未来の見えない恋 2
道場に着くまで、なかなか一度浮かんだ妄想と罪悪感は消えてくれなかった。
振り切る様に思いっきり走ったから、息はかなりあがったけど、帯を締める頃には、乱れた息も心も整っていた。
「今日から頼むぞ」
師範、猛の父に背中を叩かれ気が引き締まった。
年少部は三才から小学生まで。
俺は取りあえず、師範が教える稽古を見守り、ついていけてない子をサポートする役目から始める事になっていた。
「今日から来る子がいるね」
猛が名簿を見ながらその名をさした。確かに知らない名前だ。新入りなら特に気をつけてやらないとな。
「亮太。スマイル、スマイル」
つい力が入ってた肩に、猛は気負いをはらうように手をおいた。
年少部の稽古が始まる。
新入りは肩透かしと言うか……まだ来てなかった。入口を気にしながら指導していく。
子ども達の一生懸命な様子は、いつみても良い。何て言うか、初心を思い出させてくれる。俺も、あんな時期があったなぁ。
「すみません!」
突然後ろで声がした。見ると、知らない若い、たぶん母親だろう、が泣きべその子どもを抱え立っていた。
俺は師範に目配せし、駆け寄る。
子どもはかなり泣いた後らしく、目が少し腫れていて鼻の頭が真っ赤だった。道着は着方がわからなかったのか、めちゃくちゃだ。
「あの、遅れてすみません。今日からお世話になる三井……三井健太です」
「預かります」
母親は寒さに、息子に負けないくらい鼻を赤くしていた。
近くで見ると、本当にまだ若いのがわかる。俺は母親にしがみつく子ども、健太に手を伸ばした。
「い~や~だ~!」
健太は大声で泣き叫び、母親から離れ様としない。
母親も半泣きだ。弱った。こういう場合は……今日の所は諦めて貰おうかと口を開いた時だった。
パチン
高らかに頬を平手打ちする音が鳴り響いた。母親が子どもを叩いたのだ。
俺も子どもも唖然。母親は唇をキツく噛むと、声を上げた。
「健太! アンタは強くならなきゃダメなの! こんな事で泣くな!」
それはヒステリーにも見えなくなかったが、俺にはそう思えなかった。なんとなくだけど、この平手に母親の切実な意思が込められてる、そんな気がした。
俺は固まる健太を抱き上げると、ゆっくり下ろし目線を合わせるようにしゃがんだ。
健太は泣かない様に唇を強く噛み、拳を握り締めてる。
「健太って言うのか」
頭を撫でかけて止めた。帯を締めたら、子どもじゃなく、一人の選手だ。
俺はその手を頭に置かず差し出した。
「俺は五木亮太。似た名前だな。ヨロシク」
健太は俺を睨みつけると、パンッと手をはたいた。
「健太!」
母親の非難に、俺は黙ってる様に目で合図する。母親は少し戸惑ったが、頷いた。
俺は再び視線を健太に戻すと、道着を直し始めた。
「お前な、母ちゃん大切か?」
「当たり前だろっ」
ふて腐れた顔。俺は敢えて無視する。
「なら、母ちゃんを心配さすな。男なら……」
帯をキュッと締めてやる。
「強くなって、大切なもん守らなきゃな」
じっと健太の目を見た。強くて曇りない目だ。
健太はしばらく俺を見つめてたが「わかった」呟くと母親を振り返った。
「母ちゃん、俺、強くなるよ」
健太の言葉に母親はみるみる表情を崩す。
若いのにってのは変だけど、この人なりに子どもを思い必死なのが良くわかった。
母親は頷くと、立ち上がった俺に深々と下げて帰っていった。
それから健太は泣かずに毎日稽古に来る様になった。
元々負けん気が強いらしく、悔し涙を堪える姿も昔の自分を思い出して微笑ましい。
母親とも、毎日顔を合わせるうちに少しずつ話をするようになった。若いはずで、まだ二十二歳。十七歳で健太を産んだが、今はわけあって別居中らしい。
「だから、健太には強くなってもらいたいんです。親の勝手なのはわかってますが、これからは二人で生きていくつもりですから」
そう言う横顔が、寂しそうだった。
けど、俺は何も言ってやれない。黙って聞いてるだけだ。三井……文さんは、それでもいつも最後にはこう俺に言う。
「亮太君に話聞いて貰って、いつも救われてます。ありがとう」
何もしてやれてないのに、礼だなんて……俺の気持ちは複雑だった。
「亮太。新しいバイトはどう?」
「ん? 別に……」
久しぶりに二人で出かけた弥生は、なんだかいつもと違う。何がって言うのはわからないが。弥生は俺の返事が気に食わなかったのか、少し唇を尖らせた。
あ、そうか、口紅してるんだ。
「乙女ちゃんが言ってた。新しい子のお母さんになつかれてるって」
「何だそれ。健太の事か?」
弥生は不機嫌そうに頷いた。
乙女め、余計な事を……。
俺は頭をかくと
「別に。何か色々大変みたいだからさ、話聞いてるだけ」
チラリ弥生を見た。まだ表情は険しい。
弱った。別にどうって事ないから、謝るわけにもいかないし……。
「亮太……」
「ん?」
弥生が立ち止まり、俺も合わせて振り返り足を止める。
「私達、付き合ってるんだよね?」
「は?」
何の冗談? んな事……。皆に何か吹き込まれたか?
この間のマックの一件を思い出す。弥生は不安げな顔でこちらを窺っていた。
……こんなの、苦手だ。
「バーカ」
俺は呟くと、弥生の手をとった。
「えっ」
弥生が驚いて俺を見る。俺はしっかり手を握ると
「当たり前だろ。変な心配なんかするなよ」
「……うんっ」
頷く弥生の顔は見れなかった。俺自身、顔が赤くなるのを感じてたから。
俺達はその日は帰るまで、手を繋いだまま離さなかった。