ネットの限界
インターネットというのは比較的新しいものだが、最近、その限界を個人的には感じてきている。ここで言う「限界」とは個人的なものなので、別にネットの本質について深く論じる気は今はない。感想程度の話である。
ではネットの限界とは何かと言えば、簡単な事で、「そこで受け入れられる文脈」というものは一定のものに定まってきている事だ。それ以上の事はよくわからない、という風に今はしておきたい。
ネットで受けやすい文脈とか、ネットで評価されやすいものがある。そう書いただけでも、ネットをやっている人はイメージが浮かぶだろう。それはある程度の年月の間に蓄積されたものである。クリエイターとか言う人達も、そういう事がわかっているので、そこから逆算して自分の「作品」を作る。また視聴者の方でも、受け入れる為の枠組みを無意識的に作って、そこに当てはまったもののみを評価する。そういう基準のようなものができあがりつつある。そういう事を感じる。
もっとわかりやすく言えば、テレビとネットの関係で考えられる。テレビで活躍している人がネットに進出してすぐに売れるとは限らない。また、ネットで有名な人がテレビではパッとしない事もある。要するに、どちらにもそれぞれ、枠組みのようなものがあって、そのレベルにおいて、受けたり受けなかったりを競っているという事だ。
それでこれはいい事か悪い事かと言えば、とにかく「そういうもの」としか言えない。「ネットの限界」とタイトルを振ればそこからネット批判を展開して欲しい人もいるかと思うが、そこまでもいかない。とにかくインターネットはそういうもの、という感想でしかない。そういうものとして使ったり使わなかったり、癇癪を起こしたり、ニンマリすればいい、というだけだ。
では何故そんな感想をわざわざ書いて表したのか。ここには若干の意味がある。つまり、ネットというのは、理想的な受け手と作り手とのコミュニケーションの場ではない、という事だ。
大衆に媚びた思想家は、「ボタン一つで世界に自分を発信できる素晴らしく、新しいもの」がネットだと言う。確かに作るのは自由である。見るのも自由である。しかし実現されたものは、我々が見ている半端な、大したものでもないものの総体でしかない。私も、現に、尊敬する賢い人が次々にネットから去っていったのをリアルタイムで目撃してきた。彼らはネットでは「勝ち組」ではない。彼らの表現しようとしているものがネットという媒体にあっていなかったのだろう。ツイッターで回ってくる4コマ漫画など、見てみるとひどいものだが、その意味性は瞬時に消費されるものとしては優秀と言える。ネットは即時性を命としてしており、だから、永続性に近づこうとする価値は阻害される兆候にある。
インターネットは受け手と作り手の理想的な共同体でもなんでもない。確かに、表現手段としては自由が得られた。享受の面でも自由が得られた。しかし、諸々の作品を自由に、それぞれの価値観で判断するというのは嘘である。人は既知の価値観、ステレオタイプな価値観を自分の中に埋蔵化しており、その限りで作品を評価しているにすぎない。この空間では質よりも量のほうが圧倒的に重要である。慧眼の持ち主一人を振り向かせるよりも、レベルの低い千人を振り向かせるほうが圧倒的に金にもなるし、リスペクトもされる。ここに、自由な、理想的な受け手と作り手の共同体があるわけではない。
自分で考えたり判断したりするのにはそれなりのコストがかかる。そこでこのコストを節約し、「ヒット作」のみを見る生活人というのがたくさん発生するわけで、しかし、ネット世界ではそれで十分だと言える。作り手も彼らに受けるように作るわけだから、同じような作品が次々から次に出てくるのはやむを得ない。
最近、「なろう小説は気持ち悪いと思う女子の感想」といったエッセイを読んだのだが、まあ、私も普通に気持ち悪いと思う。しかしその「女子」がこれから考えなくてはならぬのは、そうしたものを欲している人が大勢いて、それを供給するシステムがあり、それが現実に、それなりに大きな構造として存在する事。この構造そのものの現実性は否認できないから、では、何故そんな気持ち悪いものを供給するシステムが現実にあるのか、そこで自分はどうすればいいのか。そういった事を考えなくてはならないだろう。
「なろう小説」がどれほど気持ち悪くても、そういうものは存在し、買う人が多数いて、作り手になりたい人も沢山いる。世の中は広い、と言ってもいいが、これが現実である。では現実は正しいか。そうではない。しかし、そうではない、と言う時、どんな勇気がいるだろうか。自分とは社会に比べればごく小さな一点である。だとすれば、自分がこのごく小さな一点としての存在を全うできるのか。私の問いは常にそこにかかってくる。
ネットの話から、変な話に変わってしまったが、要するにネットも社会の一部として流通しているから、そういう力を持っているという事である。「あんなものは馬鹿が騒いでいるだけでいずれ消えてしまうだろうさ」とたかをくくっていても、意外にそれが力を持ってきたりする。世の中には馬鹿は思ったより多いからでもあるが、人は馬鹿になりたい生き物だからでもある。
ネットというのは、様式やしきたりがある程度決まってきて、それは今やはっきり圧力に変わりつつある。人は見たいものだけを見る。人々は見たいものだけをメディアを通じて見る、と言ってもいいかもしれない。どのみち、まともな表現者はなんらかの形で孤独を強いられる。自分の中の孤独を大切に守る事が表現の条件だと言ってもいいぐらいかもしれない。
私は現実の社会の中でも、なんらかの形で、優れた表現と優れた受け手が存在する共同体のようなものがあって欲しいと思っている。しかしそれはネットの世界ではバラバラに分断されており、現実でも分断されている。こうした事はいずれ良くなっていくだろうか? 私には良くなっていく兆候は見つけられないが、自分の目や耳では判断して生きようとしている人もこの社会に潜在していると考えたい。そうでも仮定しなければ、全くやりきれぬではないか?