未来の見えない恋 8
テスト期間は師範の方針で、道場の出入りが禁止になる。健太の送り迎えも師範に任せ、俺は家と学校の往復だけになった。
勉強は好きではないが、この際気が紛れるなら何でも良かった。
あの日から弥生を避けたし、携帯の電源も切っていた。
期末が開けるとテスト休み。大会まで一週間を切ってたから、朝から道場に出た。
考えないようにしても、弥生の事が離れてくれない。それが煩わしかった。
朝から稽古に出るのは、俺と猛くらいしかいない。
静かな道場は、広々としていた。
猛と柔軟を済ませ、久々に体を思いっきり動かせる。そう思った時だった。
「おはようございま~す」
不意打ちの様な女性の声に、俺達は振り向いた。
「文さん」
猛と俺は顔を見合わせる。文さんは、小さく笑うと
「昨日、亮太が朝から稽古に来るって師範に聞いたから、会えるかなと思って。ちょっと、亮太君いいかな?」
そう言って手招きした。俺は猛をもう一度見たが、猛も困った様子で首を傾げる。
俺は予想外の訪問に戸惑いながら外に出た。
朝日に溶け始めた霜が、椿の葉を濡らしていた。
「健太は?」
「幼稚園。おかげで風邪はすぐ治ったわ。起きてから、亮太君に会いたかったってゴネたけど」
文さんは苦笑すると、俺を見上げた。
「彼女、大丈夫? あれから道場にも来てないし、携帯も通じないから気になって……」
あぁ、それでわざわざ。そういえば、部屋を飛び出した後、一度も連絡してない。
「心配かけてすみません。……彼女とは……」
何て言えばいいんだろう。説明し辛い。五十嵐と会ってた。嘘をつかれた。拒否された。どれも思い出すのも嫌な事ばかりだ。
「……喧嘩でも、しちゃった?」
文さんは黙り込んだ俺を大きな瞳で見つめた。
「まぁ、そんな所です」
「そっかぁ」
文さんは手を口にあて、しばらく何かを考えていたが、顔を上げると
「任せて」
明るい顔になり、道場の方に顔を出した。
「猛君~ちょっと」
猛を呼ぶ。文さんが何を考えてるのか、全く検討もつかず、俺はただ突っ立ってる事しか出来なかった。
文さんの提案で、その日は猛と俺は文さんの家で夕飯を招待される事になった。
「皆でワイワイしたら元気になるわよ」
と猛は乗り気で、面倒な気もしたが猛が行くらなら、と了承した。
稽古後、猛は何か用事があるからと、俺一人先にアパートに来ていた。
二回目のチャイムは、案外緊張しない。
「亮太!?」
すぐに健太の声がして、玄関から飛び出してきた。満面の笑みで俺の足に抱き付く。
「もぅ、ずっとソワソワしてたのよ」
文さんが苦笑まじりに奥から顔を覗かせた。
健太は俺の手を引っ張ると
「亮太! 一緒に風呂入ろう」
「はぁ?」
いきなりの要求に俺は困って文さんに助けを求めた。文さんはエプロン姿で台所に立ちながら
「ごめんね。言い出したらきかなくって。亮太君、もうお風呂入ってきた?」
俺は首を横に振る。
「亮太ぁ~入ろう~」
「けど、着替えないし……」
弱った。健太を説得しようとしゃがんだ時、文さんが何か袋を差し出した。
「良かったら着てくれない?」
「稽古の帰りに亮太の買ってやったんだぞ」
健太の威張った顔。受け取るとスウェットが入っていた。
「今日だけ……ね?」
文さんまで手を合わせて頼む。俺は観念すると、健太の頭をグリグリ撫で
「しゃーねーな。入るか」
「おぅ!」
健太に手を引かれるままに風呂場に向かった。
風呂でも健太は大はしゃぎだった。俺には弟はいないが、いたらこんな感じだろうな、何て思った。
結局、遊んでたら長風呂になってしまった。
「お疲れ様」
健太を膝に乗せ、居間でへばってると文さんが冷たいお茶を持って来てくれた。
「すみません」
受け取り時計を見る。八時か。ここに来てから結構な時間だ。
「猛は?」
文さんがテーブルに皿を並べながら答える。
「さっき来たけど、買い出しに行ってもらったの」
「母ちゃん」
健太が俺に背を預ける。心なしか瞼が重そうだ。
「亮太さ、父ちゃんにしてやろうよ」
半分寝言か? 語尾が溶けていくようだ。
「バーカ。俺はまだ高校生だ」
もはやほぼ目を閉じてる健太にそう言うと、苦笑した。はしゃぎ過ぎて疲れたんだな。
間も置かず寝息が聞こえ出す。
「寝ちゃったね」
文さんが囁き、健太を抱き上げた。
「寝かせて来るね」
立ち上がると、隣りの部屋に歩き出した。その足がふと止まる。
「私も……亮太君が健太のパパになってくれたらと思うわ」
「……え」
振り返った文さんは笑ってなかった。