私に力を与えるもの
結局、マルシアルはクロエ様を案内することはなく私の後を追ってきたので、なんとなく気まずい雰囲気のまま2人揃って帰宅した。しかし、それ以来、マルシアルとは顔を合わせていない。
遠乗りから帰って以来、なんとなく元気のない私にお母様も気づいたようで、最近は何かにつけて私を外へ連れだそうとしている。気分転換をさせようとしているのだろう。
外出してはしゃぐような気分でもなかったが、いつまでも落ち込んでいるわけにも行かないので、今日はお母様と一緒に歌劇鑑賞にでかける予定だ。
「お嬢様、何をお召しになりますか?」
いつもは私に厳しいブルーナでさえこの調子である。柔らかな口調で私の意向を伺ってきた。
いつもなら、何でもいいと言うところだが。
「…………あれがいいわ」
そう言うと、ブルーナはさっと頭を下げて衣装部屋へと向かう。少し私に厳しくて、少しマルシアル贔屓をするだけで、ブルーナは基本的にとても優秀な侍女である。『あれ』という私の言葉だけで、意図していたドレスをきちんと目の前に用意してくれた。
広げられたのは、淡い青のドレス。型は流行から少し遅れてしまっているけれど、きちんと手入れがなされており、古めかしい印象は受けない。
「お気に入りですものね」
ブルーナの言葉にこくりと頷き、黙って着せてもらう。このドレスは、マルシアルが初めて私に贈ってくれたドレスだ。裁縫を始めたばかりの頃、手を傷だらけにしながら、私のために初めて作ってくれたドレス。
田舎の領地に住むしがない子爵家の娘である私は、王都の流行を取り入れたきらびやかなドレスを一目で気に入って大層喜んだ。勿論デビュタントもこのドレスで済ませている。
それ以降、サイズが合わなくなったり流行に遅れてしまったりという理由で処分しようとするマルシアルを何度も押し留め、手直しを加えてもらい、今なお着続けているお気に入りの一着である。
『リナリアの髪には、青が1番似合うわ』
父譲りの白銀の髪は、平凡な私の中で唯一非凡なものである。綺麗だと言ってくれる人も居たけれど、貶される対象と成り得るこの髪に、マルシアルはよく青を添えてくれた。自分の見立てが正しいと、自信満々な笑みで。
元気がない時、また前を向けるように。そう自分を奮い立たせる時、私はこのドレスを着る。
よし、と大きく息を吸って意気込み、滞りなく仕度を終えて、お母様の待つ玄関先へと向かった。お母様の隣には1人の男性が立っている。
今までは、私の外出となるとマルシアルのエスコートがつきものだったが、今回は違う。マルシアルが来てくれるのではないかと、ほんの少しだけ期待と不安を抱いた私の目の前に現れたのは、クレト・アバスカル様だった。今回も、私のエスコートを頼まれたのだという。
「今回も申し訳ございません、クレト様」
「いえ。我が君のご命令ですので」
相変わらずの無表情で、相変わらずの言葉を口にするクレト様。我が君、つまりはエルシーリア様の傍には、今マルシアルがいるのだろう。また胸が痛んだが、この痛みにすら慣れ始めていた。
兎にも角にも、お母様とクレト様と連れ立って、劇場へと向かった。到着したのは、最近賑わいを見せているという比較的新しい劇場だ。何でも最近になって急に羽振りがよくなり、人気の役者や歌姫を多く雇っているのだとか。
噂通り劇場の中は超満員で、私達は人混みをかき分けるようにして席へと向かった。
今回の演目は、姫と騎士の恋物語。忠誠を誓う騎士と、騎士を愛する姫が、幾多の試練を乗り越え最後には結ばれるという戯曲がもとになった歌劇である。
物語も佳境というところで、一番人気という歌姫が、高らかに騎士への恋心を歌い上げた。劇場内を、切なくも美しい恋の歌が満たしていく。
ーーーこんなに素直に、思っていることを言葉にできたらいいのに。
私には到底できそうもない。はあ、と小さく息をついて何気なく隣に視線を動かすと、クレト様がとても険しい顔をして右手を握っていた。今日は手袋をしているので、以前目にした紋様は隠されているが、恐らくそれが刻まれている辺りを力強く握りしめている。
「クレト様……?」
あまりにも異様な気迫に、小さく名を呼ぶと、クレト様はハッとしたように手の力を緩めた。こちらを向いて何でもないというように頭を振り、再び舞台へと目を向ける。訝しく思いつつも、私も舞台へと視線を戻した。
姫の想いに対する騎士からの返事が歌われ、物語はフィナーレを迎えた。拍手喝采の中、幕が下りていく。拍手が鳴り止み、観客たちが一人二人と席を立ち始めたのに合わせて、私達も席を立った。
「素敵な物語だったわねぇ」
お母様は頬を染め、ぽうっと空を見つめている。本当は違うことを考えていて上の空だった部分もあるけれど、とりあえずは同調して頷いた。
そのままぼんやりと進んでいると、出口へと向かう人ごみに飲まれ、お母様とはぐれそうになった。慌てて後を追うけれど、左右から押されてお母様の姿がどんどん遠ざかっていく。
「ま、待ってお母さ……きゃっ」
必死に手を伸ばしていたところで、急に何かに躓き、前のめりに転びかけた。隣に立つクレト様が咄嗟に支えてくれたのでなんとか転ばずに済んだが、布の裂ける嫌な音が耳をつく。
「っあ………」
慌てて後ろを振り返ると、ドレスが大きく避けて右足の太もも辺りまで見えてしまっていた。淑女が人前で足を見せるものではないとされているし、ましてやこの場には男性もいる。
かあっと頬に血が登り、慌てて隠そうとしたところを横から何かにぶつかられ、更にクレト様にしがみつくこととなった。
「あら、ごめんあそばせ」
くすくすと笑うのは、どこかで目にしたことがあるご令嬢だった。この冷たい瞳に見覚えがあるということは、多方マルシアル関係の事で私を虐めていた内の誰かだろう。最近は鳴りを潜めていたと思っていたのに、どうしたことか。
けれど、今の私には虐めが再開されたらしいということよりも、ドレスが裂けたことのほうが問題だった。ドレスの端を踏みつけるハイヒールの先を追うと、そこでは見知った人が微笑んでいる。
「ごめんなさい。引っ掛けてしまったようだわ」
そういって少しも申し訳なくなさそうに笑うのは、クロエ・ブランケル伯爵令嬢だった。
何がごめんなさい、なのだろう。わざと踏んだことくらい私でも分かる。
「破れてしまって申し訳ないですけれど、ちょうど良かったのではなくて? このような時代遅れのドレス」
笑いながら更に何か言われた気がするけれど、その言葉のほとんどは耳に入ってこなかった。
このドレスは、特別なドレスだったのに。
時代遅れだなんて関係がない。マルシアル本人に言ったことはないけれど、何よりもお気に入りの一着で。大切に大切に、この先ずっと大切にしようと、そう思っていた。
デビュタントから今まで、色々な思い出が詰まっているドレスが、こうして踏みにじられている姿に、言葉も出なかった。ドレスから足がどけられることはなく、さらに踏みつけられたところで、とうとう視界が歪んでしまう。
今まで、どんな虐めにだっ誹りにだって耐えてきたではないか。このドレスを踏みにじられたことが堪えるのは確かだけれど、ここで泣いてたまるものか。
「……どけて、くださいますか」
「あら、何かおっしゃったかしら?」
「どけてください」
「まあ、子爵令嬢ごときが何か? よく聞こえないわ」
「どけてって言ってるのよ!」
耐え切れず、声を荒げてしまう。周囲の人も異変に気づき、こちらに視線が集まった。クロエ様とその周りのご令嬢は、白々しくも、まあ、と眉を下げた。
「品のない言葉遣いですこと。おみ足も早く隠したらいかが? そういうご趣味がお有りなら何も申しませんけれど」
くすくす、と笑い声が聞こえる。事情を知らない周囲の人からは、私を非難する視線が向けられた。ぐっも唇を噛んで堪える。此処で何か反論しても、私の立場だけがどんどん悪くなるのは明らかだ。
「早く退場されてはいかが?」
立ち止まる私の腕に、クロエ様の腕がかかる。途端、チリッとした痛みが走った。驚いた私が腕を引くよりも先に、クレト様のマントが翻って、私とクロエ様を遮断した。
「何をなさるおつもりでしたか」
冷たい、クレト様の声。低く発せられた声に、クロエ様がびくりと肩を動かした。
「な、なにもしておりませんわ」
「嘘は感心いたしません」
クレト様のマントに包まれ、ヒリヒリと痛む自分の腕を見ると、薄っすらと赤くなっている。何が起きたかは分からないが、掴まれたあの一瞬でクロエ様が何かをしかけ、クレト様が止めてくれなければもっと酷いことになっていたのだろう。
「手を見せてください」
「何も持ってなどおりませんわ」
「それなら、早く見せてください」
「持ってないと言っております! 何ですの、変な言いがかりをつけて……! 貴方、一体何様のつもりでして?」
クレト様が誰かを知らないクロエ様は、そう言って彼を睨んだ。クレト様は相変わらずの無表情だが、追求を止めるつもりもないらしく、ひたりとクロエ様を見据えている。
「わらわの騎士が、どうかしたかの?」
その場に割って入ったのは、凛と気高い声。自然と人垣が割れた先に現れたのは、エルシーリア・ファリー・ラセナ様だった。
その人の姿を見た瞬間、私の心臓は大きく跳ねた。すぐさま視線を外し、目の前にあるクレト様の胸元を見つめる。
彼女がいるということは、隣に立って腕を取り、親しげにエスコートをしているのは、きっとーーー
そこまで考え、鼻の奥がつんとした。
泣くものか。
絶対に、泣くものか。
そう思って、ぎゅっとクレト様にしがみついたまま、どうにか涙を堪えていたというのに。
「…………リナリア?」
ーーー忌々しいこの耳は、今1番聞きたくなかった声を、よく馴染んだこの声を、どうしても拾ってしまう。
この声が聞こえたということが、奴があそこに立っているのだという決定打だ。聞こえなかったふりをしたけれど、涙腺はとうとう決壊してしまった。
「エ、エルシーリア様の騎士……?」
「うむ。そこなおのこはわらわの側近にして唯一の騎士じゃ。無礼をしたのならばわらわが詫びよう」
「いっいえ! とんでもございません」
こちらこそ失礼を致しました、とクロエ様が謝罪を述べた。次期女王陛下の登場、さらにはその騎士と貴族令嬢が揉めかけたとあって、面倒事には巻き込まれまいと周囲の野次馬が一斉に立ち去る気配がする。
「リナリア」
すぐ傍でマルシアルの声がした。動き出した人波に乗ってやってきたのだろう。肩を掴まれ、クレト様から剥がされそうになるけれど、嫌だと頭を振る。
「な……で……ここにいるの、よ……」
「わたくしがご招待しましたの。この劇場は、わたくしの父のものになりましたのよ」
マルシアルに向けた質問が、クロエ様から返された。先ほどまでの態度はどこへやら、相手が私ならば何も恐れることはないというように、彼女たちは次々と口を開いた。
「マルシアル様、見てください。リナリア様ってば、あのようにおみ足をだして……。それに、婚約者がいるのに、別の男性に触れていらっしゃいますわ」
「あっ……もしかして、もう婚約者ではないとか?」
クロエ様とご令嬢方の容赦のない言葉が胸を刺す。
ドレスも破れ、傷を負い、涙で顔もぐちゃぐちゃで。こんな惨めな姿、マルシアルもどう思うか分からない。彼の方を見るのが怖くて、クレト様の胸に顔を埋めたままの私を、マルシアルはなおも引き剥がそうとした。
「リナリア、こっちを向いて」
「……いや……」
「リナリア」
「……はな……して」
「リナリア!」
聞いたことのないほど強い口調で名を呼ばれ、力の限り腕を引かれた。痛いくらいのその力に顔が歪む。マルシアルにこれほど乱暴にされたのは初めてだった。
無理やりに振り向かされると、濡れた私の顔と、掴んだ腕に赤い傷を見止めたマルシアルの方が、何故かもっと歪んだ顔をしていた。
「…………どうして」
何に対する、どうして、なのかは分からない。
だが、今はその口から何の言葉も聞きたくなくて、こんな惨めな自分を見てほしくもなくて。
「…………見ない、で」
「リナ、」
「見ないでって……言ってるでしょうっ。見ないでよ!」
怒鳴るようにそう言い、マルシアルの腕を振りほどいた私を、彼はとても驚いたようにーーーそして、とても傷ついたような瞳で見ていた。