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人生ゲーム  作者: 八重
2章「青色の牢獄」
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異変

 夏休みは明け、夏の暑さはそのままに日常が戻り始める。教室には喧騒が戻り、夏休みを満喫した生徒たちは久々の再開を喜び合う。ある者は小麦色に焼けた顔に屈託のない笑みを浮かべながら、休暇の間の出来事を自慢げに語る。休暇が終わってしまったことを嘆き、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるものもいれば、休暇中の自らの怠慢を悔やみながら必死に課題と向き合っている生徒もいる。


 雪乃は窓際の自分の席に座り、肘をついて教室の風景をぼんやりと眺めていた。同じクラスには水泳部の女子部員はいない。それだけで雪乃の心は平穏でいられた。

 黒板の上に掛けられた時計は、八時三十分を指している。もうすぐ担任が姿を現し、ホームルームを終えた後、授業が始まる。授業が終わればすぐに部活が始まる。

 部活のことを考えて、雪乃は小さくため息を吐いた。一体何のために、あの空間に毎日向かっているのだろうか。泳ぐことに関して、以前のような快感や楽しさは見いだせなくなっていた。泳者としての能力も下降し続けている。精神をすり減らしながら、あの場所に赴く意味はあるのだろうか。


 不意に、肩をつつかれて、雪乃は思考を止める。驚いて、身体をすくめたまま横を見ると、隣の席の女子生徒がこちらを見ている。数学の課題を見せてくれないかと、雪乃に尋ねてくる。雪乃はカバンの中から数学のノートを取り出して、彼女に貸す。女子生徒は笑顔を浮かべながら礼を言うと、雪乃のノートに書いてある内容を自分のノートに写し始める。

 チャイムが鳴り、それと同時に担任が入ってくる。ホームルームが始まる。日常が動き始める。


 全部、元に戻ればいいのに。雪乃は心の中で切実に願った。


 しかし雪乃の願いは叶うことなく、夏休みが終わっても当たり前のように虐めは続いた。それどころか、告発の一件から翔子が加担したことで、虐めは一層激しさを増した。腹や胸、背中など、服に隠されて見えないところにいくつも痣ができた。

 また、今まで傍観者だった翔子が加害者に変わったことは雪乃の精神にも大きな負荷を与えた。もしかしたら、今は傍観者の夏美や芽衣もいつかは自分を虐げるようになってしまうのではないか。自分の居場所が狭まるのを感じて、雪乃は追い詰められていった。


 それでも、誰かに助けを求めることはできなかった。部活に多くの時間を割いてきた雪乃は交友関係が広いほうではない。しかも、最も仲が良いと思っていた友人は、今や雪乃を虐げる敵に成り果ててしまった。迷惑を掛けたくないという思いから、両親にも相談はできなかった。


若井達、三年生にとって最後の大会の前日は、部活はいつもより短い練習のみを行い、顧問による長めのミーティングがあった後、終了となった。


 雪乃はミーティングが終わると、足早に更衣室に向かった。後を追うように他の部員も更衣室に入ってくる。

「ねー、今日の祭りどうする?どこ集合にする?」

 美緒が言う。

 今日は、学校の近くで夏祭りが行なわれることになっていた。美緒、あかね、紗季の三人は三人で祭りに行くらしく、計画を楽しそうに立てている。雪乃はそれを聞きながら帰り支度をする。彼女たちの視線がこちらに向かないか、三人にばれないようにチラチラと様子を伺う。雪乃が着替えを終えてもなお、三人は談笑している。もしかしたら逃げられるかもしれない。そう思って雪乃はカバンに乱雑に荷物を詰める。

「じゃあ、着替えて六時に駅前集合ね」

「オッケー」

「了解」


 雪乃はそれを聞きながらカバンのファスナーを閉じた。カバンを両腕に抱え、更衣室を出ようと足を一歩踏み出したところで動きが止まる。美緒の目がこちらをまっすぐに捉えていた。

 雪乃は俯いて震える足を前に出す。そのまま立ち去ろうとするが、彼女たちは見逃してはくれなかった。腕を掴まれ、自由を奪われる。肩に掛けたカバンが床に落ちて音を立てる。

「帰るにはまだ早いんじゃない?」


 キャハハ、と甲高い笑い声が響く。

 美緒が、雪乃が落としたカバンを拾い上げる。抑えといて、と美緒が声を掛けると、あかねと紗季が二人がかりで雪乃を羽交い絞めにする。

 美緒がカバンを大きく振りかぶる。雪乃がぎゅっと目を瞑った瞬間、想像以上に重い衝撃が雪乃の腹を襲う。腕を開放されると、雪乃は音を立てて床に倒れ込んだ。頭上から嘲笑が浴びせられる。地面に這いつくばる雪乃を四人が取り囲む。いつの間にか夏美と芽衣の姿は更衣室から消えている。


 寝転がる雪乃の視界が、目の前に置かれた何かによって塞がれる。よく見ると、目の前に置かれたのは靴だった。

「それ、舐めたら帰っていいよ」

 あかねが言う。甲高い笑い声が更衣室を包む。

「ほら、早く」

 紗季が楽しそうに囃し立てる。

 美緒が携帯電話を雪乃の方へ向ける。写真を撮るつもりらしい。

 雪乃には出来なかった。他人の靴を舐めるなどというような屈辱的な行為をすることは、わずかに残った雪乃のプライドが許さなかった。そんなことをするくらいなら、殴られた方が幾分かましだった。

しかし、拒んだからと言って許されるわけではない。雪乃を取り囲んでいる加害者たちが、苛立ち始めるのがわかる。誰かの舌打ちが響く。

「早くしろよ」

 しびれを切らしたのか、翔子が雪乃の頭を掴み、無理やり靴の方へ押し付ける。逃れようと体を動かすと、身体を紗季とあかねに押さえつけられる。携帯電話を構えた美緒が楽しそうにゲラゲラ笑う。


 唇が靴に着く寸前、雪乃は目を固く瞑った。しかし、唇が靴とぶつかることはなかった。なぜか雪乃を押さえつけていた力が緩む。視線を上げると、四人は更衣室の扉の方を見ている。閉じていたはずの更衣室のドアは空いていた。


 更衣室の前で、一人の少女が立ち尽くしていた。その顔を見て雪乃ははっと息をのむ。

「何をしているの」


 小さな声だった。その声に更衣室の空気が凍り付く。

 声の主の視線が、床に這いつくばる雪乃に向けられている。彼女と目が合って、訳も分からず雪乃は笑顔を作った。口角がぴくぴくと震える。


 天野凛は、更衣室の入り口で、雪乃を取り囲む美緒達を泣き出しそうな顔をして睨みつけていた。


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