兎と熊と
不敵な笑みを浮かべて、目の前に立つのは一人の女の子。
いつの間にか周りには誰もおらず、僕と女の子だけが教室に残っていてこの声を僕は覚えてる。
「き、君が、『シホちゃん』」
『ここでは初めましてになるのかな、お兄ちゃん。私のこと、覚えてはいないよね』
クスッと可愛らしく微笑む。でも、その笑みがより一層に不気味だと思えた。
ぼろぼろになっている兎のぬいぐるみを片手に持ち替えて、ゆっくりとこちらへ歩き出す。
不思議というべきか、恐怖で体が震えているというよりその場から一切動けない。
まるで金縛りにあっているかのようで。
瞬きをする刹那、もう目と鼻の先に『シホちゃん』は立っていて僕の右手を握っていた。
驚くより先に身体が反応するも、時すでに遅い。
なんていう冷たさなんだ、こんな冷たいもの氷や冷蔵庫とは比べ物にならない。
ましてや子供の握力とは思えない強さで握られてる。
『無駄だよ? お兄ちゃんがいくら抵抗しようと私の手は解けない』
「なんで、なんでッ!? なんで樹や優衣さんを巻き込んだ! 僕だけで十分だろう!」
『もう、いい子にしてないといけないってお姉ちゃんに言われたでしょ?』
強引に引き寄せられるように右手ごと身体が前へ進む。
痛い! 痛い、痛いッ! 離して! 離して!
『ほらっ、みんな待ってる』
ゆっくりと進む『シホちゃん』。
最早、子供とは言えない力に右手ごと引かれていく。
周りの机や椅子など気にせず、教室の扉へ一直線と引き摺られそうになりながら抵抗する。
左手で解こうとしたり、逆に引こうとしようにも余計に力が入ってしまってさらには膝から床に倒れてしまう。
頭や腕に背中が何度もぶつかっても、気にしてはいられない。
「離してッ!」
『私は待ってたんだよ、ずっと。お兄ちゃんが来るのはわかってたし、何よりお姉ちゃんが必ずお兄ちゃんが来るからって教えてくれたから』
「また訳わからないことを、ぐぅっ!?」
なんとか抵抗しようにも掴めるところがない!
このままじゃ、引っ張られて……っ!?
教室の扉まであと数歩のところで『シホちゃん』が進んでいる先が廊下ではないことに気がつく。
暗く澱んでいて何も見えない、白いワンピースが唯一の光とも言えるがそれ以外は暗闇。
「何か、何か、ないと!」
リュックサックに短い左腕が届くはずもない。
スカートのポケットにはハンカチとティッシュとスマホ、どれも今は役に立たないものばかり。
あとは、あとは、あとは────あっ。
「『シホちゃん』! ぬいぐるみ! クマのぬいぐるみがあるよ!」
ピタリとあと『シホちゃん』の動きが止まる。
右手は引っ張られたままだけど、咄嗟になれば走って逃げられそうだ。
『えっ? 本当?』
年相応の女の子のように顔を明るくさせて、とても喜んでいる。
やったー! と飛び跳ねる仕草はやっぱり子供なんだとは思えるが、油断は禁物。
飛び跳ねている時、僅かに右手を掴む力が弱まったことに気づき一瞬の隙に離れる。
未だ握られていた時の痛みが残るが、そんな暇はなさそう。
慌ててリュックサックの中から粗塩と押し入れにしまっていたクマのぬいぐるみを取り出す。
ポケットに粗塩をしまっておいて、クマのぬいぐるみを両手に前へ突き出す。
「ほ、ほら、クマのぬいぐるみ」
『ありがとう! お兄ちゃん!』
手に持っていたぼろぼろの兎のぬいぐるみを床へ放り投げると、両手で力一杯にクマのぬいぐるみを抱きしめる。これで、一応は逃げる時間稼ぎになるかも。
不意に先程放り投げられた兎のぬいぐるみが目に付いた。
────ユキ、ちゃん。
「……ッ!?」
なに今の、それにさっきの声はもしかして。
『シホちゃん』がクマのぬいぐるみを抱きしめている隙に兎のぬいぐるみの元へ駆け寄る。
「優衣、さん? 優衣さんだよね?」
返答がない。無論、さっきの声もただの幻聴かもしれないため嘘か本当かはわからない。
だけど確かに聞こえた。このぬいぐるみから。
『お兄ちゃん、そのぬいぐるみ欲しいの? その子はね、私があげたお菓子を絶対に他の人にはあげない約束だったのに破ったからそうなったの。すごい泣いて泣いて、ユキちゃんって呼んでたんだよ? ちょっとお仕置きしちゃった』
「優衣さん、優衣さん! 僕が巻き込んだばかりにこんな姿になって」
『でも、良かったよ。おかげでお兄ちゃんが来てくれたから、きっとお姉ちゃんが褒めてくれる』
────僕のせいだ。
僕があの時、誘わなければ優衣さんはこんな目には合わなかったはずなのに、なんで。
優しく両手で抱き上げて、頭を撫でる。
ごめんなさい、僕が巻き込んでしまったばかりに。
痛かったよね、辛かったよね、ごめんなさい。
「優衣さんを、この子を元に戻して」
『嫌だ。だってその子泣いてばかりだもん、この先ずっと泣くならそのままのほうが幸せ? なんだよ』
「どんな事情があってもその人の幸せだって、それは押し付けにしかならないよ。目の前で助けられた命でもあの時に、って思ったとしても相手の進む先を勝手に決めちゃいけない。たとえ、そうだとしても」
『────だったら、私が死んだのに普通に生きてるお兄ちゃんにはお仕置きが必要だね』
刹那、空気が重くなる。
相手からの明確な怒りと殺意。実際に感じたことは今回で二回目。あの人以来かもしれない。
「僕が『シホちゃん』と会ったことは覚えてないかもしれない。でも、巻き込んじゃいけないんだよ。樹や優衣さん、他の人だって」
『何言ってるの? お兄ちゃん。私がお仕置きしたのは、その子だけだよ』
「え? だって樹の知り合いも学生たちも行方不明になったって」
『欲しいものある? っていう手紙を書けばお姉ちゃんが渡してくれたけど、お姉ちゃんが居なくなっちゃったからやめたの。だから、たまたま通りかかったその子にお菓子をあげたのに。怒るよ?』
優衣さんだけ?
それだと樹が貰った白い手紙や消えていった学生たちの話はどうなる?
もし、もし僕が知ってるこの情報が嘘だと言うのなら本当の犯人は────。
『ねぇ、お兄ちゃん。私がお仕置きしたのは、その子だけなんだよ。他にいるなら教えて欲しいくらいなのに』
「君じゃないの? ホントに?」
『私の力はあくまでも、約束を破ったことにお仕置きとしてぬいぐるみにして懲らしめるだけなんだよ。あとは、頼まれただけだもん。私、関係ないもん』
一体、どういうこと?
『シホちゃん』自体にそれほどの力がないということは新しい発見だけど、頭の中が複雑になってる。
ぬいぐるみにして懲らしめるだけなら、殺傷能力はない。
『お兄ちゃん、教えて? 誰が私の噂を広めてるの?』
「教えたら、優衣さんを元に戻してくれる? 代わりに僕が罰を受ける」
『へぇ〜、お兄ちゃんが? ホントじゃなかったら、私のぬいぐるみになってね。永遠に』
『シホちゃん』の小さな右手が僕が抱きしめている兎のぬいぐるみに触れる。
刹那、眩い光が視界を遮る。
腕の中に収まるように制服姿の優衣さんが現れて、思わず抱きしめてしまう。
「あれ、ユキちゃん? え、え!? ど、どうしたの!?」
「よかった、ホントによかった」
「う、うん。私も?」
事の訳を話して、『シホちゃん』にちゃんと謝るように説得。
素直に謝った優衣さんに対して、あまり話を聞く姿勢ではなかったけど納得はしてくれた。
「ユキちゃん、私が悪いんだから。ユキちゃんが私の代わりにだなんて」
「大丈夫だよ、ちゃんと話してくるだけだから」
『話は終わった? 早く行こうよー』
話をするだけ、で理解してもらえるのか。
ましてや『シホちゃん』がそれで納得するのか。
少しばかり嫌な予感がしてならなかった。




