俺の唯一のひと
「有り得ない、本当に有り得ないわ」
王宮の一室。エルシーリア様の控室に通じるその部屋で、夜会に向けてエルシーリア様の仕度が終わるのを待ちつつ、俺はぐるぐると落ち着きなく歩き回っていた。
他国からの来賓、しかも次期女王陛下のエスコートを任されたとあっては、どれだけ今すぐリナリアの元へ行きたいと思っていても断れるものではない。まったくもってやる気が出ないが、リナリアの目に触れるとあっては半端な格好で参加するわけにもいかず、いつものように抜かりなく支度は済ませてある。
リナリアはというと、面会どころか連絡すら禁じられたため、どんな様子で過ごしているのかも分からない。それがとても不安である。
リナリアをエスコートするという男には、エルシーリア様が到着した際に顔を合わせた。驚いたことに彼女は護衛を1人しか連れて来ておらず、だというのにその護衛をリナリアのエスコートに遣わしたのだ。自称並ぶものが居ないほどの魔女だという彼女には、余計な護衛は必要ないのだという。唯一認められて傍に侍る護衛、クレト・アバスカルと名乗るその男に、エルシーリア様は全幅の信頼寄せているようだ。
『我が君の命とあらば、必ず遂行いたします。リナリア様には何一つ危害を加えさせません』
そう言って片膝をついた男を渋々認めたのは、彼の瞳が次期女王陛下に心酔していることを物語っていたからである。あれは忠義を超えた何かがある、と言ってもおかしくないくらいの熱だ。無表情で必要以上に喋らない男だったが、瞳は何より雄弁である。彼女の命を違えることはないだろう。
そうはいっても、いざとなればリナリアを放ってエルシーリア様を取るに違いない輩だ。完全に信頼したわけではない。
そんな男に、リナリアを任せねばならないなんて―――
「有り得ない、本当に有り得ないわ」
「何が有り得ないのじゃ?」
続きの間から姿を現したのは、勿論エルシーリア様である。
有り得ないのは、今夜俺がエスコートをしなければいけない相手が貴女ということだ―――という気持ちを飲み込み、にこりと笑った。
「なんでもございませんよ」
「ふむ。その言葉遣いは止めよと申しておるのに」
ゆったりとこちらに向かってくるエルシーリア様が纏うドレスは、髪より深い紅。体に沿うデザインのそれを見事に着こなし、結い上げた頭には大輪の白い薔薇が存在を主張していた。どちらかといえば淡い色使いで、たっぷりと膨らんだドレスが主流なこの国においては些か異色だが、彼女に似合うのはこの手のものだろう。自分自身に1番似合うものを正しく理解し、服を従わせることのできる美貌。多くの男が彼女のその魅力を前に頭を垂れてきたに違いない。
美貌を誇示するわけではなく、褒められるのが当たり前と言わんばかりの彼女を前にしても、俺の口は閉ざされたままだ。それを見て、エルシーリア様は楽しげに笑った。
「そうじゃ、それで良い。その瞳が面白い」
「何も面白いことなどございませんよ」
「ついでにその言葉遣いも止めろと申しておるのに。おなご言葉はどうした」
「どうした、と申されましても、これが私ですので」
取り合わない俺を前に、エルシーリア様は顎に手をやって少し思案する様子を見せた。
「では、こうしようぞ。そなたがおなご言葉に戻して敬語もなくしたならば、わらわの滞在期間中に1日、リナリア嬢と過ごす日を設けてやろう。それでどうじゃ?」
その提案に、ぴくりと反応する。
「…………二言はありませんね?」
「わらわに二言があるよりも、飛竜が地に落ちる方がまだ可能性があるぞ」
得意げに言われたその例えはよく分からないが、少なくともエルシーリア様が約束を違えることはなさそうだ。それならば、リナリアと過ごせる時間と比べられるものなどない。観念して息を吐いた。
「はあ、これでいいんでしょう、これで」
「おお、それじゃそれじゃ。良いぞ」
「ただし、公の場では無理よ。あと約束は必ず守ってちょうだい」
任せておけ、とエルシーリア様がころころと笑った。
ソファに腰掛けた彼女がふわりと手を動かすと、部屋の隅に用意しておいたティーセットと茶菓子が宙に浮いた。滑らかに滑空し、テーブルの上へと辿り着く。また手をかざし、紅茶を注ぎ始めた。
「お茶なら侍女を呼んだのに」
「良い。このくらい造作ない」
砂糖もミルクも、1人でにカップへと飛び込んでいく。成る程、これならば侍女を呼ぶ方が余程手間だろう。
「便利なものね、魔法って」
「そうか、魔法をあまり見たことがないと申していたな」
「あまりないもなにも、魔法具をいれたとしてもこれで数回目よ」
「ふむ。この辺りの国に対しては魔法具の流通を厳しく制限しておるしのう。ならば仕方もないか」
魔法具とは、その名の通り魔法の使える道具だ。魔法が込められているため誰でも使用できるが、作成するにはそれ相応の魔力が必要となるため、この国周辺では作成できず、その価値は計り知れない。
東方の国、それこそラセナ国を中心とした土地では、魔法具がそれなりに出回っているというが、ここらへ流れ着くのは物を少し温めたり、逆に少し冷やしたりといった、ごく簡単な魔法が込められているものばかりだ。それすらも厳しく統制されて、私的な流通は禁じられている。莫大な収益が見込める魔法具の取引は、国家事業として随分前から試みられているが、状況はあまり芳しくなかった。
輸出国となる東方の国々が、輸出先の西方の国々よりも軍事力が弱いというのが、その理由の1つである。平和とは言い難いこの世界でいざ戦争となった時、使い方次第では強大な力となり得るその技術を、中々外へ流したがらないのだ。
「魔法は確かに便利だが、万人が使用できる魔法具は時として災いを招く。無論生活を豊かにする面もあるが、同じだけリスクを背負わねばならぬしな」
「確かにね。エルシーリア様がこの距離をひとっ飛びしてくるっていうのも、便利だとは思うけど、恐ろしくも思うわ」
率直にそう呟いた俺を見て、エルシーリア様は微笑みを浮かべた。
「その気持ちが皆にあれば、流通ももっと進むのだがのう」
*****
「マルシアル、その仏頂面をどうにかしろ」
「無理ですね」
会場へと続く扉の前で、俺の顔を一目見たベネディクトが渋い顔をした。余程酷い表情をしているのだろうが、笑顔になれるわけもない。この扉の向こうでリナリアが他の男の手を取っているかと思うと腸が煮えくり返る。これはどうにもならない、と判断したのか、ベネディクトはため息をついて前を向いた。
俺たちの目の前に立つのは、第二王子エツィオ殿下とそのお相手。第一王子ベネディクトと比べるまでもなく、このエツィオ殿下はどうしようもない王子として有名だった。女好きで豪遊好き、王族というものを履き違えているこの男は、ニヤニヤと後ろを振り返ってはエルシーリア様を上から下まで眺めていた。女好きにはたまらない美女だろう。無礼ととられても仕方がないこの男の視線を一切気にしないエルシーリア様は、やはり流石と言える。
―――こういう男がいるから、俺の目の届かないところにリナリアを置いておきたくないのだ。
ますます眉間に皺が寄った。
そうこうしてる間に扉が開かれ、国王陛下から順に入場していく。すでにそこそこ賑わっていた会場も、今夜の主役の登場とあって静まり返っていった。
ぱっくりと割れた人混みの先で、俺は瞬時にリナリアを見つけた。他の男の手を取っているのが不快だが、それでも2日ぶりに目にするリナリアである。笑顔にならないわけがない。だが、思わずリナリアの元へ向かおうとする俺の腕を取ったエルシーリア様が、俺の動きを制した。
「何処へ行くのじゃ。勝手は許さぬ」
身を寄せられ、周囲から黄色い声が上がる。舌打ちしそうになるのをどうにか堪え、腕を離そうと試みた。
「これは失礼致しました。ですがエルシーリア様、それほど近づいていては歩きづらいですよ?」
「問題ない。そなたが何処へも行かぬというなら、もう少し離れてもよいがの?」
にこにこと笑いつつ、エルシーリア様は少しも俺から離れる気がない。独占欲とも取れるその言葉に、周囲はさらに色めきだった。ああ、鬱陶しい。
ほんの少し目を離した隙に、リナリアとクレト・アバスカルの姿は人混みに紛れてしまった。慌てて探しに行こうにも、国王陛下の挨拶が始まってしまっては動くわけにも行かない。ましてや今夜の主役のエスコートとあっては、次々挨拶に来る貴族たちの相手もせねばならない。
リナリアではないが、本当に忌々しい!
国王陛下の挨拶もそこそこに切り上げられ、ダンスが始まる。まず主役が一曲踊らねば、他の参加者が踊ることができないからだ。俺とエルシーリア様は、王子殿下方に続いて会場の中心へと滑りだした。
腰に手を当て、いつもよりも少し高い位置にある相手の顔を見下ろす。触れた体の感触も、香りも、これじゃない。
俺の唯一は、これじゃない。
「そんなに難しい顔をするでない。皆が見ておるぞ」
ステップを踏みながら、エルシーリア様が囁く。言われて初めて、眉間に皺が寄っていたことに気づいた。
「この音楽でも気に入らぬか? 確か曲名は『薔薇の雫』。そなたは薔薇を好むと聞いたがのう」
エルシーリア様なりに、俺の情報を仕入れているのだろう。確かに薔薇のものはよく好む。この曲もリナリアと何度となく踊ってきた。新種の開発だって行うし、エルシーリア様の髪を彩る薔薇の種類だって一目で分かる程には詳しい。
だが、『俺が』薔薇を好むわけではないのだ。世間には間違って伝わっているこの情報が、エルシーリア様にもそのまま伝わったのだろう。
「なんでも、最近新しい薔薇を作ったと聞いたぞ。月光のように輝く純白の薔薇と聞いたが、薔薇がシンボルのラセナから来たわらわにプレゼントしてくれる気はなかったのかのう?」
「―――申し訳ないのですが」
エルシーリア様の言葉を受け、うっすらと笑みが浮かんだ。
「私の薔薇は、唯一の人にしか捧げるつもりはありません」
薔薇が好きなのは、リナリア。
薔薇の開発だって、リナリアのため。
純白の薔薇は、リナリアの白銀の髪を模して作成したのだ。特別な日に、リナリアに贈るために。そのためだけに。
―――それをなぜ、違う女性に贈らねばならない?
俺の心を読んだのか、面白いと言ってころころと笑うエルシーリア様と踊りながら、周囲をちらちらと見回す。すぐに見つけたリナリアは人垣の後ろのほうでぼんやりとこちらをみていた。隣には、もちろんあの男。
ああ、どうして。
俺は今ここで、彼女の手を取っていないのだろう。
その手を掴むのは、その腰に触れるのは、身を寄せるのは―――生涯で唯一、俺だけで良いというのに。