私の胸を痛めるもの
お母様の爆弾発言を受けた、その翌日。我が家に急な夜会の誘いが届いた。いつになく突然なこの誘いは、遥か遠く、ラセナ国次期女王陛下が我が国を訪問されたことを歓迎して、という名目のものらしい。
高貴な方の外遊ともなれば、随分前から予定が組まれていたっておかしくない。だが、我が家には事前に何の知らせも入っていなかった。マルシアルだって何も言っていなかったということは、公爵家の彼ですら知らなかったのだろう。
突然のことを訝しく思ったが、それよりもまず驚いた。だが私以上に驚き慌てたのは、我が家の家人たちだった。
「リナリア様、ドレスはこちらの薄紅色にいたしますか? それともお気に入りの青色にいたしますか?」
「髪型はいかがいたしましょう?」
「アクセサリーのご希望はございますか?」
いつになく急いで準備をしなければならないとあって、大慌てで次から次へと尋ねてくる侍女たち。朝から彼女たちの相手をしている私は、とっくの昔に疲れ果てていた。
「貴女たち、どれだけ試せば気が済むの? ドレスも髪型もアクセサリーも、なんだっていいわ。どうせいつもマルシアルがすべて変えてしまうじゃない」
椅子に腰掛けたままの私の返答は、どうしてもなげやりなものになってしまう。だがそれも仕方ないだろう。
なぜなら、ここにも必ず奴の手が加えられるため、考えても無駄だからだ。今まで出席した夜会はすべてマルシアルのエスコートだったが、決まって約束よりも随分と早い時間に現れ、私のドレスも靴も髪型も何から何まで細かく指示を出すのだ。
着ていたドレスを「今日はそれじゃないわ」と引っペがされたことも数知れず。最近では自分でコーディネートすることを諦めていた。
もちろんこのことを侍女たちも知っているはずなのに、何を今回はこれほど慌てているのだろうか。
疑問に思う私の前で、走り回っていた侍女の1人、ブルーナが動きを止め、怪訝そうに口を開いた。
「お嬢様、何をおっしゃっているのですか。今回の夜会はマルシアル様からエスコートのお誘いがきておりませんよ」
その言葉に、今度は私の動きがとまった。
―――マルシアルからのエスコートの誘いが、きていない?
「は?」
私の耳がおかしくなったのか。今、聞いたことのない言葉が聞こえた。
呆然とする私の前で、ブルーナは小さくため息をつく。仕える主に対して不遜と取られても仕方がない動作だが、誰も気に留めないのは、ブルーナが侍女の中で1番の古参にして、私の乳母子だからだ。姉妹のような、や、友達のような、といったら彼女はいつも怒るのだが、私にとっては数少ない気心のしれた人である。友達とは言わせてもらえないけれど。泣ける。
「エスコートは別の方がいらっしゃるそうですよ。まったく、お嬢様はマルシアル様に何をなさったのです?」
「なっ、何もしてないわよ!」
断じて何もしていない!
…………筈、だ。
昨日の朝のやり取りは日常茶飯事のもので、別段変わったことではないはずだ。マルシアルは仕事が忙しくなるといっていたし、きっとそれが原因なのだろう。うん、そうに違いない。
―――でも、もしかして。
私が、何かをしてしまったのだろうか。
「動揺されるのも分かりますけれど、とりあえず、お化粧を直させていただきます」
ブルーナはまたも小さく息をつくと、ぐるぐると考え始めた私を止めた。順番に過去の行動を遡っていた私の意識も、その声で現在に戻ってくる。
今日はこの後何も予定がないはずなのに化粧を直すとは、誰か訪問してきたのだろうか。私の頭の中なぞお見通しのブルーナが、私を椅子から立ち上がらせながら、言葉を続けた。
「これから、明日お嬢様をエスコートしてくださる方がいらっしゃるそうです」
*****
化粧を直してもらい、衣服をさっと整えた私は、客間へと足を向けた。お相手はちょうど到着したらしい。さて、エスコート相手とやらは一体どんな人なのだろう。皆目検討もつかない。
マルシアル以外の男性と、上手く付き合えて、踊ることができるのだろうか。彼以外とほとんど関わったことのない私は、見知らぬ男性相手に不安しか感じない。何か粗相を使しようものなら、我がバルデート家はおろか、婚約相手のサルディネロ家にも被害が及ぶかも知れなかった。別に、あの男に迷惑をかけるのが嫌だとか、そういうわけではないけれど。あとで散々に貶されるのは避けたい、それだけである。うん、それだけそれだけ。
そういうわけで、エスコート役が優しい男性であることを願うばかりである。
ドキドキしながら客間のドアを開けると、先に部屋に通されていた男性がソファから素早く立ち上がり、私に向けて腰を折った。
「お初にお目にかかります、リナリア・バルデート様。突然のご訪問となったこと、どうかご容赦ください」
「いえ、そんな。どうぞお顔をお上げになってくださいませ」
慌てて告げると、男性がすっと上体を起こした。
私と絡み合った瞳の色は、漆黒。濡れ羽色の髪は短めに切りそろえられ、男性の端正な顔によく似合っていた。マルシアルとはまた違った雰囲気の、異国情緒を感じさせる美形である。
「改めまして。明日、リナリア様のエスコートを任されました、クレト・アバスカルと申します。どうぞ宜しくお願いします」
「リナリア・バルデートと申します。こちらこそ、宜しくお願いいたします」
クレト・アバスカルと名乗った男性の丁寧な言葉遣いにホッとしながら、形式通りに一礼をする。彼からは乱暴な印象も受けないし、礼儀も正しい。明日エスコートされるだけの付き合いなら、どうにか乗り越えられそうだ。
安堵しながら微笑みかける私を、クレト様はじっと見ているだけだった。彼にソファに座るよう促し、自分も反対側に腰を下ろした。私についてきた侍女と侍従が1人ずつ、背後に控える。
マルシアルならば2人きりにされるけれど、本来未婚の男女―――クレト様が未婚かどうかは分からないが、私のエスコートを任されるくらいなのだから、きっと未婚だろう―――が2人きりになるものではない。必ず他者が傍に控えるということはもちろん知っていたけれど、訪問してくる男性がマルシアルくらいしかいなかった私には、これすら新鮮だった。
クレト様と私、それぞれの前に紅茶の注がれたティーカップが置かれる。手に取り、口に運ぶ私を見て、クレト様もカップに手を伸ばした。伸ばされたその右手をなんとなしに見て、思わず目を見張る。彼の右手首には、複雑な紋様が刻まれていたのだ。
私の視線に気づいたクレト様は、ああ、と言って自分の右手を見ると、伸ばしていた手を引っ込めた。
「失礼いたしました」
「い、いえ、私こそ不躾に見つめるなど、無礼をお許しくださいませ」
「お気になさらず」
淡々と述べ、クレト様は反対の手でカップを持ち上げて口に運んだ。本当に何も気にしていないようだ。
この国の人々は、自らの体に刻印を刻まない。一生消えない印を刻むことは、一昔前には罪人の証として行われていた処罰でもあった。そんな刻印があって、隠さずにいられる者など、この国には存在しないだろう。
「失礼ながら……クレト様は異国の方なのでしょうか?」
「はい。ラセナから参りました」
これもまた、淡々と答える彼。その返答に私は思わず驚きの声を上げそうになったが、なんとか押し留めた。
社交界で見かけたこともないし、周辺諸国の方かと思いきや、まさかラセナの民だとは。つまり今回、次期女王陛下についてきた臣下の中の1人、ということだろう。
「ラセナ国の方でしたのね」
「はい。ラセナでは近衛の仕事を任されています」
「まあ、そうなのですか」
言われ、しげしげと彼を見つめる。よく知った若い男性、というのがマルシアルくらいしかいないが、奴と比較すると確かに一回りがっしりとした体格だ。普段から武芸に携わっているとよく分かる。
どれだけこちらが観察しても気にも止めない様子なので、淑女にあるまじきことではあるが容赦なく見つめると、着ている衣服も細部まで作りこまれたものであると分かった。この国の騎士服に少し似ているが、左肩から流れるマントのような布は紺地に細かな金の縁取りがしてあり、裏地にはラセナのシンボルとも言える薔薇の紋様が垣間見える。決して安くはないだろうし、一平卒が着ている意匠でもないだろう。これは大分上の役職とみた。
ラセナ国の民で、今回次期女王陛下についてやってきて、上位職の近衛で―――とまで情報が揃ったところで、生まれてきたのは新しい疑問。
「なぜ、そのような方が私のエスコートに?」
本来ならば、次期女王陛下の傍に控えるなり、護衛として重宝されるのではないか。
思わず尋ねた私に、クレト様は特に何の感情もこもっていない瞳を向けた。
「我が君のご命令ですので」
「次期女王陛下の?」
「はい。我が君がとある方のエスコートをどうしてもと強く希望されましたので、その代わりとして私がこちらに派遣されました」
またしてもクレト様は淡々と述べたが、その言葉に私の行動は停止した。
なんだか、嫌な予感しかしない。
「もしかして、それは…………」
「お察しの通りです。我が君は明日、貴女様の婚約者である、マルシアル・サルディネロ様のエスコートを望まれました」
*****
私のエスコートをしないということは、他の女性をエスコートするということも当然あり得ることなのに。どうして、気づかなかったのだろう。
王城へと向かう馬車の中、ぼんやりとそんなことを考える。向かいにはクレト様が座っていたが、何か話すこともなく、馬車が緩やかに道を進む音だけが響いていた。
彼は元から口数の少ない人なのかも知れない。言葉を発しない私を気にした様子もなく、ましてや沈黙を苦痛と思っているような様子もなく、特に会話のないまま王城へと辿り着いた。
門をくぐり、闇夜に眩しく輝く王城の傍に馬車が停止すると、緩やかにドアが開けられた。クレト様は馬車から先に降りて行き、私に手を差し出した。その手を掴み、私もステップを降りる。
そういえば、マルシアル以外の異性とこうして手を触れ合わせるなんて、いつ以来だろうか。今夜はクレト様も手袋をはめ、その紋様を隠しているので、素手で触れ合っているわけでもない。それでも、いつもと違う手だということは、何故だがすごく意識された。
『お手をどうぞ、レディ?』
人前ということもあって、女言葉を封印したマルシアルはいつもそういって柔らかく笑いながら私の手を取る。
いつもの女言葉と意地の悪さはどこへ行った! この詐欺師!
なんて、頭の中でブツブツ言いながらも、私が作り笑いをするのもお決まりで。そんな2人の、いつもの夜会の始まり。
「リナリア様?」
聞き慣れない声で名を呼ばれ、ハッとする。手を取ったまま動き出さない私を、クレト様が訝しげに見ていた。何でもないという意を込めて頭を振ると、ようやく足を動かす。
幾度となく歩いた道のはずなのに、今夜はなんだか足が重かった。
会場は、すでにそこそこの盛り上がりを見せていた。入場した私たちを目に止めた紳士淑女は、皆ギョッとしたように目を開き、こそこそと言葉を交わしている。
いつもサルディネロ公爵令息にエスコートされていた婚約者が、今夜は違う相手を伴っているのだ。破談か何事か、と皆が囁き合っている。想像はしていたけれど、視線が痛い。
居心地が悪そうにしている私とは違って、クレト様はそんな視線を一切気にしていなかった。この色男は一体誰かと、令嬢達からの熱い視線が集まっているのも何のその。一瞥もくれず、相変わらず真顔のまま会場を見回していた。
ちなみに、エスコートということで私の手を取っているものの、その私にすら視線を向けない。私のことを手荷物か何かと思っているんじゃないか、というほどだ。ここまでくるとすごい。
そんな彼の視線が、ピタリと一箇所で止まり、そこから動かなくなった。どうしたのだろう、と私もそこへ視線をやる。ざわざわとしていた会場が静まり返っていき、私達の視線の先で、人混みが割れた。
そこから姿を現したのは、国王陛下と王妃殿下、王太子様方とそのお相手、そして―――マルシアルと、彼にエスコートされる美女だった。
「我が君」
隣のクレト様が小さく呟く。初めて目にするラセナの次期女王陛下は、息を呑むほどの美女だった。真紅の髪を見事に結い上げ、髪よりも深い紅色のドレスはぴたりと体に沿うラインで、彼女の美しい肢体を際立たせている。
国1番の美男子と、傾国と呼ばれるにふさわしい美女の組み合わせは、さながら一枚の絵画のよう。マルシアルの手が次期女王陛下の手を握っているのを見て、何故か呼吸ができなくなった。
離れた場所から見ていたのに、すぐに私に気づいたのか、マルシアルがこちらを向く。ふわりと余所行きの顔で微笑み、こちらに来ようとするのを、次期女王陛下が彼の腕を引っ張って止めた。密着した彼らに、周囲の令嬢が黄色い声を上げる。
婚約者であるのに彼の隣に居ない私に対し、不躾な視線を向けてくる者もいた。余程お似合いだとか、いつもよりも楽しそうだとか、わざと聞こえるように言い始めた者もいた。
けれど、そんな視線より言葉より、マルシアルが次期女王陛下に向けた表情の方が、私の胸を締め付けた。腕に絡む次期女王陛下を離そうとして、奴が一瞬だけ見せた、眉を寄せたあの表情。
余所行きの顔じゃない。
あれは、夜会でなんて見せたことがない、いつものマルシアルの顔。
ずきん、と胸が痛む。
どうして。どうして、こんなに痛むの。
こんな痛み―――私は今まで、知らなかった。




