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海辺の街で

作者: 石田 幸

別れた人を想う。

旅先では、いつも眠りが浅い。


夜明け方、虫の音で目が覚めた。

午前四時。まだ外は暗い。


水滴のついた窓から臨む海の彼方に白い光がチカリチカリと明滅して光る。

薄ぼんやりと山の稜線が浮かび上がる。


九月九日。日曜日の朝が来る。


ー以前、この街を訪れた時は妻と二人だったなー


もう先、別れた妻の顔は、今やぼんやりとしか思い出せない。


気の弱い(ひと)だった。

私が不機嫌に声を荒げようものなら、もう、ただおろおろと手を揉みながらうつむいてしまう。


淋し気な笑みを浮かべた、その静かな佇まいに惚れたはずだったに…。

いつの間にかその妻の泣きべそをかいたような微笑みが鬱陶しくてならなくなっていた。


家を空ける夜が多くなった。

どんなに夜更けに帰っても、妻はいつも起きて私を待っていた。

そんな様子が、癇に触って、思わず大きな声を出してしまう。

妻は、すっと青ざめると、又、おどおどと下を向いて手を揉む。


別れを告げたのは妻からだった。


もう、長らく妻とは口もきいていなかったはずなのに、何故、あの時

「伊勢にでも行こうか。」

と口をついて出たのだろうか。

パッと顔を上げた妻の頬がいつになく上気していた。

「旅行なんて久しぶり。」

と小さな声で呟いた妻は頬を染めて薄く微笑んだ。


酷暑だった夏の終わり。

まだ充分に夏の名残を留めた九月の初め、伊勢へと車を走らせた。


遅い午後に出立したので、旅館に着いたのは夕刻だった。

これと言った目的のある旅ではない。

早くに湯を使って、部屋で夕げをつつきながら、ちびりちびりと飲みだした。

「お前も一杯どうだ。」

普段から酒を飲まない妻に杯を突き出す。

いつものごとく、辞退するだろうと思ったが

「すみません。」

すっと杯を受け取ると、くいっと一息で杯を干した。


差しつ差されつ。杯を重ねる。

妻の酔うほどに青みを帯びた顔が、窓辺の月に照らされて、陶器のように光る。


ーこんな顔だったろうかー


青白くすべらかな肌に青みがかった眼がキラリと光った。


「すみません…。」

妻は泣いていた。


その夜、妻を抱いた。

冷たくて薄い妻の躯は、抱き締めると壊れそうだった。

いつの間に、こんなに痩せ細ってしまったのか。


旅先の常で、浅い眠りの中、

「コトン」

と小さな音が響いた。

やがて、衣擦れの音が遠ざかっていく。

「待て。」

がばと起き上がって、隣を見ると、妻はもう居なかった。


午前四時。

窓際の小机の上にキラリと光る物。


白い紙の上に、小さな指輪がぽつんと取り残されていた。

窓から入る灯台の光に、妻の細い筆跡が浮かび上がる。


ーさようならー


それ以来、妻とは会っていない。

どこで、どうしているのだろう。


私は大きくぶるんと頭を振って、窓辺に寄った。


やがて山の端が薄く茜色に明るんでくる。

海辺の街の夜明け。

かもめの哀し気な鳴き声が、妻の泣き顔と重なる。



ーもう少しやりようがあったのにー

と思ってみても、今となっては詮無いこと。



私は、こんな虚無を抱えて生きていく。


海辺の街に再訪したのは、感傷か。それとも、贖罪か。



「さようなら。」



私は海を見つめて、そっと呟いた。

旅先で夜明け方にふと目覚めて浮かんだ小品です。愛した人との別れはなぜだか切ないものですね。

美しい風景と切ない想いを味わっていただければと思います。

ご一読ありがとうございました。

石田 幸

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