変化
「ハァ、ハァ、んくっ……! ハァ、ハァ」
これが動悸というものなのか、心臓の鼓動がいつにも増して息苦しい。
呼吸することさえこんなにも難しく目の前が眩む。
大丈夫、大丈夫だ、僕は、僕はっ、僕はッ!
「ねぇ、ここを開けてよ。そしたら、苦しくなくなるから」
そんな口車に乗ってやるものか。
左手で胸元を抑えつつ、今ある精一杯の力を右手に込めて扉を抑える。
背中ではどうにもならなくなり最早、時間の問題かもしれない。落ち着くんだ僕。
相手は『シホちゃん』だ! 今この扉を開けたら終わりだ。樹も優衣さんも戻ってこない。
「はぁ、なんでそこまでごうじょう? なの? 欲しいものがあるんでしょ?」
「ないッ!」
「お兄ちゃん。やめようよ、もう嘘をつくのは」
「違うッ! 僕はっ……うぐっ!」
「ほら、早く開けて?」
ガチャガチャ、とドアノブを捻るも内側から力の限り押しているため開かないし無論、開ける気もない。
だが、時間をかければかけるほど息が苦しくなってくる。目の前が霞んで、もう力が持たない。
助けて、早く助けて、那月!
ドンドンッ! ドンドンッ!
遠くから聞こえるように激しく扉を叩く音。
沈みかかっていた意識が寸前で一気に戻される。
「……チッ、またね。お兄ちゃん、置いとくから」
空気が軽くのを感じると同時に誰かが階段を駆け上がってくる。
失いかけている意識を振り絞って部屋の扉を開けた。
廊下の先に見えたのは、制服姿の那月だった。
「ッ!? ────千乃ッ!」
「那月、よかった、那月だ」
身体から力が抜けていく。膝を突いた状態でこのまま行けば廊下の床に一直線。
手で支えようにも身体には力が上手く入らない。
眠い、なんだかとても眠くて────。
「千乃ッ!? 何があったの!?」
ふわりと鼻を擽る甘い香り。
温かい左手がそっと僕の右手を握る。
那月が僕の身体を支えてくれている、こんなにもか弱い身体だったのかなと思うくらい弱く感じた。
「ごめんね、ちょっと疲れちゃった」
「千乃!」
今にも泣きそうな顔を浮かべる那月に精一杯の笑みを作る。
良かった、那月だ。なんだか安心したなぁ。
身体から気が抜けたようで僕自身の意識も再び沈み出す。
そのままゆっくりと無意識の海へと向かって行った。
♢
とても真っ白な部屋で窓が右側、扉が左側。
窓の外は高層ビルや青空が見えているのに対して、扉側は少し暗い。病室みたいな部屋、第一印象としては的確なものかなと思えた。
正面には姿見鏡があってベッドに座る僕を映してる。
可愛らしいキャラクターの毛布と同じ絵柄のシーツ。
パジャマ、というよりもワンピースに近い寝間着を身に纏っていて髪も当然なのか束ねていない。
「ここは、どこ?」
返答はない。誰もここにいない、そう思った。
だけどなんだか、ここには思い出を感じる。
まるで慣れ親しみを持ったぬいぐるみ────ぬいぐるみ?
バスケットボールサイズと言ったほうが正確なのか掌には到底収まらない大きさのぬいぐるみが、突如手元にあった。
黒髪ロングで、病院の患者さんが着ている服装と似ている。
どちらかというとぬいぐるみというか────あれ? 何だっけ?
「でも────懐かしい」
過去に至っても病院に入院したことなんてない。
ましてやこんな大きなぬいぐるみを持っていることすら驚きなのに、懐かしいなんて。
────思い出して。
「誰か、いるの?」
部屋の中を見渡す。誰もいない、僕ただ一人。
────思い出して。
「何を、思い出すの?」
────早く思い出して。
「何を、思い出したらいいの?」
ピタッと空気が変わったかのように違和感を覚える。
何を思い出したらいいのか、教えてくれない。
すると不意に手元のぬいぐるみが気になって目線を下ろすと、
「早く思い出さないと、消えちゃうよ?」
ニッコリとぬいぐるみは口元を歪ませて笑った。
♢
重い瞼を強引にこじ開ける。嫌な夢を見た。
内容は覚えてない。なんだか大切さを感じさせる夢だったのに思い出せない。
顔を左右横に動かして周りを確認してみると、どうやら部屋のベッドに寝ていたみたいだ。
その前の記憶としてはあの『シホちゃん』との接触が新しい。
それから、那月が帰ってきてそのまま眠りに。
なんとも言えないものだけど最近の疲れが溜まっていたのかもしれない。
ゆっくりと上半身を起き上がらせると部屋の扉も開いた。
「千乃ッ!」
両手に持ったおぼんを床に置くと、抱きしめてきた。
何故だかこうも慣れてしまったものというのは些か不適切だけど、なんだか安心する。
「大丈夫だよ、那月。ちょっと疲れただけ」
「ホント? 大丈夫だよね?」
「うん。大丈夫」
落ち着きを取り戻すと、僕は何があったのかを話す。
那月は一瞬、少し暗い表情をするも真剣な眼差しでその話について詳しく話してくれた。
「千乃を襲ったのは『シホちゃん』で間違いないと思う。本来なら出会った時に『白い手紙』を渡していくの。その後は千乃が話してくれた通り……あいつじゃないのが幸いだけど」
「でも、それと欲しいものとの関係性がわからない。
手紙を置いてそこから駅に行く、対価を払うなら別に願ったものと同じでもいいわけだから」
「うん。そうなんだけど『シホちゃん』は恵まれない生活でその、盗むこともしてたみたい。だから恨まれやすくて同情もされやすかった」
それであの町の人間に殺されて、今尚『シホちゃん』となって手紙を出しては恨みを晴らしていると。
確かにこれなら辻褄は合う。だけど問題は、どうやって消えた人たちを探すか。
「同じ人間なのに、なんでこんなこと」
「────恵まれなかった。もっといい家なら、きっと」
「那月?」
「えっ? ううん、なんでもない。それよりもお腹空かない? お粥作ったんだけど」
「うん。食べる」
那月が床に置いていたおぼんを手に取ると僕の膝元に置いて、蓋を開ける。
ふわっと湯気が宙を舞ってとても温かそうなお粥が目に入った。
手元にはレンゲ、自分で食べられると言ったが那月が食べさせてくれるということで言葉に甘えた。
「あーん」
「あ、あーん」
「熱かった?」
「ううん、大丈夫。ちょっと熱い程度だから」
「じゃあ、ちょっと……フー、フー、はい」
「あーん」
お粥をもぐもぐと咀嚼する。
ゆっくりと食べていたはずなのに、気づけば鍋の中身は空っぽになっていた。
「じゃあ、ちょっと片付けてくる」
「うん、美味しかったよ」
那月が扉を閉めるのを確認すると喉に溜めていた言葉を呟いた。
「味が、全くしなかった」
味覚を全くと言っていいほどに感じなかった。
甘い、辛い、しょっぱい。お粥ならお米本来の甘さを感じるはずなのに、それがわからない。
昨日食べた夕食の味も頭の中で薄く広がっていて、最早どんな味なのか不明。
それに────那月がまた呟いたアイツって誰なの?
僕のこの症状と関係しているの? 教えて、那月。




