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人生ゲーム  作者: 八重
2章「青色の牢獄」
17/23

願い

 目的を達成できないうちに、文化祭は終わってしまい、雪乃は帰宅した。結局、凛と話すことは叶わなかった。


 彼女は今、どうしているだろうか。布団の中に潜りこんで考える。雪乃のことを怒っているだろうか。恨んでいるだろうか。憎んでいるだろうか。廊下ですれ違ったら手を振る程度の関係の旧友を庇ってしまったばかりに、彼女は負う必要もない傷を負ってしまった。凛への申し訳なさと、逃げてしまった自分の醜さに、今すぐ消えてしまいたくなるほどの自己嫌悪を覚える。


 布団の中で胎児のように身体を丸めて、しばらくの間、自己嫌悪に浸っていた雪乃だったが、ふと思い立って布団の中から抜け出した。

 スカートのポケットの中をまさぐり、携帯電話を取り出す。

 発信履歴を開いてみると、少し下に見慣れない番号がある。日付は凛と一緒にお祭りに行った日だった。それが凛の携帯の番号だと雪乃は確信する。


 この番号に掛ければ、きっと彼女と話すことができる。彼女に謝ることができる。彼女を守ることができる。

 震える手でボタンを押した。呼び出し音が鳴り始める。一回、二回、三回、四回。五回鳴っても出なかったら諦めよう。雪乃がそう思った矢先、呼び出し音が途切れる。電話が繋がったのだ。


「もしもし、天野?」

 祈るような気持ちで彼女の名前を呼ぶ。何を言われるだろうか。逃げたことを責められるだろうか。怒って電話を切られてしまうかもしれない。それでもいいと思った。

 しかし、電話の向こうから帰ってきた声は驚くほどに優しく、そして弱々しかった。

「ユキ……ちゃん?どうしたの?」


 消え入りそうな声の後に、鼻をすする声が聞こえた。電話口の彼女が泣いているのだとわかった。それと同時に、嫌な予感がわいてくる。まさか、また美緒達にひどいことをされているのではないか。そうだとしたら、今度こそは彼女を守りたかった。雪乃は震える声で尋ねる。

「今、どこにいるの?まさか、またあいつらに、ひどいことされてないよね?」

 しばらく、鼻をすする音だけが聞こえていた。耐えかねた雪乃がもう一度口を開こうとしたとき、電話越しに凛の声が聞こえてくる。

「あいつらは、いないよ。今は、自分の部屋にいる」

「よかった。ねえ、今から天野の家に行ってもいい?話したいことがあるの」


 凛はしばらく押し黙った後に、小さな声で言った。

「……来ないで、ほしいな」

「え?」

 それは、彼女からの確かな拒絶だった。拒絶されて当然だと分かっていたのに、実際に拒絶されると驚きが思わず声になってしまう。


「ごめんね、ユキちゃん。もう、全部終わりにするから。だから、お願い。来ないで」

 終わりにする。その言葉の意味を雪乃は瞬時に悟って息を飲んだ。

 おそらく、彼女は死ぬつもりだ。


 いてもたってもいられなくなって、雪乃は部屋を飛び出した。靴も履かずに玄関の外に飛び出す。裸足のまま道路に出ると、コンクリートが足に鋭い痛みを与えたが、構わず雪乃は走り出した。


「待って。今すぐ行くから。あなたと話したい。だからお願い」

 行先もわからぬまま、町の中を走りながら雪乃は言う。

「ごめん、ユキちゃん。ごめんね。ごめん」

 彼女は何かの呪文のように謝罪の言葉を繰り返しながら、泣きじゃくった。暗い部屋の中で独り、涙で顔をぐしゃぐしゃにした彼女の姿が雪乃の脳裏に浮かぶ。


「わたしの、せいだ」

 うわ言の様に、雪乃は漏らした。

 体力の限界を感じて、雪乃は立ち止る。道端に蹲って肩で息をする。

「違う。ユキちゃんの、せいじゃない、よ」

 途切れ途切れになりながら、凛が言う。

「私の、自業自得だよ。逃げられなかった。耐えられなかった。私、弱いなあ」

 泣き声の奥に、頓狂な笑い声が混じる。きっとぐしゃぐしゃの顔を取り繕って、こんな状況で笑っているのだ。それを聞いて雪乃は改めて、自分の罪を自覚する。彼女をこんな目に合わせたのは雪乃だ。


「でも、でもね、私ね、ユキちゃんを、助けたこと、後悔してないよ。最後に、大切な友達を守れた。それだけは、私の、誇り」

 気が付けば涙が溢れていた。止めようとしても、後から後から流れてきて、雪乃の顔を濡らす。


 幼いころ、彼女に写真が好きな理由を尋ねた時、彼女は、写真に大切な時間をずっと残しておけるからだ、と言った。彼女にとって、すべてが大切な思い出なのだ。彼女にとっては、疎遠になってしまった旧友も、守るべき大切な友達だったのだろう。その事実を噛み締めると、抑えきれない感情が波の様に繰り返し押し寄せる。感情は、いつの間にか、声となって口から漏れ出る。


「ごめん。ごめんなさい。私のせいだ。なのに、私、あなたの事を見捨てた。あの時身代わりになってでも、あなたを守っていれば、こんなことにはならなかった」

 人目も憚らず雪乃は道端で嗚咽する。呼応するように、激しい泣き声が電話の向こうから聞こえる。

「ユキちゃんの、せいじゃない。ごめんね。私が、弱いから、こんなに悲しませて」

 彼女の嗚咽混じりの声を聴いて、雪乃は顔を上げる。彼女のところへ行かなければならない。今ならまだ、間に合うはずだ。彼女を抱きしめて、一緒に泣く。そうすれば、もう一度やり直せる気がした。


 雪乃は、もう一度走り出す。疲弊した足は枷をつけたように重かった。それでも足を動かし続ける。

「凛、今行くから。だからお願い、死なないで」

 縋るような祈りは、もう彼女の耳には届いていなかった。

「ねえ、ユキちゃん。ユキちゃんはあの人達みたいな、ひどい人には、ならないでね。この間話したみたいに、素敵な、大人になって。それで、私の分まで、幸せになって、ね」


 徐々に電話の向こうの声は小さくなっていった。

彼女が、遠くに行ってしまうような気がして、雪乃は思わず叫んだ。

「待って、凛!」

 ぷつり、と音声が途切れる。空虚な電子音が、終わってしまったことを雪乃に知らせる。


 雪乃は足を止めた。膝が地面に着く。

「私の、せいだ。私の、せいだ。わた、しの……」

 雪乃は顔を覆う。もう、枯れてしまったのだろうか。不思議なことに涙は出てこなかった。事切れたように道端に蹲って、もう彼女の声が聞こえなくなった携帯電話を抱きしめる。


 どれくらいそうしていたかはわからない。もう何もかもわからなかった。顔を上げると、真っ暗な闇夜が頭上には広がっていた。いつもの嫌な臭いが鼻を衝く。


 どこか遠くの方から救急車のサイレンの音が聞こえた。


 天野凛の通夜は彼女の家の近くの集会所で行われた。

 遺影の中の彼女はどこかぎこちない表情を浮かべていた。恥ずかしがり屋だった彼女は、撮るのは好きでも撮られるのは苦手だったのかもしれない。


 彼女が眠る棺は完全に閉じられていて、最後に彼女の顔を見ることは叶わなかった。

 通夜の間、凛の母親は、ずっと嗚咽を押し殺して泣いていた。彼女の在り方すべてが、愛する娘を失った悲しみの深さを痛々しいほどに表していた。

 凛の姉の真紀は、終始母親の背中に手を当てて、時折労わるように母親の背中をさすっていた。彼女の髪は明るい茶色に染められており、雪乃の記憶の中の彼女の姿とは重ならなかった。黒のワンピースから覗く肌は、妹の凛と同じで驚くほどに白かった。彼女は母親を気遣いながらも、時折自分の目元を拭っていた。


 通夜の最後には、喪主である凛の父親が弔問客に向けて挨拶を行っていた。彼は、挨拶の途中で何度も言葉を詰まらせた。その度に、自らを落ち着かせるように小さく息を吐いた。挨拶の最後に深々と頭を下げた彼は、顔を上げると、静かに眠る彼女に目を向けた。通夜の間中冷静だった彼は、静かに涙を流しながらもう一度深く頭を下げた。

家族だけではなく、集まった誰もが早すぎる彼女との別れを惜しんで涙を流していた。


 通夜が終わると雪乃は足早に立ち去ろうとした。しかし、集会所を出たところで後ろから走ってきた誰かに呼び止められる。

「坂崎雪乃ちゃん、だよね」

 真紀はわずかに息を切らしながら言った。右手には、乳白色の珠が連なった数珠を持ったままだった。

 雪乃は小さく頷いた。そのまま顔を上げることなく、視線を下に向け続けた。真紀の顔を見ることはできなかった。

「この人が、ユキちゃん」

 真紀が振り向いて言った。


 俯いたまま、目線だけを真紀の後ろに向ける。真紀の後ろには、凛の母親が立っていた。雪乃はほんの少し顔を上げた。彼女の顔をちらりと見て会釈する。

「凛の、母です。生前、凛が仲良くさせてもらったようで。本当に、ありがとう」

 掠れた声で言って、凛の母は頭を下げた。コンクリートの上に雫が落ちて黒い染みを作った。

 『生前』という言葉が、ナイフの様に雪乃の心に突き刺さる。凛が生きていたのは、すでに過去の事象となってしまったのだ。誰がどれだけ望んでもどんな奇跡が起ころうとも、死んでしまった彼女が再び今を生きることはもう二度と叶わない。


 雪乃はどう返答していいかわからず、ただ黙って頭を下げた。

 頭を上げた雪乃に水色の封筒が差し出される。封筒の表面には『ユキちゃんへ』と、整った文字で書いてあった。

「凛の部屋に、あったものです」

 雪乃は封筒を受け取る。

「開けても、いいですか」

 凛の母は静かに頷いた。


 雪乃は震える手で封筒を開いた。封筒の中に入っていたのは写真だった。学校のプールの飛び込み台に制服姿で立つ雪乃の写真。凛にモデルになれと言われて撮られたものだ。次はお祭りのときに撮った、狐面を着けた雪乃の写真。その次は小学校の時、修学旅行の時にこっそり布団の中でとった写真。他にも小学生の雪乃の写真がたくさん入っていた。最後に入っていたのは、二人が初めて遊んだ日に撮った写真だった。一枚は雪乃が目をつぶってしまっていて、もう一枚は、雪乃に抱き着かれて驚いた凛が、変な顔をしている。出来損ないの二枚の写真は、雪乃がこれまで見たどんな写真よりも愛おしいものだった。


 震える手で、写真を封筒に戻す。頬に生ぬるい感触がする。気づかないうちに涙が溢れてしまっていた。それを慌てて手で拭う。

 雪乃が封筒を返そうとすると、真紀は首を振った。

「それは、雪乃ちゃんが持っていて」

 真紀の目には涙が滲んでいた。

「もし、あなたが迷惑でないなら、あなたと一緒に連れて行ってあげて。きっとそれが、凛の望みだと思うの」

 そう言うと、凛の母親はまた嗚咽を漏らした。


 それを見て雪乃の身体の奥から何かがこみ上げる。力が抜けてしまって、膝が地面につく。堪えていた感情が溢れ出して、声をあげて泣いてしまう。

彼女との思い出の証を、胸に抱きしめた。無機物のはずなのに、なぜか温かさを感じた。

 これは、彼女が生きた証だ。そう感じると同時に雪乃は、彼女が撮った写真はこれ以上増えることはないことを悟った。こんなにも温かく優しい写真を撮った彼女は、もういない。残酷な事実は、雪乃の心を揺さぶり、嗚咽となって体の外に吐き出される。


 雪乃があまりに取り乱したからだろうか。真紀が雪乃の前にしゃがんで、雪乃の背をさすってくれた。

「私、私が……わた、しが……」

 それ以上は、言葉にならなかった。喉元まで込み上げた言葉は、とうとう吐き出すことはできなかった。


 二人と別れた後、雪乃は封筒を手に、家に帰った。出迎えてくれた母親は雪乃の顔を見ると、何も言わず雪乃の頭をそっと撫でた。

 リビングに入ると、食卓の上にはすでに夕食が並んでいて、暖かそうな湯気が上がっていた。父と母はもう食事を済ませたのだろう。食卓に並んでいる食事は、雪乃のものだけだった。

リビングにいる父親の目線は、真っ暗なテレビの画面に向けられていた。時折、様子をうかがうように雪乃の方に視線を向けた。


 雪乃は席について、両手を合わせる。

「いただきます」

 箸を持つ手が震える。ほんの少し、ご飯を箸でつまんで口に運ぶ。何度か咀嚼して飲みこもうとしたが、うまく飲みこめない。三度目の嚥下で何とか飲み下すと、雪乃は大きく息を吐きだした。視界が歪むような感覚がして、思わず箸を置く。

「無理をしないでいいわよ」

 母親が雪乃の顔を覗き込んで言った。

「ごめん、なさい」

 雪乃は食事のほとんどを残して席を立った。歩みを覚えたばかりの幼子のような、頼りない足取りでリビングを出る。風呂に入る気力もなく、そのまま自分の部屋に向かった。


 部屋に入ると、カバンの中から、彼女の形見を取り出した。それを勉強机の引き出しの奥に、大切にしまい込んだ。

 喪服代わりに来ていた紺色のセーラー服を脱ぎ捨てると、下着のままで布団に潜り込んだ。頭まですっぽりと布団を被り、何かから逃げる様に固く目を閉じる。

 脳裏に最後に見た彼女の顔が浮かんだ。更衣室の床に這いつくばり、涙と鼻水で顔を汚した凛の姿だった。そこにいるのは雪乃だったはずなのに。雪乃の身代わりになったせいで、もう彼女はこの世から消えてしまった。


『幸せになって、ね』

 最後の彼女の言葉が頭の中に響き渡る。幸せになる権利は凛にもあったはずなのに。

「ごめん、凛」

 うわ言の様に呟いた。

「ごめんなさい」

 謝りたい相手はもう、この世界から消えてしまったのに。何かに憑りつかれたかのように雪乃は謝り続けた。


 いつの間にか、朝になっていた。眠れたのかどうかは、よくわからなかった。

 カーテンを開けると、眩しいくらいに太陽は輝いていた。青空を切って、小さな鳥が羽ばたいている。窓の外からは車のエンジン音がして、部屋の外からは家族が立てる生活音も聞こえる。

 彼女を失ったというのに、世界は変わらない日常を送っている。

 鏡を見ると、そこには鬼のような醜い顔が映っていた。鏡をたたき割りたくなる衝動を、何とか堪えて雪乃は鏡から目を逸らす。


「雪乃?起きている?朝ご飯出来たわよ」

 部屋の外から、母親の声がする。足音も近づいてくる。

「すぐ行く」

 部屋の外に向かって答えると、足音は止まり、遠ざかっていく。


 一日が始まってしまう。雪乃の時間は、なぜか止まることなく未だ動いている。だから、生きなければいけない。ひどく憂鬱だ。投げ出してしまいたい。それでも雪乃は、部屋の扉を開く。彼女の最期の言葉を叶えるために、重い足を一歩、前に踏み出す。


 リビングに入ると、新聞をめくる手を止めて、父親が雪乃の方を見る。

「大丈夫か?」

 こちらを気遣うような調子で尋ねてくる。雪乃は小さく頷き、自分の席に着いた。

 すぐに、母親の手によって朝食が運ばれてくる。トーストとサラダ、目玉焼きが盛られたプレートと、牛乳が注がれたマグカップが並ぶ。食欲は皆無だったが、昨日の夜、ほとんど何も食べていなかったせいで、強烈な空腹感はあった。


 いつもと同じように朝食を口に運ぶ。隣の席の母親はトーストを口に運びながら、時折父親に話しかける。新聞に目を向けたまま、父親は返答する。今日の帰りは遅くなるのかどうか。そんな事を話していた。亡くなった彼女のことが、話題に上がることはなかった。


 朝食を食べ終えても、雪乃はそのまま席に着いていた。母親がお皿を流し台へと持って行って、片付けを始める。父親は支度をするために部屋の外へ姿を消す。それでも、雪乃は動かなかった。


 リビングの風景も、匂いも、音も、呆れるくらいにいつも通りで、これっぽっちも変化がない。雪乃は母親に気づかれないように、小さくため息を吐いた。


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