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人生ゲーム  作者: 八重
エピローグ
23/23

エピローグ

 意識が戻ったとき、左手に温かい感触を感じた。


 目を開けるとそこは病室だった。窓もドアもある普通の病室。ベッドの横には丸椅子が置かれていて、左手の感触の主が、座ったまま眠っていた。


 雪乃は身体を起こそうと、身体に力を入れた。しかし、その瞬間に経験したこともないような痛みに襲われた。思わず悲鳴のような声が漏れる。

 雪乃の声に呼応するように、左手がギュッと掴まれた。眠っていた健が目を覚ましていた。彼は、眠たそうに空いた手で左目を擦ると、立ちあがった。雪乃の左手から、彼の手が離される。彼はベッドの傍の壁に垂れ下がっているナースコールを手に取ると、呼び出しボタンを押した。


 それからは大変だった。看護師や医師、さらには雪乃が目覚めたと知らせを受けた警察官や、雪乃の両親などが病室を訪れ、その対応に追われた。雪乃は終始あたふたしていたが、隣に立つ健の手腕は見事なもので、言葉を尽くし、時には頭を下げて、病室に訪れた訪問者たちを捌いていった。その行動の端々から雪乃への気遣いがにじみ出ていることに気づかないほど、雪乃は鈍感ではなかった。

 関係者の話によると、雪乃は五階建ての廃ビルの屋上から身を投げたようだった。しかし、運良く植え込みに落ちたため、一命をとりとめたようだった。



 病室に押し寄せた人々が退散すると雪乃は小さくため息を吐いた。

 健の方に目を向ける。彼は、まだ雪乃に対して何も言っていない。怒っているのだろうか。怒られて当然だ。婚約解消されても文句は言えない。

 何を言われるだろうか、ドキドキしながら彼が口を開くのを待っていると、健が雪乃の横たわるベッドの方に、身を乗り出してくる。


 雪野が眉をひそめて訝しげに思っていると、彼の手が雪乃の顔の前に伸びてきて、彼の中指が勢いよく雪乃の額を弾く。

「痛っ」

 鋭い痛みの走った額を雪乃が手で押さえようとして右手を上げると、今度は右手に先ほどまでとは比べ物にならない痛みが走る。痛みに顔をしかめる雪乃を、唇を真一文字に結んだまま、健はじっと見つめていた。

 しばらく見つめ合っていると、健は意を決したように深呼吸をしてから、口を開く。


「ユキのアホ」

 小学生のような彼のセリフに対してどう言葉を返していいかわからず、雪乃が押し黙っていると、健の口から小さな呼吸音が漏れる。

「どれだけ心配したと思っているの」

「……ごめんなさい」

 本当は頭を下げるべきなのだろうが、また激烈な痛みが走るのは避けたかったので、口だけを動かして謝罪をした。


「俺も、ごめんなさい。君にひどいことを言ってしまった。君がもし、あのまま遠くにいってしまっていたらと思うと……」

 健はそこで言葉を詰まらせた。雪乃に注がれていた視線はそらされて、染みひとつない純白のシーツの表面に向けられる。


 彼が言うように、もし雪乃の顔に今、白い布が掛けられていたとしたら、彼はいったいどうするのだろうか。きっと悔やむに違いない。自分の行動や言動を、そして何より救う事の出来なかった自分の無力さを。そうして過ごす人生の虚しさは、雪乃自身がよく知っているつもりだった。


 俯いた彼の在り方や表情からは、彼が深く反省していることがわかる。しかしながら、雪乃はなぜ彼がここまで落ち込んでいるのかよくわからなかった。現状を引き起こしたのは、十中八九雪乃が原因だと思うし、むしろ健は雪乃のことを気遣ってくれていた。彼に落ち度なんてないように思えた。


 ふと、彼がいつから異変に気付いていたのか気になって、問いかけてみる。

「ねえ、いつから私、変だったの?」


 健は俯いたまま少し考えこんでから、顔を上げた。

「やばいって思ったのは同棲を始めたころだったかな。でも、正直な話、最初から違和感はあった」

「嘘でしょ」

 思わぬ答えに雪乃は絶句する。もっとうまくやれていると思っていたが、彼の目は誤魔化せていなかったようだ。


「自分じゃあわからないのかもしれないけど、近くで見ていたら結構わかる」

 健は柔和な笑みを浮かべる。

「じゃあ、なんでそんな女を構ったのよ」

 健は再び俯いて、しばらく押し黙った。雪乃は催促することなく、黙って彼の考えがまとまるのを待った。

「ユキってさ、意外と不器用だよね。色んなことが。でも、普通でいようって頑張っているから、何か見ていて放っておけなかった」

「じゃあ、お情けでプロポーズまでしたの?」


 口に出してから、失礼な言動だったと気がついて慌てて訂正しようとしたが、健の方が先に口を開く。

「それ、他の人に言ったらたぶん嫌われるよ」

「ごめんなさい」

「俺は今更気にしないからいいけどさ」

 素直に謝罪した雪乃を見て、健は笑みを浮かべながら頭を掻いた。黒髪がサラサラとうごめく。


「俺はさ、君が纏っている空気とか雰囲気とか、そういうのが好きなんだ。一緒にいると落ち着くし、自然体でいられる。だから、交際を申し込んだし、結婚も考えた。君が何かを抱えていることや、それを俺に隠していることについて、不安がなかったわけじゃあない。でも、時間が解決してくれるかもしれないと思ったし、無理やり話をさせたら君を傷つけてしまいそうで怖かった」

 そこまで言ってから、健は言葉を止めた。優しげな微笑みをたたえていた表情が、どこか泣き出しそうな表情に変わる。

「でも、すまなかった。きっと、俺は逃げていた。それらしい理由を並べて、君を気遣っている振りをして、君と正面から向き合うのを避けていたんだ。ひどい言葉で君を責めたけれど、責められるべきなのは俺だ」

 彼の懺悔を聞いて、雪乃はゆっくりと首を振った。雪乃には、彼を責めることなんてできなかったからだ。


「それは、違うと思う。あなたは、確かに私に向き合おうとしていた。手を差し伸べてくれていた。けれど、私はその手を取らなかった。多分怖かったんだと思う」


 しばらく、お互い黙り込んだまま過ごした。病室は静まり返っていたが、時折部屋の外から聞こえる誰かの足音が、時の流れを感じさせた。何の因果か、雪乃の時間はまだ動き続けている。

 まだ、間に合うだろうか。差し伸べられた手を取るにはもう遅いだろうか。病室の前のソファに腰かけて、祈るように雪乃を待っていた彼の姿が脳裏に浮かんだ。


「健」

 意を決して、雪乃は彼の名を呼んだ。その声は雪乃が別の誰かの声なのではないかと錯覚するほどに、か細かった。清潔感に溢れた白い病院の布団の上に投げ出された雪乃の手は、微かに震えている。

「何?」

 わずかにほほ笑みを浮かべながら、健は答えた。

「話したいことがあるの」

 口に出した途端に、痛いほどに心臓が飛び跳ねる。早まる鼓動を抑えようと、雪乃は深い呼吸を繰り返すが、一向に落ち着かない。健の方を見ると、彼は雪乃の方を見つめて、言葉の続きを静かに待っている。


「これからの私の、いいえ、私たちのことが、どうなるかはわからない。愛想つかされても仕方がないし、それ相応のことをしでかした自覚はある。けれど、未来がどうなるかは別として、私は、これまであなたにどれだけ催促されてもひた隠しにしてきた私自身のことを、あなたに知ってもらいたい。理解してもらいたいとか、それを知ったうえで健に何かしてほしいとか、そういう事じゃなくて、ただ聞いてもらいたいだけなの。自分勝手で本当にごめんなさい」


 湧き上がる恐怖心を誤魔化すように早口でまくし立てた。息が苦しくなって、雪乃は胸に手を当てて深く空気を吸いこんだ。依然として、健は雪乃の方をじっと見つめている。目が合うと、健は柔らかな笑みをたたえる。雪乃を安心させようとしているのかもしれない。

 雪乃は彼の笑みにわずかな恐怖心を覚えて、そっと目を逸らした。自分の内面をさらけ出すことで、彼の親愛の情がどこかに消え失せて、軽蔑の念に変わってしまうのではないかと思うと、怖くて仕方がなかった。


 視線を逸らした先、ベッドの横には、小型の液晶テレビが備え付けられた床頭台が置かれていて、その上には、見慣れた水色の封筒が置いてあった。手に取ろうとして身体を動かすと、鋭い痛みが走った。思わず顔をしかめる。

「無理しないで」

 抱き留めるようにして、健は雪乃の動きを阻んだ。痛みで強張った身体が、温もりに触れて徐々に弛緩していく。


 健は雪乃から離れると、床頭台の上の封筒を手に取って、雪乃に渡してくれる。封筒の表面は赤黒い染みが付着していて、自分がとんでもなく愚かな行いをしてしまったことを雪乃は改めて自覚した。

「それ、ユキが握りしめていたみたい」

 封筒の中には、二人の少女の思い出が詰まっていた。

「俺も見てもいい?」

 雪乃が頷くと、健はベッドの方に丸椅子を寄せると、雪乃の手元を覗き込む。

小さなアパートの一室で、二人の少女は身体を寄せ合っている。片方は満面の笑みを浮かべ、もう一人の少女は、驚いたように目を見開いている。


 写真の中の彼女のことをじっと見つめると、先ほどまでの不思議な体験が頭を駆け巡る。過去の世界を追体験し、失われたはずの彼女と話した。不可思議な時間は、どうしようもなく臆病な雪乃をほんの少しだけ変えようとしていた。


『素敵とか、幸せとかそんな曖昧な価値観や尺度に囚われなくてもいいんだよね。私の願いは、たぶんそんなことじゃなかった。お願いするのは、これで最後。どうか、あなた自身の人生を生きてほしい』

 彼女の言葉が耳の奥で反響する。最後の最後まで雪乃のことを案じてくれた彼女の言葉が、燃料となって、雪乃を突き動かす。踏み出せ、と全身が激励する。


 写真から顔を上げると再び彼と目が合った。しばらく見つめ合っていると、彼は不思議そうに子首を傾げる。


「それで、話したい事って?」

「私の、人生の話。すごく、長い話になる。退屈かもしれないけれど、聞いてほしい」

 健は何も言わず、ただ頷いた。

「小学生の時に、仲のいい女の子がいてね……」


 話し始めると、性懲りもなく恐怖心が湧き上がってくる。自分をさらけ出すのはやはり怖いことだ。それでも、自分を愛してくれた人たちと、人生を歩みたいと雪乃は感じたのだ。それが今の雪乃自身の希望であり、彼女が望んでくれた、自分自身の人生を生きるということだと思うから。そのための一歩を、雪乃は静かに踏み出した。


最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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