プロローグ
冷ややかな潮風が雪乃の頬を撫でた。潮の香りに交じって、微かに鼻を塞ぎたくなるような刺激臭がする。臭いの原因は、この町の外れにある製紙工場だった。雪乃はこの臭いが大嫌いだ。この匂いを嗅ぐと、この町で経験した様々な出来事が走馬灯のように脳裏に浮かぶからだ。
錆び付いて茶色くなった柵から身を乗り出して下を覗き込むと、下には底無しの暗闇が広がっていた。
小さく息をついた後、雪乃は柵を乗り越えた。ゆっくりと足を前に出す。つま先がわずかに宙に浮いたところで足を止めた。後は体を前に倒すだけで、終わりにできる。
もう一度下を覗き込んだ。眼下に広がる闇は、まるで怪物が大口を開けて落ちてくる獲物を待ち構えているかのようだった。飲み込まれた先には、きっと地獄が広がっている。
覚悟を決めて身体を倒そうとしたが、雪乃はすぐに動きを止めた。先ほどから臭いがひどく気になる。雪乃は左手で強く鼻をつまんだ。せめて、最期だけはこの悪臭を感じずにいきたかった。
ゆっくりと体を倒す。倒しながら、右手を自分の胸に押し当てた。雪乃の右手には水色の封筒が握りしめられていた。財布も家の鍵も、何もかも置いてきてしまったが、これだけはどうしても最期まで持っておきたかった。
「素敵には、なれなかったよ」
呟いた後、はっとする。右目から大粒の涙があふれていた。
久々に流した涙が、雪乃を思い留まらせる。身体を後ろに反らし、かかとに力を入れて何とか踏みとどまろうとする。しかし、もう遅かった。頭がぐらりと揺れて、足が完全に地面から離れる。あっという間に地面と体が平行になり、暗闇の中に飲み込まれていく。
風を受けて、雪乃の身体は宙を舞った。
「どうして、飛んでいるの」
最期の瞬間に雪乃の脳裏に浮かんだのは、驚くほどに間抜けな台詞だった。