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人生ゲーム  作者: 八重
2章「青色の牢獄」
15/23

暗雲

 祭りの翌日は、若井達三年生にとっては最後の大会が行われた。雪乃はその日、部活を無断で休むことにした。


 九時を過ぎてもベッドから出ることなく、物音ひとつ立てずに過ごしていると、不審に思った母親が部屋の外から声をかけてきた。雪乃はドア越しに体調が悪いことを伝えた。母親は怪しんでいる様子はなかった。

 しばらくして、固定電話のベルの音がする。雪乃はその音を久方ぶりに聞いた気がした。携帯電話が普及した今では、固定電話が鳴る頻度は著しく少なくなってしまった。


 ベルは何度か鳴った後止まった。微かに母親の話し声が聞こえる。電話は大谷からだったようだ。母親が体調不良の旨を伝えたらしく、それ以降電話が鳴ることはなかった。


 それ以来、雪乃は水泳部には行かなかった。これ以上ひどい目に遭いたくなかった。それに、これ以上虐めが続けば、また凛が雪乃を助けに来てしまうのではないかと思った。彼女が美緒達に目を付けられ、危害を加えられることは避けたかった。

 担任に頼んで大谷に退部届を提出してもらうと、雪乃は水泳部の部員ではなくなった。

 それから、雪乃が虐められることはなかった。元々クラスが違ったこともあり、美緒達との関わりはそれ以降途絶えてしまった。以前のように友達に戻ることもなかったが、虐げられることもなくなった。



 九月も半ばを過ぎると少しずつ暑さは和らぎ、秋らしく過ごしやすい気候になってくる。生徒たちは今、十一月に行われる文化祭の準備に追われていた。文化祭では、各クラスが自分たちで考えて飲食店や催し物を行うことになっている。雪乃たちのクラスは演劇を行うことになっていた。


 部活をしていない雪乃は、毎日のように文化祭の準備に参加していた。演劇のことはよくわからないし、演技などできる気がしなかった雪乃は裏方の作業に徹することにした。他の生徒の指示に基づいて、教室の隅で衣装や小道具を作っていた。

 クラスメイト達と談笑しながら作業をするのは楽しかった。水泳という楽しみを失った雪乃にとって、今のこの時間は唯一の楽しい時間だった。


 部活をやめて以来、水泳部の部員とは関わりはなかった。ただ、一度だけ若井と話したことがあった。彼は、昼休みの時間にわざわざ教室までやってきたのだった。


「なんか、久しぶりだな」

 彼は、どこかぎこちない口調でそう言った。雪乃は無言で頷く。実際のところは、それほど久しぶりでもなかったのだが、否定するのは揚げ足をとるようで気が引けた。

「あのさ……」

 若井は口を噤んだ。気まずそうに、若井は目をそらして、頭を掻いた。

「何ですか」

 雪乃は急かす様に問いかけた。周りの視線が集まるのを感じる。若井は下級生からも人気がある。こうして彼と話していると、注目されてしまうのは自明だ。雪乃は早く会話を終わらせてしまいたかった。

「その……、俺のせいかな」

 歯切れ悪く、若井は言った。

「何のことですか」

「竹内達とのこと」

 そう言って、若井は小さく息を吐いた。

「……違いますよ。別に先輩のせいじゃないです」

 お前のせいだ。喉元まで出かけたその言葉を、必死に嚥下して雪乃は愛想笑いを浮かべる。確かに若井にも原因があるかもしれない。しかし、他人の恋心を責め立てるようなことは、雪乃にはできなかった。

「そうか」


 お互い、しばらくの間黙り込んだ。その間にも周囲の人々の視線は二人に注がれ続けている。視線の正体は興味か嫉妬か、はたまた怒りだろうか。いずれにしても、雪乃にとっては浴びていて気分のいいものではなく、吐き気に似た何かが体の奥からこみ上げる。時折聞こえてくる周囲のひそひそ話も、気分を害する原因の一つとなっていた。何を話しているかはわからない。わからないが、どうしても雪乃にとって都合の悪いことを言われているように感じてしまい、不愉快だった。雪乃はこの時間を早急に終わらせたくて、沈黙を破って口を開く。


「話は、それだけですか」

 若井は何も言わない。彼は身体の前で組んだ自らの手をじっと見つめている。


 話は終わった、と判断した雪乃は教室に戻ろうとした。しかし、立ち去ろうとした雪乃の右手首を、若井が掴む。雪乃は小さく肩を震わせた。わずかに心臓が跳ねる。若井の顔を見ると、彼の頬はうっすらと朱色に染まっていた。

「この間も言ったけどさ、俺坂崎のこと好きなんだよね。だから……」

「ごめんなさい」

 若井の言葉を遮って、雪乃は言った。


「どうして。俺じゃあ、だめか?」

 若井は、まっすぐに雪乃を見る。その目は彼が本気であることを物語っていた。雪乃はちらりと彼から目をそらして、周りを見た。先ほどまでよりも向けられている視線が多い。その全てが脅威に感じられる。雪乃は震え出しそうになる身体を必死に抑え込んで、言葉を紡ぐ。

「私みたいな人間は先輩には釣り合わないです。だから、ごめんなさい」

 止めていた歩みを再び進める。掴まれていた腕から温もりがするりと離れる。


 多くの人が立ち止まって、若井や雪乃を見ていた。

 その視線から逃げるように雪乃は廊下を駆けた。階段を駆け下り、校舎から出て辺りを見回すと、もう雪乃を見ている人はいなかった。雪乃はスカートが汚れるのも構わず、その場に座り込んだ。校舎にもたれかかり、大きくため息を吐く。


 今度は間違えなかっただろうか。また、孤立したり虐められたりすることは嫌だった。そこまで考えて雪乃は若井を傷つけてしまったかもしれないということに気づく。自分の保身ばかり考えて、大勢の前で彼を振ってしまった。彼の気持ちなど、微塵も考えていなかった。


「私、最低だ」

 ぽつりとつぶやいた言葉は、誰の耳にも入ることはなく、昼過ぎの空に溶けていった。


 十一月に入ると、いよいよ文化祭が近づき、準備にも精が入る。雪乃たちのクラスでは、放課後になるとリハーサルが行われるようになった。黒板の前では、主役の男子生徒がヒロイン役の女子生徒と台本を確認しながら練習している。他にも、教室のいくつかの場所に分かれて様々なシーンの練習が行われている。


 ちなみに、雪乃は演者として出演する予定はなく、当日は教室の外で受付を担当したり、呼び込みをする係となっていたので、特にすることもなく演者たちが稽古をしているのを教室の隅の邪魔にならない場所でぼんやりと眺めていた。


 黒板の前の男子生徒の頭には、二本の角が生えている。雑貨屋で買った黒いカチューシャに装飾を施したものだった。雪乃のクラスは、有名な文学作品である『泣いた赤鬼』をオマージュしたラブストーリーを上演することになっていた。脚本は、文芸部に所属している女子生徒が書いたそうだ。脚本では、赤鬼が人間の娘に恋をしたという設定になっており、原作とは若干違うストーリーとなっている。

 ぼんやりと練習を眺めていると、教室のドアが開いた。開いたドアの隙間から、担任の教師が顔を覗かせる。


「すまん。誰か手伝いをお願いできるかな」

 教室の各所で行われていた稽古が止まる。皆が近くの生徒たちと顔を見合わせる。

 暇な自分が行くべきだろうと思った雪乃は、自分から手伝いに名乗りを上げた。他にも数名、雪乃と同じように暇を持て余していた生徒たちが名乗りを上げる。


 担任に連れられて、雪乃たちは職員室へと向かった。職員室に入ると、一瞬、大谷と目が合った。雪乃はすぐに目をそらした。大谷が何か声をかけてくることはなかった。

 手伝いの内容は、資料が入った段ボールを図書室の奥にある準備室に運び入れる、というものだった。

段ボールの中には何かよくわからない資料がぎっしりと詰まっており、かなりの重さだった。それを四階の図書室まで運ばなければならなかった。生徒たちは不満と弱音を口々に漏らしながらも何とか階段を上り切り、図書室へと到達した。図書室では、先回りしていた担任が準備室の鍵を開けて待っていた。

 準備室の中に入って指定された場所に段ボールを置くと、仕事は終了だった。担任からのねぎらいの言葉を受け取った後、解散となった。


 雪乃は図書室を出て行こうとしたとき、思わず足を止めた。図書室の貸し出しカウンターにいたのは、夏美だった。図書室のカウンターは、各クラスの図書委員が持ち回りで常駐することになっている。滅多に図書室に出入りしない雪乃は知らなかったが、どうやら彼女は図書委員らしい。

 夏美も雪乃に気づいたらしく、小さく手を振ってくる。

「久しぶりだね」

 夏美の方から話しかけてきた。

「久しぶり」

「いきなり部活やめたからびっくりしたよ」

 雪乃は苦笑いを浮かべながら、曖昧に頷く。返答に困ってしまったからだ。

「ごめん」

雪乃の表情を見て、夏美は少し気まずそうな顔をする。


「部活、今はどんな感じ?」

 重苦しい雰囲気を払拭するために、雪乃は話題を変える。

「実は、私も部活やめちゃったの。だからよくわからない」

「やめた?」

「うん。実はさあ、坂崎がやめた後に、あいつらが水泳部ではない人を部室に連れ込んで、その……、虐めるようになったの」

「え……」

 言葉にならないような声が、雪乃の口から漏れた。


「しかも、やっていることが坂崎の時よりも酷くて。それで、無性に怖くなってやめた。いつか自分もやられるかもって思うと、あんな所にはいられなかった」


 嫌な予感がした。頭に浮かんだ光景に、悪寒を感じる。そんなはずはない。そう願いながら、雪乃は震える声で口にした。

「ねえ、教えて。その虐められている子の、特徴は?」


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