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人生ゲーム  作者: 八重
2章「青色の牢獄」
14/23

未来

「ねえ、本当にこれで誤魔化せると思っている?」

 抗議の意をもって、雪乃は横を歩く凛に冷ややかな目線を向ける。


「なんで?完璧じゃない?」

 凛が雪乃の方を向いて、顔を近づける。目を見開き、口をすぼめて曲げて、白地に水玉の手ぬぐいを頭に巻いている。なんだか面白くて、雪乃は吹き出す。ひょいっと手を動かすと、本来の彼女の顔が覗く。彼女も楽しそうに笑っていた。


 凛が持っているのは、祭りの屋台で売っていたひょっとこのお面だ。彼女が言うには、もし美緒達と出くわしたら、これで顔を隠してやり過ごすつもりらしい。咄嗟に顔を隠す練習をしている凛を見て、雪乃はため息を吐きながら、自分の手元を見る。雪乃の手には、狐のお面が握られている。


 雪乃はすれ違う人々の顔にチラチラと目を向けながら歩く。美緒達の姿は見えない。

煌びやかな屋台が立ち並ぶ路地を、たくさんの人が行きかっている。歩くのにも不自由なくらいの人ごみの中では、もしかしたらすれ違っていてもお互い気づかないかもしれない。それでも、雪乃は極力周りの人々に気を配りながら歩いた。


 横を歩く凛は、品定めをするように、立ち並ぶ屋台に次々と目を向けながら歩いている。彼女の視線が、ひとつの屋台で止まる。その屋台からは食欲をそそるソースの香りがした。垂れ幕には黒い字で、はしまきと大きく書いてある。


 数分後、横を歩く凛は、美味しそうにはしまきを頬張っていた。

 雪乃は辺りを見回して、空いているベンチを見つけると、凛の手を引いてそちらに向かう。

「ユキちゃんも買えばよかったのに」

 そう言った彼女の色素の薄い唇の端には、茶色いソースと青のりがついている。なんだか幼い子供のようだった。

「だから、お金持ってないの」

 うんざりした口調で、雪乃は言う。

 なりふり構わず逃げ出したせいで、財布の入ったカバンを更衣室に置いてきてしまった。狐のお面は、凛のお金で買ったものだ。


「ねえ、はしまきって、なんかクレープみたいだよね」

 口の中の物を飲み込んだ後、凛は言った。

 唐突に言われた言葉に、雪乃は思わず顔をしかめる。

「……全然違うと思うけど」

「えー、似てない?巻いてあるし」

「巻いてあるだけだし……。クレープは甘いでしょ」

「甘くないクレープもあるよ。それに、はしまきもクレープも、両方小麦粉使っているから、同じようなものでしょ?」

「天野の理論だと、うどんもクレープみたいってことになるんだけど」

 皮肉めいた口調で雪乃が言うと、凛が反論してくる

「うどんは麺だから違うよ」

「はあ……、もう何でもいいや」

 不毛な議論に疲れた雪乃が折れたおかげで、はしまきはクレープに似ているということになってしまった。


 はしまきをあっという間にたいらげると、凛はティッシュを取り出して、ソースで汚れた口元を拭う。

「取れた?」

 凛が雪乃の方を向く。彼女の白い頬には、まだ茶色いソースが残っている。雪乃が自分の頬を指さして教えると、凛は恥ずかしそうに少し微笑んでティッシュでそれを拭った。

「美味しかった。本当はクレープが食べたかったけど」

「屋台でクレープなんて売っている?」

 雪乃が尋ねる。

「花祭りでは売っていたよ」

 凛が答える。


 花祭りとは、雪乃たちが住んでいる地域の都市部で、年に一度ゴールデンウィークに開催される、大きな祭りのことだ。雪乃も一度だけ言ったことがある。この祭りとは比べ物にならないほど多くの人が集まり、街道には無数の屋台が並ぶ。あちこちに設けられたステージでは、有名人を招いて音楽ライブが開催される。


「というか、そんなにクレープ食べたいの?」

「この間、お姉ちゃんが家に帰ってきたときに、写真見せられて食べたくなった」

「ふーん。お姉さん、一人暮らししているの?」

「うん。東京の大学に通っているの」

「そっか、もうお姉さんは大学生か。なんかすごいなあ。しかも東京って……なんだか別世界だよ」

 中学生の雪乃にとって、大学と言うのは未知の世界だった。それも、東京の大学なんて、生まれてからほとんどの時間をこの町で過ごしている雪乃には、どんなものなのか皆目見当もつかなかった。


「本当にそうだよね。大学生って、なんかすごく大人って感じがする」

 凛はどこか遠くの方に目を向ける。

「でも、私たちもそのうち大人になるんだよね」

 口に出してそう言うと、不思議なことに、祭りの沿道を歩く大人たちでさえ、どこか遠い存在のように思えた。腕を絡ませて歩く男女や、浴衣を着た小さな少女に手を引かれながら歩く母親。屋台で息子と射的に興じる父親。自分もいずれそんな風になるのだろうか。学校という閉鎖的な空間を飛び出して、社会に混じり、いずれは誰かと家庭を築く。多くの人が歩むであろう未来が、雪乃にはまったく想像できなかった。


「ユキちゃんはさあ、大人になったらどうするの?」

 唐突に、凛が問いを投げかけてくる。彼女の視線はどこか遠くの方に向けられたままだった。

 雪乃はしばらく考え込んだ。将来の事なんて、真剣には考えたことはなかった。幼いころは、水泳選手になってオリンピックで金メダルを取るのだと無邪気に夢見ていた。しかし、高すぎる壁とそれを越える力自分が持っていないことを知った今では、そんなことを口にしても本当に夢物語でしかない。しかし、水泳以外に自分に何があるのか考えてみても思いつかなかった。


 答えに困って、凛の方をちらりと見るが、彼女は視線をどこかに向けたまま何も言わず雪乃の答えを待っていた。雪乃は小さくため息を吐く。その時、不意に夜店のソースや甘い物の匂いに混じって、微かに鼻を突く悪臭を感じた。この町特有の臭いだ。それを感じた途端に、雪乃の頭に不意に浮かんだ感情はそのまま口を衝いていた。


「ここじゃない、どこか遠くへ行きたい」

「遠く?」

 凛は雪乃の方へ顔を向けた後、首を傾げる。

「東京でも、大阪でも、北海道でも。どこでもいいから遠くへ行きたい。この町は……、何だか苦手なの」


「私はこの町好きだけどな。食べ物美味しいし。ちりめんとかみかんとか」

 凛が笑いながら言う。

「食べ物だけじゃない」

「えーっと……ほら、軍艦博物館とかもあるよ」

 反論する凛の口調には焦りが混ざっていた。

 戦時中、軍港だった名残で、この辺りにはたくさんの歴史的な観光地が残っている。そのうちの一つが、凛が言った軍艦博物館だった。遠くからでもわざわざ来る人がいるほど人気の観光地らしい。ちなみに、雪乃は行ったことはない。


「ほかに何かないわけ?」

 冷めた口調で雪乃が言うと、凛はぷいっと顔を背けて、わざとらしく拗ねて見せる。しかし、子供らしい表情はすぐに消え去って、凛はどこか真剣な、大人びた表情を浮かべる。

「そっか、遠くか……。どんな風になりたい?遠くへ行って、どうなりたい?」

「どうなりたい、か」

 彼女の言葉を反復して呟いて、雪乃は通りを歩く人々を眺める。


 ぼんやりと視線をさまよわせていると、人ごみの中に見覚えのある顔を見つけて、雪乃は咄嗟に手に持っていた狐面で、隣に座る凛の顔を隠した。驚いた凛が、小さく悲鳴のような声を漏らす。雪乃は唇の前に人差し指をかざす。それを見た凛は、右手で口元を覆い、左手で雪乃の眼前に自分のひょっとこのお面をかざして、雪乃の顔を隠す。

 しばらくそのまま身を固くして動かないでいた。

「もう行ったかな」

 凛が忍び声で言った。

 少し顔を上げて、辺りを見回すと少し離れたところに、遠ざかっていく三つの背中が見えた。こちらに気づいた様子はない。どうやらうまくやり過ごしたようだった。


「危なかった」

 雪乃は肩を撫で下ろした。運動したわけでもないのに息苦しく感じて、雪乃はいつもより深い呼吸を繰り返した。凛が苦しそうに喘ぐ雪乃の背中をさすってくれる。

「まあ、どうなってもいいや。あの人達みたいな人間にならなかったら」

 呼吸が乱れたままで、雪乃は先ほど凛が投げかけた問いの答えを口にした。


「ユキちゃんはそんなひどい人にはならないと思うけどな。もっと、素敵、って感じになりそう」

 根拠のない凛の言葉に、雪乃の頬が思わず緩んだ。

「素敵?」

「なんか、ワンピースとかロングヘアが似合って、声も大人っぽくて、肌もきれいで」

 凛が語る『素敵』のイメージに、雪乃は苦笑いを浮かべる。

「何それ……。他には、髪を染めていたりするの?」

「そうそう、それで冗談とかがうまくて、周りを和ませたりして、あと、クレープが好き!」

「クレープが好きなのは凛でしょう」

 雪乃が突っ込みを入れると、凛は楽しそうに声を上げて笑った。

「何か、よくわからないや」

「きっと、わからないから楽しいんだよ」

 凛は、手に持ったひょっとこのお面の鼻を指で突きながら言った。


 しばらく二人で馬鹿馬鹿しい話を交わした後、二人は家路についた。辺りはすっかり暗くなってしまっていたので、雪乃は大丈夫だと繰り返す凛を言い包めて、彼女の家の前まで、一緒に帰った。

「送ってくれて、ありがとう。あと、すごく楽しかった」

 屈託のない笑みで、凛は言った。

 雪乃が黙っていると、凛ははにかむような笑みを残して、雪乃に背中を向ける。雪乃の言葉を待たず、彼女の背中は遠ざかって行ってしまう。


「待って」

 雪乃は立ち去ろうとした凛の、制服の袖をつかんだ。彼女の歩みが止まる。

「助けてくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

 薄いレンズの奥、彼女の目尻が下がって、蕩けたような笑顔を浮かべる。その顔は、幼い少女の様に可愛らしくて、雪乃は思わず息を飲んだ。

 雪乃の視線に気づいたのか、凛が恥ずかしそうに身をよじる。黒髪の間から覗く小さな白い耳が、朱色に染まる。

「ゆ、ユキちゃん、早く帰らないと暗くなっちゃうよ」

 凛は雪乃から顔を背けて言った。


 早くも何も、太陽はとっくの昔に沈んでいて、辺りはすでに真っ暗だった。見え透いた照れ隠しに、雪乃は思わず吹き出す。

 声を上げて笑う雪乃の肩を凛が控えめに突く。

「なんで笑うの」

「いや、だって、もう真っ暗だし」

「うるさいなあ。そんなのわかっているよ。夜遅くなると危ないってことが言いたかったの」

 凛は拗ねてしまったのか、雪乃に背を向ける。小柄な背中は遠ざかっていく。彼女の小さな身体が古びたアパートの階段を上っていくのを雪乃はぼんやりと眺めていた。ゆっくりとした彼女の足取りが止まって、つま先が雪乃の方へ向く。紺色のスカートが闇の中でふわりと揺れる。

「またね、ユキちゃん」

 手を振りながら微笑んだ彼女の笑顔は、夏の夜空に咲いた花火のような輝きに満ちていた。手を振り返すと、また、彼女の背中は遠ざかっていき、アパートの一室に吸い込まれて見えなくってしまった。

 雪乃はそっと息を吐くと、帰路に着く。



「彼女との出会いは、君にとって本当に間違いなのか?私にはそうは思えないよ」

 不意に背後から聞こえた声に雪乃が振り返ると、雪乃の手の中にあるものと同じ狐面が暗闇の中に浮かんでいた。足音と共に狐面は近づいてくる。

「君のことを救ってくれた彼女のことを否定するのは、あまりにも暴論ではないかな?」


 雪乃はそれを聞いて、心の中で嘲笑う。彼女の言い分はただの絵空事に過ぎない。

「私だって、あの子との出会いを否定したくはない。でも、正しいことが必ず報われるわけじゃない。だから、私は彼女との出会いを肯定できない」

 正しいことや正しいことをした人が報われ、幸せになれる世界であったならば、雪乃も彼女と過ごした時間を否定することなど決してないだろう。しかし残念なことに、世界はそんな風にはできていない。これまで雪乃が過ごしてきた日々が、それを物語っていた。

「確かに、世界は都合よくはいかない。正しい人や優しい人、努力した人が報われるとは限らない。でも、それは仕方がないことだ。残酷かもしれないけどね」

 どこか悲しげな声で、天使は言う。彼女も雪乃と同じような思いを抱いているのかもしれない。

「そんな世界だからこそ、せめて君だけは彼女を肯定してやるべきではないのか?」

「私に、そんな資格はない。私は、あの子のようにはなれなかったから」


 天使は考え込む様に動きを止めた後、踵を返して歩き出す。黒色のワンピースが闇夜に溶けていく。

「もう行くの?」

 遠ざかる背中に雪乃は問いかける。

「聞きたいことは聞けた」

 天使の姿が完全に見えなくなる。体の自由が利かなくなり、過去がまた始まった。


 何度言われようと、天使の言葉は雪乃にとっては絵空事にしか思えない。きっと天使だって、この先の顛末を見れば理解するはずだ。この後起こることを肯定できたならば、きっと雪乃は死を選んではいないだろう。


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