もう一人
目の前には鋭利な刃物というべき包丁。
それを握っているのは、那月。
「私はちゃんと言ったよ?」
「待って! 落ち着いて那月! 訳を話して……」
「話してる暇はないの……だから、お願い」
顔を俯かせて絞り出すように呟く。
包丁を握る手が震えているのがよくわかる。
「那月」
「……くっ……ぅ……っ……お願い、わかって」
床に涙の粒が一つ、また一つと零れている。
片手で握っている包丁を両手に持ち替えて、身体の震えをなんとか抑えてる。
「那月、誰かに脅されているの?」
何故か、ふとそう思った。
普段の那月を知っている数少ない僕だからこそ。那月自身でこんなことをするはずがない。
誰かに脅されている……確信の持てない根拠だけが心の中を渦巻く。
「ねぇ、那月。なんか言って……ッ!?」
ゾクッ、と身体中の産毛に至るまで悪寒が走る。
この感覚が何かはよくわかっている。
だけど、どこからなのかがわからない……見られている。
旧校舎や祠での感覚とは違う、明確な殺意。
「ごめんね……千乃」
走ってくる那月に対して、咄嗟に行動できずそのまま後ろに倒れる。
激しく頭を打つも、なんとか痛みを堪える。
「お願い、千乃、私……私ね、殺したいッ!」
覆い被さるように僕のお腹に馬乗りになって座り込む。
両手を振り上げて力一杯に包丁を振り下げてくる。切っ先が左肩を掠るたび、凝視しながら那月の両手首を掴んで押し返す。
なんて力だ……! 気を抜いたら……!
明らかに人間離れしている。
一瞬足りとも気を抜いてしまえば、肩の筋肉に刺さる。そしたら、抑えられる気がしない。
だが、力の維持も時間の問題。
「ぐぅっ……! 那月、離してッ!」
「千乃、千乃、お願イ、ワタシを……コロ、コロッコロコロ殺シタイ……!」
真っ赤に光る瞳、不気味なまでに歪み三日月を口元に描いたような笑顔。
これは那月じゃない。別の何か。
人間離れというよりも、人間じゃないモノ。
「ねェ、ユキノ、お願イ、コロサセテッ!!」
さらに押し込んでくる力に力の限り押し返す。
あと数センチ……! 刺さる、刺さってくる!
「うあああっ! んぐっ……!?」
包丁の切っ先が左肩に刺さる。
セーラー服の上からズブッと抉られるように痛い。
赤い目は血走っていて、最早人を刺す行為を楽しんでいる。
「ねぇ、もっと、奥までさァ、血を見せてよ! ねぇ、ねぇ〜ッ!! アハハハハッ!!」
「ぐわぁぁぁぁっ!?」
痛い、痛い痛いイタイッ!!
左肩に上手く力が入らなくなってきた。
それに伴って右手だけだと、上手く抑えることも難しい。
追い討ちをかけるように体重をかけて刺し込まれていく。
「助けてっ、誰か……!」
「あれ〜? もう降参? つまらないなぁ、でも私が飽きるまでは頑張ってよねっ!」
「ぐぅっ!? やめて、那月!」
「アッハハハハッ!! いいなぁ、いいなぁ……殺すのが勿体ないほどに好きになりそう……でも、残念だなぁ」
包丁を持つ力が弱くなり、勢いよく引き抜かれる。
立ち上がったと思いきや、力強く後方に蹴り飛ばされる。
「ほら、来たよ〜?」
ニヤニヤと笑みを浮かべて那月は階段のほうを指差す。
痛みを抑えながら、階段のほうから駆け上がるような足元に耳を傾けると近づいてきた足音の正体は────、
「千乃ッ!」
「那月!? えっ、那月が二人……!?」
同じ制服で同じ姿の那月が今、目の前に二人立っている。
後から来たほうの那月はスカートのポケットから取り出したハンカチで左肩を抑える。
「どうしてこんなことを……ぅぐっ!」
「動いちゃダメ!」
「いいなぁ、いいなぁ……気に入っちゃった。でも、残念だけど時間切れだ。せいぜい消えないように頑張んなよ。じゃあね〜」
意味深な言葉を残してその場を立ち去っていく那月。
三日月を描いたような口元の笑みと不気味な笑い声が脳裏から離れない。
「千乃、大丈夫? 立てる?」
「ねぇ、那月は……那月でいいんだよね? さっきのとは違う、本物なんだよね?」
「……うん。千乃の知ってる那月、私は千乃を傷つけたりなんかしない。それに……ううん、とりあえずお家に帰ろう?」
♢
時刻は午後六時半。
人の目を気にして敢えて電車には乗らず、そのまま歩いて帰ってきてしまったため遅くなった。
家へ帰ると真冬さんの姿はなく、書き置きすらない────まぁ、いつも通りと言える。
未だ痛む左肩を抑えつつソファーに座るとそれに合わせて、那月が救急箱を手に隣に腰掛ける。
「ありがとう。でも、悪いから自分でやるよ」
「ダメ、千乃は大人しくしてるべき」
セーラー服のリボンを外し、そのまま流されるがままに脱がされる。
今回で二回目なわけだけど、やっぱり恥ずかしい。
「怪我人である千乃は大人しくしているべき。それなのになんでそうできないのか、時々わからない」
「ごめん……」
「消毒液、染みるけど我慢しないでね?」
────痛ッ!?
こんなに染みたのは初めて、だけど少しは我慢しておかないと。
「我慢、しないで? いい?」
「はい……」
「包帯を巻くからね。一応、明日朝起きた時に交換して状態を見ないことには不明だから。傷口が浅いのが唯一の救いだけど────でも、千乃には傷ついて欲しくないの……わかって」
那月が顔を俯かせてしまう。
肩に触れている指先からもわかるほど、理解して欲しいと伝わってくる。
「那月……」
「今ここにいて千乃と話しているのが、本物の那月。あれは私じゃない。私は千乃の傍にいる、ずっと千乃の傍にいるから」
「あ、ありがとう……」
初めて異性に言われた気がして顔がほんのり熱くなっているのがわかる。
この状況でそんなことを言うのは反則すぎる。
正面から顔を合わせられなくて、明後日の方向に視線を逸らす。
「包帯巻き終わったら、ご飯作るね」
よくわからないはずなのに、この感情を僕は知っている。理解してしまえば必ず終わる。
だから、敢えて言わないようにするべき。
気づかないフリをして、大きくならないうちに心の箱にしまっておこう。
────那月を困らせない方法として。
「──────千乃は絶対に消させないから」
「え?」
「ううん! あっ、夕飯のリクエスト! 何かある?」
「ハンバーグかな」
「わかった……はい、終わったよ」
俄に聞こえた言葉。
『消させない』と呟いた那月は何か知っているのか、僕は聞き出せなかった。




