マリー・クラーク
王族であることが、私の人生。前世持ちであることは、私の、なんだろう。
01
好きな人がいた。
すっと伸びた鼻筋に、涼しげな目元。よくある三文小説で顔が整った人を表す言葉が、その人にはちょうど似合っていた。小説から出てきたような彼は、まさしく小説の中の人だった。
剣と魔法の世界で、勇者が魔王を倒す物語。戦闘狂の魔術師と、引っ込み思案な僧侶、頼れる兄貴分の騎士、そして儚げだけれど凛とした雰囲気を纏った聖女。そんな仲間をつれた勇者が、彼だった。
「勇者よ、魔王を倒した暁には褒美として我が娘をくれてやろう」
そして、今、まるで魔王のような台詞を放ったのが、私の父。人間の国の王。
父の声を聞きながら、そっと目を伏せる。私は前世、この世界が小説として親しまれていた世界で生きていた。
だから、結末も知っている。目の前で私と父に傅く勇者は最終的に聖女と結ばれる。過酷な道のりを一緒に旅したのだ。鬱蒼と生い茂る魔物の森も、真実を映す鏡の泉も、クリスタルの洞窟も、燃え盛る大地も、美しいものも醜いものも一緒に見るのだ。そんなふたりに特別な絆が生まれないはずがなかった。
そっと勇者を見やる。真夏の空のように突き抜けるスカイブルーの瞳がきらりと輝いた。魔王から人間を守り抜くのだと今心に誓っているはずだ。その正義感が彼が勇者たる証なのだ。
父が何かお前からも激励を、という目で私を見る。
「ティム、必ず魔王を倒してくださいね」
「はい、マリー様。必ず」
そして、私は待つことしかできない。勇者と聖女が惹かれ合う結末を。
02
ティムと出会ったのは、8歳のとき。
その頃の私は何も知らなかった。前世の記憶も何もない、ただのマリー。護衛の目をかいくぐって庭で木登りをするのが大好きなマリーだった。
その日も、いつものように薔薇の迷路で護衛を撒いて、少し小高いところにある木に登っていた。木の上でぼんやり考え事をするのが私の日課。どうして空は青いんだろうとか、どうして護衛のアルフォンスは笑うとえくぼができるんだろうとか。そんなことをぼんやり考える。いつもと違ったのは、昨日の夜あまり寝てなかったこと。メイドのエマがお昼にお茶をひっくり返しちゃって、それを思い出してベッドの中でふふふと笑ってしまいなかなか寝付けなかった。
お昼過ぎ、お腹も満腹でぽかぽかとした陽気に包まれた私は、いつの間にかうとうととしていて。気付くと地上にいた。小さい男の子、ティムを下敷きにして。
「いたたたた......」
痛そうにしている男の子を見て、寝起きの私はまだ夢の中にいると勘違いしていた。もちもちの白い肌に、お空と同じ青い瞳。木漏れ日のようなプラチナブロンド。見たことのないキラキラしたものに、思わず胸が高鳴った。
「こんにちは! あなた、お人形さんなの?」
助けた女の子に開口一番そんなこと言われるなんて思ってなかったです、とは2年後に思い出話をしたときのティムの言葉。この日から、私はティムを見ると駆け寄って話しかけたし、ティムも照れ臭そうにしながら話に応じてくれた。
大好きだった。
パッとしない伯爵の長子だったティムは、どう転んでも私とは身分が釣り合わなかった。けれど、幼い娘に甘い父親は今だけだろうと放っておいてくれた。そのうち、どこか外国の王族と婚約させる気だとは理解していた。それが王族に生まれた私の人生。
大好きだった。
晴れ渡った空のような瞳が細くなる瞬間、私の胸はきゅっと締め付けられる。笑うときにできるえくぼはアルフォンスなんかと比べ物にならないくらい、私の頭をいっぱいにした。
歳を重ねると、私が近づくと困ったように眉を八の字にしてしまう。けれど、そんな顔も大好き。
「ねえティム! うまく刺繍ができたのよ!」
「おお、うまいですね。さすがです、これは鳥でしょうか?」
「う、うさぎだけれど......」
「えっと、ああ......」
俯いた私になんて声をかけようかオロオロするティムに、思わずふふふと笑ってしまう。
「マリー様、えっと、申し訳ありません、私はうさぎを見たことがないので鳥に見えてしまったのです」
うさぎなんて、私でも見たことがあるのに。下手な嘘をつくティムも好き。マリーと呼んでと押して押して、やっとマリー様と呼んでくれた押しに弱いティムも好き。
「そう、ならいいの! ねえティム、いつか私がこの国から離れても一緒に来てくれる?」
「えっと、それは......」
「ふふふ、冗談よ」
冗談ではなかった。いつか他の国に嫁ぐけれど、ティムに来て欲しかった。
幼い頃はティムと一緒に駆け落ちを、なんて考えたこともある。けれど、私は王女だから。私の人生はこの国に捧げられなければならない。
でも、少し泣きたくなった時にそばにティムがいてくれたら。そんなことを考えていた。
03
淡い初恋は、突然終わった。前世の記憶を思い出した。
エマがいれたお茶を飲んでいたとき、ツキンと頭痛がしたと思ったら一気に記憶がなだれ込んできた。
無機質な電車、真っ黒なスーツ、一本に結んだ黒い髪。銀縁の眼鏡を落として、拾おうとしたら体制を崩してーー。痛さを感じる前に、記憶が途切れた。
一晩寝込んだ。あれはマリーではないと、何度も何度も言い聞かせた。私はこの国の王女。
記憶の雪崩の中で、どうにも気にかかることがあった。夢中で読んでいた小説だ。その中に出てくる国の名前が、私の愛するこの国と一緒だった。そして、ヒーローの名前がティム、だった。
直感的に、ああこれはこの世界だと思った。そして、その結末を記憶の雪崩から手繰り寄せて、私の初恋は終わったのだ。
ティムは聖女と結ばれる。それで世界はハッピーエンド。
お姫様のことは何も書かれていなかったけれど、きっと外国に嫁いだのだろう。
ここで、もし私に勇気があれば聖女なんてと言って頑張ったかもしれない。私に力があれば一緒に旅について行ったかもしれない。けれど、私には勇気もないし、力もない。あるのは王族としての人生。
ティムは必ず魔王を討ち取ると言って、静かに頷いた。
「......」
ねえティム、行かないで。その言葉を飲みこんで、彼の背中を見送った。
05
季節がぐるぐると回って、ティムが帰ってきた。魔王を討ち取った勇者とその仲間たちの帰還に、国をあげてのパレードが行われた。傍の聖女を見るティムの瞳は、あの頃のように青く澄んでいた、らしい。
06
昔、ある王国に一人の勇者がいた。
出発の際、人間の国の王から褒美として姫と結婚できると言われた。勇者は長年片想いをして叶わないと思っていた姫との結婚に、胸を高鳴らせた。だが、勇者の旅の途中で姫は命を絶つ。姫の訃報を聞いて嘆き悲しむ勇者に聖女は寄り添った。
聖女の献身で立ち直った勇者は、魔王を討ち取る。
そして、人間の国に帰還して、聖女と結婚をした。
04
前世を思い出したとき、その前世で今の世界の未来を知ったとき、人はどうするのだろう。
なんのために私に前世の記憶が残っていたのだろう。
私は刺繍をしながら考えた。かつてティムに鳥と言われたうさぎも、今では決して間違えないくらいうさぎっぽく作れる。もう立派な淑女だ。
王族らしく背筋を伸ばして、王族らしく口角をあげる。王族たるもの、常に気を張らねばならない。
そして王族として生まれた私は、外国に嫁ぐ。それは王族として生まれた使命。
ならば。
前世持ちとして生まれた私は、どうする? なんの使命がある?
何もできない前世持ちなんてこの世界に必要あるの?
ぷすり。針が指を刺した。側に控えていたマリーが慌ただしく駆け寄ってくる。
ねえティム、どうせ、あなたは聖女と結ばれるのよね。どうせ、私は外国に嫁ぐのよね。
ねえティム、いつか私がこの国から離れたら、あなたは私についてきてくれる? ねえ。
凛と伸ばしていた背筋から力を抜く。
頑張って、王族ぶって、それでどうなるの。
私、前世はつらかった。スーツ着て、就職活動して、眼鏡を拾い上げた時にバランスを崩したんじゃない、わざと落ちたの。だって、もう生きたくなかった。私にしんどい世界なんて嫌なの。
私、今世も辛いわ。王族になりたくてなったわけじゃない。どうして知らない人と結婚しなくちゃいけないの。どうして大好きな人の隣にいられないの。どうして、どうして。
最終的にマリー・クラークの人格は前世の女の子に乗っ取られました。