二話 嫁と話をします
小鳥の鳴く声が聞こえる。眩しい日差しが目に入ってくる。不思議だな、VR機材をつけたまま寝たから日差しが目に入るなんてないはずなのに。それでも寝惚けた俺には判断できるほど頭は回ってなかった。あぁ、仕事に行く気になれない。このまま寝続けていたい。ルーシィとの別れは俺にとっては大きすぎた。生きる気力が湧いてこない。
いや、働けば気は紛れるか。この辛いキモチを誤魔化すことはできるか。そんな憂鬱なキモチで体を起こす。酷く視点が何時もより高い気がする。まるで【人魔英雄物語オンライン】のアバターを使ってたときほどの高さだ。ぼやけた視界が徐々にクリアになっていく。そうすると見えてくるのは見慣れた俺の部屋ではなかった。
どういう事だろうか、俺はまだ寝惚けているのだろうか。見えた部屋は昨日まで俺がいた【人魔英雄物語オンライン】のマイダンジョン最奥、つまり俺とルーシィの部屋。ためしに頬をつねろうとしてみる。するとそもそも肉が掴めなかった。あったのは固い鉄のような何かに触れる感覚。
本当にこれは夢ではないのだろうか。そもそもこんなリアルな感覚は【人魔英雄物語オンライン】ではまだ再現できてなかったはず。特に嗅覚と味覚、触覚は未実装だったはず。
まて、そもそも俺とルーシィの部屋だとするとこの大きなダブルベッドの隣には……淡い期待を胸に自身の右側を見やる。
いた、そこに俺の愛しい嫁はいた。一糸纏わぬ姿で可愛らしいすぅすぅといった寝息をたてて、胸をゆっくりと上下しながら安らかに眠っていた。胸を上下に動かすような細かい動きも【人魔英雄物語オンライン】には実装されてはいなかったはず。だがそんなことはどうでもいい。重要なのは夢でももう一度ルーシィに出会えたことだ。
感動のあまり飛び付きたくなるがそこはグッと我慢。寝ているのにいきなり叩き起こすのも悪いというもの。そっと体を揺すって起こすことにした。
「ルーシィ、ルーシィ?」
彼女の肩に触れると、とても柔らかな感覚と暖かさが伝わってきた。それは人に触れた時と何ら変わらない。確かに命を感じるものだった。それで確信した、ルーシィは生きている。VRで作られた存在じゃない。俺の嫁が生きている、その感動に涙が出そうになった。
だけれど涙は一旦抑える。まずは愛しい嫁を起こさないと。肩を揺すって彼女を起こそうとする。2、3回と揺すってあげると彼女は寝ぼけ眼で体をゆっくりと起こした。寝起きで焦点のあってない愛らしい瞳でこちらを見つめて、時間にして2秒くらい固まっていたが、やがて口を開いた。
「おはよう、ゼノ」
ゼノというのは俺のキャラクター名だ。友人に本名は不味いと言われて、取り敢えずで決めた名前だ。当然ルーシィは俺の本名を知らないからゼノという。彼女の呼び名に応じて俺も言葉を続ける。
「おはようルーシィ」
俺が答えれば彼女は優しげに微笑み、そしてそっと俺に抱きついた。何度も抱いた体の筈なのに、伝わってくる感覚は初めてで、マシュマロみたいな柔らかな肌に触れてその感触を得る。それがとてもドキドキして、ついでに髪や体からほわっと漂ってきたアロマオイルのような甘い優しい香りに心が震える。暖かい。何度も触れても感じる温もりは嘘ではない。そうやってお互い何を話すということはなく、しばらく抱き合っているとルーシィから話が始まった。
「今日なんでしょ……旅に出るの」
旅に出る。なんのことか最初はさっぱり分からなかった。だけれど俺の記憶の片隅に、その言葉をルーシィに伝えた覚えがあった。それが思い出される。確かに言った。それは【人魔英雄物語オンライン】サービス終了が告げられてすぐの日だ。ボソリと言った。俺は遠くないうちに旅に出てしまうって。それもそうだ、サービスが終了したらもう会えないし、彼女一人をおいて旅に出るようなものだと思って、そう彼女に話したっけ。寂しそうな声色でルーシィは続ける。
「旅には私を連れていけないのでしょう? そしてもう二度と戻ってこれないって」
俺の胸に顔を埋めてルーシィが話す。その体が震えていたことにはすぐ気が付いた。正直NPCであるはずの彼女が特に指示もなく自分の意思で話してることに驚きはあったが、そんなことはどうでもよかった。ただ、悲しみに震える彼女を見ていて、心が痛くなった。
ルーシィが顔を上げた。その目は潤んでいて、今にも泣き出しそうなのをじっとこらえてるようにも見えた。
「私を忘れないで、それだけでいい……それだけでいいの」
その言葉で俺の涙腺は我慢の限界だった。堰を切ったように涙が溢れ出てくる。肉のない頬を伝ってベットに滴り落ちる。
「いつまでも、愛してる……ゼノ」
「ルーシィ……ルーシィ!」
彼女を強く抱き締める。壊れてしまうんじゃないかと思うほど強く。彼女の匂いが強くなる。彼女も俺の大きな体に手を回して強く抱く。彼女の名前を何度も呼ぶ。お互いの鼓動の音が聞こえあう。涙と嗚咽が互いに止まらなかった。そうして落ち着くまで俺達は抱き合ったまま泣き続けた。
落ち着けば少し恥ずかしそうな表情でルーシィが俯く。あれだけ泣いたのが恥ずかしいのかな。俺もたくさん泣いたから気にしなくてもいいと思うのだけど。
「泣いてばかりでごめん……どうにもならないのにね」
そういって彼女は涙を拭った。だけれど俺は伝えなくてはならない。離れ離れになる必要がなくなったかもしれないと。
「ルーシィ、外にいこうか」
彼女に声をかける。何故? と言った表情を彼女はしていたが、すぐにベットから下りて指を鳴らした。すると裸の体はすぐに黒々とした闇に包まれ、やがていつもの可愛らしいゴスロリになった。
俺もベットから下りてストレージを開こうと……開けない。というか開かない。いつもの調子で手を振ってみたが駄目だった。これはやはり本当に? なんにしてもこのままでは服が着れないのでどうしたものかと思ってるとルーシィが。
「ゼノ、服の出し方忘れた?」
と聞いてきた。ルーシィの前でくらいカッコつけたかったが、恥ずかしいことにわからないのだからここは素直に聞いておこう。そう思った俺は後ろ頭を掻きながら頷いた。
「ふふ……やっぱり、ゼノにも可愛いところってあるわね」
そんな少し意地悪なことを言いつつもしっかり教えてくれた。何でも自分の内側に意識を向ければいいらしい。そうすると、確かに鮮明に俺がストレージに入れていたアイテムが脳裏に浮かんできた。これを取り出すように意識すると俺も黒い闇に包まれ、やがて着ていた服に戻っていた。
マットブラックとワインレッドのツートンカラーを基調としたファンタジー世界の貴族めいた服、それが俺のいつもの服装だった。たしか名前は【紅月の紳士】だったかな? なんにしてもなんとか服を着ることに成功した俺は、ルーシィを待たせるわけにもいかないので、早速ダンジョンの外に出てみることにした。
もし俺の予想が当たっていれば、と期待を寄せてドアノブを回す。ドアを開いていくつかの部屋を抜ければ、やがて外への扉にさしかかりそれも開く。その向こうの景色は……俺の予想通り、見知らぬ世界が広がっていた。