にかじりついているこの男ということを。なので、感謝は本来この男から出なければいけない。
「バツが悪かったから勝手にやっただけだ。」
チラッと男に視線を移しながらオウカが返す。
「それでもありがと。本当は蜘蛛爺がやらなきゃいけないことなんだし。」
「怠け者で悪かったな。」
ここに来て初めて男が口を開いた。低い声だ。ただ手はまだ動いている。おそらく今までのことも認知していたのだ。そうであれば、本当に質が悪い。オウカも驚いて、飲んでいたお茶が変なところに入ってしまった。
「まったくだよ。」
アラビの様子は変わっていないことから察するに、いつものことらしい。
「アラビ。」
「どうした?」
「あの蜘蛛爺ってひと。」
「あ、紹介がまだだったね。あのひとは蜘蛛爺。あんなでも一応は有名な小説家らしいよ。頑固で不愛想だから偉そうには見えないけどね。」
蜘蛛爺から「ひどい紹介だな。」という突っ込みが入る。
「蜘蛛爺、こいつは」
「知っとる。オウカだろ。」
そう言って蜘蛛爺はひょいと一枚の紙を渡してきた。渡されたオウカは呆気にとられたが、すぐ我に返って目を通してみた。『オウカの情報』という題目が書いてある。
「へ?」
あまりに予想外の事だったのでオウカの頭の中は真っ白になった。読み進めると確かにオウカしか知らない情報が載っている。
「蜘蛛爺これは?」
さすがのアラビも蜘蛛爺に懐疑的な視線を向けた。これは、いつものことではないらしい。
「河童がしつこく話してきたのをまとめといた。」
その声はどこか疲れているように感じる。二人は大体の事情を理解した。
ここで軽く説明をしておく。河童とは良く言えば「自己中心的」悪く言っても「自己中心的」そんな人物の呼び名である。
二人は幾度となく河童に迷惑をかけられてきた。だから、蜘蛛爺の苦労も理解できる。しかし、河童は意味の無い事をしない。もしかすると、蜘蛛爺の家に二人が、特にオウカが来ることを予想していたのかもしれない。つまり、全ては河童の掌の上かもしれないと言うことだ。アラビは深く溜息をした。