俺と母と渦中の人
ガーデンパーティで令嬢たちに嫌がらせを受けるであろうリナリアを、俺が颯爽と助けて仲直り。
「…………ねえ、それがあんたの作戦だったのよね?」
「う、うむ。そのつもりだったのだが……」
じとりと睨むと、ベネディクトがしどろもどろに答える。はあ、と息をついて前方を見、ふっと口元が緩んだ。視界の先には、ピンと背筋を伸ばして立つリナリアと、言い負かされたクロエ嬢。
ベネディクトの思い描く作戦を聞いた時、上手く行かないだろうとは思っていたけれど、結果はやはり予想通りで、リナリアは俺の手など借りぬままに相手を蹴散らしてしまった。
強く靭やかに成長しているリナリアを前に、口元が緩みっぱなしだ。幼い頃から泣いて泣いて、そうして強く成長したリナリアは、何処の誰にも負けないくらい立派な淑女だ。急に現れたそこらの令嬢が敵うわけ無い。俺が助けるどころか、リナリアに惚れ直す結果となった。
「2人とも、そこまで」
しばらくはそのまま眺めていたが、リナリアがあまりにも相手を煽るので、そろそろ潮時かと止めに入った。リナリアが負けるなどとは思わないが、これ以上衆目の前でことを荒立てるべきでは無いだろう。相手がどんな報復に出てくるか分からない。2人の間に割って入った俺は、リナリアの手を引いて会場に背を向けた。
そうして連れだした庭園の奥で、リナリアは俺を惚れ直させるだけでは飽きたらず、見事に我慢の糸を断ち切ってきたのだった。
『どっちも……その……大切なのよ』
『や、妬いてなんか……ない……わよ』
我慢の限界とはまさにこのこと。
可愛い。可愛い可愛い可愛い。
その言葉が頭を埋め尽くしたかと思うと、リナリアの言葉を遮って口を塞いでいた。一度では飽きたらず、二度三度と角度を変えて口付ける。本能のままに抱き寄せたリナリアが、苦しげに身をよじった。
俺とリナリアにとって、これが初めての口付けだ。一度口付けてしまえばそのまま我慢ができなくなるのは目に見えていたので、結婚するまではと我慢していたのだ。その我慢の糸もとうとう千切れてしまったわけだが。
それもこれも、リナリアが可愛すぎるせいだろう。真っ赤な顔で強がって、妬いているのが丸分かりで。好きな女にあんな顔をされて、我慢ができるほど出来た男ではない。
リナリアが苦しげにくぐもった声を出す。胸元を何度も叩いてきた。それでもあと一回、あと一回と繰り返していると、とうとう渾身の力で足を踏まれたので、渋々と離れた。
「なにするのっ!」
涙で潤んだ瞳に、真っ赤な顔。キッと睨まれたけど、その顔でもう一度目眩が起きる。
「…………ねえ、もう1回、いい?」
「ふっ、ふざけるんじゃないわよ!」
我慢できずにそう尋ねると、今度は力の限り平手打ちをされた。
*****
数日経っても、その時のことを思い出すと自然と口元が緩んだ。
ベネディクトの作戦通りとはいかなかったものの、違う形で仲直りができたと思うので良しとしよう。口づけまで出来たのだから予想以上の結果ともいえる。
パン、と一度軽く頬を叩いて緩んだ顔を引き締め、自室を出た。親しい仲の家人たちには俺の女言葉を知っている者もいるが、知らない者のほうが圧倒的に多い。優しく紳士的な跡取りというイメージの方が何かと事が運びやすいのだ。生まれてからずっと根付かせてきた俺の印象を壊すわけにもいかない。
努めて平常を装い廊下を進んでいると、向かいから1人の侍女がやってきた。侍女は俺に目を留めると、頭を下げて端に寄った。彼女の押すワゴンには二人分のティーセットが準備されている。扉の向こうから何やら話し声もするし、来客のようだが、今日誰かの訪問があるなどということは何も聞いていなかった。
母が誰かを勝手に呼んだのだろう、とは思ったが、あの口煩い母が誰かを内密に呼ぶなど、中々あることではない。訝しく思ったが、いきなりドアを開けて中を確かめることも憚られた。考え、相変わらず頭を下げて止まったままの侍女に視線を向ける。
「止まっていなくても良い。私に構わず中へ」
言われた侍女が目を丸くして顔を上げた。どうしたものかと逡巡しているようなので、再度目線で促すと、もう一度頭を下げてからドアを開けた。カラカラとワゴンを押して入室していく。
俺も止めていた足を動かし始めた。侍女の横を通り抜ける際に、開いた扉から素早く部屋の中を確認する。ちらりと垣間見た部屋の中では、母と、思いもよらぬ人物が向かい合っていた。
何故、クロエ・ブランケル嬢がここにいるのか。
母とクロエ嬢。何の関わりも無いように思える2人が、自分に断りもなくサルディネロ公爵邸で顔を合わせている。その事実を訝しく思わない訳がない。
ただでさえ、クロエ嬢には最近良い印象がないのだ。リナリアと2人で出かけた遠乗りを邪魔されたことや、劇場でのリナリアへの振る舞いなど。最近再発したリナリアへの嫌がらせも、彼女が中心となっていることは分かっている。
何らかの手を打たねばならないと思っていたが、先日のガーデンパーティでリナリア自らやり返してしまい、俺の出る幕は無かった。リナリアを連れて会場を出る時にちらりと様子を窺ったら、それはそれは険しい顔をしていたので、今後の動向に注意をしなければならないと思っていた矢先にこれだ。
クロエ嬢だけならまだしも、母が絡むと一筋縄では行かない。何を企んでいるのかと、重たいため息がでた。知らず眉間に寄っていた皺をなんとか戻し、余所行きの笑顔を纏うと、開かれたままになっていたドアをコンコンと叩いた。
母とクロエ嬢が揃ってこちらを向く。母はなんとも驚いていなかったが、クロエ嬢は目を軽く見開いたかと思うと、頬を染めて微笑んだ。その姿は端から見れば可愛らしいご令嬢でしかなく、蕩けるようなものなのだろうが、生憎俺は何とも思わない。
俺が見たいのは、彼女の笑顔じゃなくてリナリアの笑顔だ。ああ、リナリアの笑顔を見たのはどのくらい前だろうか。
「こんにちは、クロエ様」
「こんにちは、マルシアル様。まさかお会いできるなんて、とても嬉しいですわ」
俺は別に、などと考えながら、入室した。クロエ嬢に微笑み返し、母に向き直る。
「マルシアル、いたのね」
「はい、これから出ますが」
「そう。では少しだけ一緒にどうかしら?」
「そうですね。失礼します」
俺が家にいるかどうかをこの母が知らないわけがないのに、なんとも白々しい。どんな情報だって、母はいつの間にか手にしているのだ。
同席を勧めたのだって何かしらの意図があるに違いない、とは思ったが、怪しい2人組をこのままにもしておけないので、勧められるままに腰掛けた。侍女が俺の分のお茶を準備しようとしたが、長居をするつもりはないので手で制す。それを見て、クロエ嬢が如何にも残念そうに肩を落とした。
「ところで、2人は此処で何をしているのですか?」
「いやね。わたくしが若くて可愛らしい女性とお茶をしているのはおかしくて?」
「そうは言っていませんが」
母に褒められたことで、クロエ嬢はぱっと顔を輝かせ、自信ありげにこちらを見つめて微笑んだ。実に分かりやすい。滅多なことで人を褒めない母が、クロエ嬢を本心から褒めているとは到底思えなかったが、そう思えている彼女は幸せだろう。
「どこかの誰かさんがあまり相手をしてくれないものだから、わたくし、とても退屈なのよ」
「それはそれは、すみません」
「あら、貴方のせいだなんて言っていなくてよ。ただあまりにも暇だから、たまにこうしてお相手をして頂いているの。ねえ、クロエ様?」
明らかに俺への当てつけととれる言葉だが、俺が相手にしないことなど、この母は気になどしているまい。何を思ってこんなことを言っているのか甚だ謎だが、ここは話を合わせておこうと、申し訳ない表情を作ってクロエ嬢を見つめた。
「すみません、クロエ様。母が迷惑をお掛けしていますね」
「いいえ。迷惑だなんて、とんでもございませんわ。わたくしもとても楽しい時間を過ごさせて頂いております」
「クロエ様はお優しいですね。どうぞ母をよろしくお願いします」
言いながら、腰を浮かす。クロエ嬢が物足りなさそうにこちらを見上げてきた。
「あの、マルシアル様、是非とももう少しご一緒いたしませんか」
「そうしたいのはやまやまですが、申し訳ございません。本日は失礼しますね」
至極残念そうなクロエ嬢に、あたかも俺も残念に思っているかのように言葉を返した。俺の心中など見透かしているに違いない母の視線が痛い。紅茶を啜り、母が口を開いた。
「なんとも慌ただしいことね」
「ええ。色々とやるべき事がありますので」
「ラセナ国の方をお相手する以外に?」
「はい。我が婚約者殿との今後の準備も色々とありますからね」
その言葉にクロエ嬢の顔が曇る。母は愉快そうに口の端を上げた。
婚約者との準備、となれば、次は婚姻と考えるのが妥当だろう。リナリアとは今すぐにでも結婚したいが、何も現在進行形で準備を進めているわけではない。母のいる場で暗に結婚を仄めかすことで、クロエ嬢を牽制したかったのだ。どうやらクロエ嬢は、俺とリナリアの仲を引き裂けるどころか、リナリアに取って代わることができると思っているらしいので、そんなことは不可能だという意味を込めた。
母はというと、提示した条件を達成したわけでもないのに、俺が暗に結婚を仄めかしたことが大層面白かったらしい。試すような、それはそれは楽しげな視線に気づかないふりをして、にこりと笑った。
「というわけで、残念ながらこの辺りで失礼します。クロエ様、どうぞゆっくりしていってくださいね」
では、と立ち上がり、会釈して部屋を出る。この時の俺は、この一連の会話が後に裏目に出るなど、思ってもいなかったのだ。