未来の見えない恋 6
バイトも稽古も全く身に入らなかった。
弥生が他の誰かを見ている姿なんて、付き合う前は嫌になるくらい見て来たのに、今はその時と比べものにならないくらい、苦しい。
正直、片思いの時の方が楽だった。あの時はあの時で、悔しかったり苛立ったりしたが、こんな風に体の内側から掻きむしるような、それでいて、自分ではどうしようもない不快感はなかった。
付き合い始めてからも、実際どうしていいのかわからなかった。
弥生は弥生で、俺は俺。特に変わる必要ないと思っていた。
そりゃ、みんなが言う様に、関係を進めたい気持ちはある。大概男同士の話題なんてそんなのばかりだし。
けど、それは相手ある事で、弥生はどう考えてるかわからなかったし、知るきっかけもなかった。
確かに最近忙しくて、なかなか連絡しなかったが、バイトだって、弥生の為だし……。
「亮太!」
いきなり怒声が飛び、俺は我に返る。顔を上げると、師範の鬼の様な顔があった。
「なんだ。その気が抜けた稽古は。やる気がないなら帰れ!」
「すみません」
慌て頭を下げる。
しまった。完全に上の空だった。
師範は、頭を下げたままの俺の背中を強く叩くと
「試合も近いのに……こんな稽古、いくらやっても無意味だ。今日は帰って、明日出直して来い」
続けると食い下がりたかったが、師範の言う通りだ。今日はいくらやっても無駄だろう。
「すみませんでした」
俺はさらに頭を下げると、道場を後にした。
外に出ると、細かい雨が降っていた。
白い吐く息が、冷たい夜空に昇って行く。
踏んだり蹴ったりだな。
溜め息をついた時だった。
「亮太」
呼ばれて振り向く。傘を持った猛だった。
猛は傘を押しつける様に突き出すと、少し怒った様な口調で
「どうしたの? 亮太、変だよ?」
俺を見据えた。俺自身も自分の気持ちが整理出来てないから、傘を受け取りはしたが答え様がなく目をそらした。
猛が顔を覗きこむ。
「弥生と……何かあった?」
名前を聞いただけで、痛みを感じた。いつもなら『知らん』の一言で切り捨てられるのに、今日に限ってそれすらも出来ず、ただ唇を噛む。
猛は玄関に腰を下ろすと、隣りに座る様に床を叩いた。
仕方なく、黙って従う。
誰も他にいない玄関は、ガランとしていて薄暗い。外の玄関を照らす明かりだけが静に広がり、冬の霧雨を暗闇に浮かびあがらせている。
「一人で突っ走る前に、話してみてもいいんじゃない?」
猛の言い方は、肝心であればある程柔らかく、それでいて拒否させない。
俺は何度か口にするのをためらい、唇を無意味に動かしたが、結局言葉にできたのは見たままの事実だけだった。
「……五十嵐と会ってるのを見た」
口にするのも嫌だった。傘を握る手に力がこもる。
「うん。でも、それだけじゃないんでしょ?」
「休みにも……二人で会ってるらしい。文さんが、観覧車で並んでるの見たって」
これには猛も意外そうな顔をして、しばらく黙り込んだが、打開策を探る重い口調で
「弥生には?」
黙って首を横に振る。
訊けなかった。何より、それが情けなく悔しい。
「たぶん……弥生には俺より五十嵐が似合ってる」
文さんの言葉がリフレインする。
「価値観も一緒で、いつも傍にいてやれる奴のが……」
そうだ。受験に受かればあいつらは同じ大学。どの道、遅かれ早かれこうなってた。
沈黙が降りた。
言葉にすると、余計に苦しい。
もう……いっそ……。
「だから、一人で突っ走らないの」
俺が何かを決意しかけた時、猛が俺の肩に手を置いた。
「大切なんでしょ? 今でも好きなんでしょ? やっと結ばれたのに……」
猛はじっと俺の目を見た。
「勝手に終わらせていいの?」
俺は猛の目を見つめ返した。猛は微笑み頷く。
これは、去年、俺が猛に言った言葉だ。片思いの相手を勝手に諦めようとしていた猛に、他の誰でもない俺自身が言った言葉。
「明日、聞いてごらん。弥生だもの、少なくとも嘘はつかないわ」
「あぁ。そうだよな」
俺は頷くと、猛に傘を返した。
「サンキュな。頭冷やしたいから、これ、いいや」
「わかった」
猛は傘を受け取り、背中を叩いた。
「しっかりしなよ」
「あぁ」
俺はもう一度頷いて見せると、雨の中を走り出した。
冷たい雨はさっきより心地良く感じられた。