未来の見えない恋 17
試合当日、朝早くに病院で痛み止めを打って貰ってから、道場に向かう前に弥生の家に足を向けた。
雲一つない青空は、冬の大気をどこまでも透明な深さに包み、吸い込まれていきそうだ。
家の前で携帯をかける。すぐに出た声は、あの雪の日以来だ。
「亮太? おはよ」
「今、外にいる」
「え?」
二階の部屋の窓が開いた。まだ部屋着の彼女が顔を出す。
「待って。今、外に……」
「このままでいい」
俺は携帯をあてたまま見上げ、目を合わせた。
「亮太!?」
「今から、行って来る。会場で待っててくれ」
元々話すのは苦手だが、電話だとさらに用件のみになってしまう。
だけど、弥生は言葉足らずの俺に微笑み、頷いてくれた。
「わかった。待ってる」
「じゃ」
短い会話。俺は携帯をきって、もう一度弥生を見上げてから、歩き出した。
たぶん、言いたい事はたくさんあったと思う。だけど、何も言わないでいてくれた弥生の気持ちが、有り難かった。
俺はポケットにある小さな塊を握ると、足取りを早めた。
道場では、師範と猛がもう待っていた。
挨拶もそこそこに、コートを脱ぐと二人の前に立つ。
ピンと張った真冬の冷気は、神聖な感じすらした。
薬のおかげで、痛みは全く感じない。普段の稽古通りに行けば……。
「中途半端なら許可はしない」
「はい」
師範の言葉に頷く。
もう迷わない。やるべき事も、大切なものも、ハッキリ見える今は……。
「礼」
俺は全身に気を張り詰めると、己を質す様に構えた。
試合は次で準決勝だった。
控え室に来てくれた馴染みの先生が、足をみながらぼやく。
「もう、限界だって。棄権しても、何にも不名誉じゃないよ」
俺は師範の朝の判断で、予選から時間が空く組み手に限り出場を許されていた。
決まった形を披露する型に比べ負傷の危険性もあるが、左足に負担をかけない様に自分で工夫できる。
短時間で決着つければ尚更、都合が良かった。
予選はそんな感じで何とか誤魔化していけたが……
「さすがに本選はキツいみたいだな」
先に型で優勝を決めた猛が覗きこんだ。
わかってる。特に次は全国大会で一度負けた相手だ。厳しいだろう。
「テーピングお願いします」
俺の言葉に、先生と猛は顔を合わせる。
二人ともガキからの付き合いだ、何を言っても無駄なのはわかってくれてるはずだ。
「わかった。だけど、見ていて危険だと判断した時は、容赦なく止めるよ!?」
俺は黙って頷いた。
弥生は来ているのだろうか。会場には試合以外立たないから、わからない。だけど、どちらにしろ絶対、棄権はできない。もう、中途半端な事はしないと弥生と約束したのだから。
テーピングが終わり、足の感触を確かめてた時だった。
「亮太~」
「おぅ」
健太の元気な声。駆け寄って来ると、足下に抱き付く。
「本選、残ってるんだな」
自分の事の様にはしゃぐ健太に、肩の力が抜ける。そうだな、もう少し平静にならないとな。
「亮太。優勝するんだろ!」
無邪気な問いに、苦笑して頷いた。
「あ、母ちゃん!」
……ゆっくり扉を振り返る。
「亮太君」
俺は文さんを見つめると、頷いてみせた。
「馬鹿ね」
泣き顔の様な笑みに、俺は頭を下げる。
「俺、色々話すの苦手だから……。だから見ていてください」
文さんは二三度頷くと、自分自身を抱き締めるように腕を組み
「わかった。見てる」
そう呟いた。
「礼。始めっ」
視界に映るのは、相手であり弱い自分自身。
打破する、隙は微塵も見せない。気を抜けば、瞬く間に叩き伏せられるだろう。そして何も変えられないまま、床に這いつくばるしかなくなるんだ。
無音の世界。互いの呼吸だけが耳に届く。
間合いが一気に詰められた。
先手を打たれる前に、思いっきり踏み込み右拳を繰り出す。同時に相手の右足が閃いた
「っ!」
隙が生まれたのはこちらの方だった。踏み込んだ左足の激痛に、僅かだが大きな軌道の誤差が生じ、力も逃げる。次いで、相手の蹴りがその軸足だった左足に食い込んだ。
「……っ!」
倒れそうになるのを右足で踏張ると、相手を直ぐさま見据えた。
振り下ろされる拳を避ける余裕がない!ならっ。
俺は敢えて避けず、顔面でその拳をうけた。強烈な衝撃と打ち砕かれそうな痛み。だが、負けるわけにはいかない!
左足を再び踏み込んだ。今後は痛みごと大地に踏み付ける様に。
そして渾身の力をこめ、右足払いを繰り出した。
次の瞬間、立っていたのは俺の方だった。
俺の勝利を告げる声が、遠くで聞こえた。
途端に激痛が走り、俺はその場に崩れ落ちた。