未来──あした──から消える前に
僕には姉がたった一人の家族だった。
厳密に言えば姉というより所持品や置物に近くて人が時を迎えるまで寄り添うことが役目。
優しく頭を撫でられることも、言葉を投げかけることも……いつしか終わる。
自身の口で喋ることも、米粒のように小さな指で触れることもできない。
故にただ見つめてることしか出来なかった僕は今、目の前にいる偽者を睨む。
「断固たる理由があるのか? それとも、確信もないのに決めつけたのかな、千乃?」
「一つ目はもう一人の那月が僕を襲ったとき、最初は『黒兎』の仕業だと思った。でも、違う……『黒兎』は確実に首元を狙うのに対して、肩を狙ってきた。相手の動きを封じるなら足を狙うべきなのに。まるで最初から怪我してるのを知ってる様子だった」
足を狙えば確実に遅くなる。
逃げ場が階段なら尚更、足首か太ももを狙う。
そうしなかったのは知っていたから。
でも、これだけでは決定打にはならない。
「那月の発言が疑問だったのもそうだけど、何より僕のほうが一番の疑問だった。だって、あなたとの記憶が一切ないんだから。遅れて帰ってきた時も、すんなりファイルを持ってきたときも、偶然にしては出来過ぎてた。那月が説明したわけでもなく、僕から話したわけじゃない。何より、それがお姉ちゃんなら尚更」
「……35点。赤点もほどほどにしとけ」
「それに────お姉ちゃんには身寄りなんていない。元より、簡単に人を信用する人じゃない、じゃああなたは誰なのか」
「45点。ギリギリすぎて話にならん……だが、ここまでバカだと休み休み言わないといけないものなのか。私の目的には支障もない、もうすぐ終わる────そうだな……一ついいことを教えてやろう」
ソファーから立ち上がり、玄関のほうへと向かう真冬さんを追いかける。厳密にはもう、さん付けはいらないと思うけれど。
リビングを出たときには既に姿はなかった。
「どこに行った!? 逃げる気か!?」
『玄関を開けてみれば、すぐにわかるさ……ふふふっ』
どこからか聞こえる笑い声。
何を根拠にそこまで笑えるのか、怒りを通り越して呆れてしまう。
ここで立っているだけでは何もしていないも同じ。
右手でドアノブを掴むと内側に扉を開いた。
「──────ぇ」
真っ白なベッドに眠る女性と足元に寄り添って眠っている男。
白いカーテンに壁には鏡が一枚、その横には白い百合の花が花瓶に飾られている。
黒髪の女性は涙が頰を伝って光の反射でもわかるくらいに濡れていて、反対に男は……男は……っ!
「幸せそうだろう? まるで、夢見る少女のような容姿で背丈も小さくて」
「……黙れッ、黙れ黙れ黙れッ!!」
「たった一人の女のために、命を捨ててまでも救いたいと願ったが、無意味だったな。お前の願いは届かない、何故ならお前は本当の久遠千乃ではない」
「黙れって言ってんだッ!! お前のせいで、あの人は!」
「本当の久遠千乃は既にこの世にはいない。お前は模造品、ガラクタ……ただのレプリカだ。もうすぐ久遠明乃は死に絶える。お前は最早、用済み……偽りでありながらもいい夢だっただろう? ゆっくり消えていけばいい、もう一人の人形と共に」
知っていながらも、見ようとしなかった。
本当に見ていなかったのは、現実じゃなかったのは。
────僕だった。
この光景も、この記憶も、この気持ちさえも。
本当に残っているのは何もなくて。
樹や優衣さん、みなみさんに湊さんも────。
「もう苦しまなくていい、もう悩まなくてもいい。お前はただの人形なのだから」
膝を着く僕に振りかざされた手のひら。
暗転する視界と消えていく喪失感にただゆっくりと瞼を下ろした。
♢
───────ッ!!
誰かが久遠千乃を呼んでいる。
聞き覚えある声で、とても懐かしい響き。
僕は千乃ではなくて人形。
足先から冷たくなっているのを感じるほどに、身体から体温が失われていく。
もう悪い夢を見る必要もない。
目の前で誰かが死ぬこともなく、何かが変わるということもない。
ただ何もないこの空間で朽ちていくのみ。
────千乃────ッ!
樹も、優衣さんも、家族でさえも全部偽物で……。
久遠千乃という役割を与えられただけの人形で……。
できることなら、もう一度あの人に会いたかった。
千乃───────ッ!!
名前すら口に出せない、大切な誰かの声。
いつも隣にいて、傍にいてくれた誰かの温もり。
でも、もういいのかもしれない。
身体が動かない。
手も足も、心臓の鼓動すら聞こえなくて。
ただ、この冷たい海の中に沈んでいくだけ─────
「何をしてるの、千乃」
不意に声が木霊する。
静かに水滴が水辺に波紋を打つように響く。
その声はどこか懐かしくて、今は聞くことのできない誰かの声。
「ここにいてはダメよ。君を待っている人がいる。離れていても、ずっと傍にいるからと約束したあの子が君を探してる。思い出して、あの時のことを」
あの時────あの時、約束したんだ……。
『この二人の名前はナツキとユキノ! ナツキはお姉ちゃんでね、いつもユキノを心配する弟思いの女の子。それで、ユキノはそんなお姉ちゃんに憧れている男の子なんだけど女の子の服装しか似合わないの! でも、コンプレックスがあってね……』
楽しそうにはしゃいでいる女の子。
椅子に座っている僕らを見てニコニコと笑い、優しく頭を撫でてくれる。
幸せに満ちていてとても嬉しかった。
『ナツキはお姉ちゃんだから、ユキノを守るの。何があっても守るのよ。ユキノもたとえ一人で泣いていたとしても、きっとナツキが探して会いに行くから。二人はいつだって一緒、いつだって同じ気持ち。未来から消える前に必ず会いに行くから』
────ユキノ。
────なーに、お姉ちゃん。
────私が絶対にユキノを守るから、何があってもどこにいても必ず会いに行くから。
────うん。僕もお姉ちゃんを待ってる。
「何!? どうして立ち上がれる!? お前はもう終わっているはず、それなのにどうして」
わからないよ。そんなのわかるわけない。
もうこのまま終わってもいいとさえ思ったのに。
身体が動くはずない、まともに立てることすらできないはずなのに。
……でも! 一つだけ確かなことがある。
「……待ってるから。待ってるって約束したから! 何があっても、どこにいても必ずお姉ちゃんが会いに来てくれるって約束したから!」
「くだらない! 私の正体すら暴けず、ただ呆然と立ち尽くした人形如きがッ!!」
「正体なら、もうわかってる!」
駆け寄ってくる足音にゆっくりと視線を向ける。
そこには見慣れた学校の制服姿、アメジスト色の瞳。
ずっと待ち焦がれていた人がやっと来てくれた。
「那月……お姉ちゃん」
「千乃……!? 思い出したんだね、あの時の約束」
「うん。約束したから、必ず会いに来てくれるって。だから待ってた」
「それにしても無茶しすぎ! 私が来たからいいけどもし、何かあったらどうするの!」
「その時はお姉ちゃんが必ず助けに来てくれるから。怖いものなんてないよ。だって、僕のお姉ちゃんだから」
「もう……しょうがないなぁ」
「ふざけるのも大概にしろ! いくらお前たちが足掻こうともうすぐ終わる! 久遠明乃も時間の問題だ、安らかに夢を見ていれば良かったのになぁ!」
高らかに笑う真冬さん。
否、真冬さんと呼ぶのはもうやめよう。
お姉ちゃんも同じ答えだろうから僕も合わせる。
「明乃や久遠千乃が消える原因を作り、さらには私の大事なユキノを傷つけたお前を──」
「人の心を弄んで親友や友達、みなみさんと湊さん、『うんめーさん』。その他多数の人間を巻き込んだあなたを──」
「僕たちは許さない! 『黒兎』!」




