俺に命令する男
起き抜けの、とろんとした無防備な素顔。
瞳をうるませ、顔を真っ赤にして怒る様。
抱きしめた時の馴染みある香りと、その柔らかさ。
そして何より去り際の、困惑と戸惑い、本人も無自覚の寂しさを滲ませた視線。
その全てが可愛くて、可愛くて可愛くて、可愛くてーーー。
「ああ可愛い。もうたまんないわぁ」
「俺はお前が辛抱ならん」
心の中の言葉が口に出ていたらしき俺を一瞥し、この部屋の主が深い深いため息をついた。
ここは、王宮内にある第一王子の執務室。この部屋の主とはつまり、第一王子ベネディクトのことを指す。ソファに身を沈めてすっかり寛いでいる俺とは違い、ベネディクトは口を動かしながらも次々と書類を捲っていた。相変わらず仕事熱心なことである。
リナリアの話ばかりする俺に、ベネディクトは先程から苛立ちを募らせているようだが、彼よりも苛々しているのは間違いなく俺である。
「なんで可愛い可愛いリナリアと離れて、こんなところで野郎と一緒にいなきゃいけないのかしらね」
「その言葉遣いはやめろ気色悪い」
「い・や」
「リナリア嬢はいないのだから普通に話せばいいだろう」
「い・や」
ベネディクトはまたもため息をついた。
彼は、俺の女言葉が始まった理由を知っている。確かにリナリアがいない場で女言葉を使う必要はないが、すっかり板についていることもあり、親しい者と話すときはついつい女言葉が出てしまうことが多い。
そして何より、嫌がるこいつが面白い。
本来ならば、王族と臣下として主従の関係にあるわけだが、俺とベネディクト2人きりの時はそうでもなくなる。もちろん俺がベネディクトの臣下であることには変わりないが、こうして互いに敬語を使うことなく気楽な会話を楽しんでいた。
というのも、俺の母が王妹であるため、ベネディクトとは従兄弟にあたり、兄弟のようにして育ったからだ。俺のひとつ下のこの王子様は、幼い頃から馬鹿がつくほど真面目で不器用で頑固者で、それはそれはからかい甲斐があった。
「あんたも早いとこ婚約者の1人や2人でも見つけてきなさい。そうしたら私の気持ちも分かるはずよ」
「婚約者は1人で十分だし、いたとしてもお前の気持ちは到底理解できないと思うがな。お前は異常だ」
「何よ。婚約者が可愛くて仕方なくて、すべて囲ってしまいたくて、何なら自分しか頼れないような場所に仕舞い込んでどろどろに甘やかしたいと思うこの気持ちの、どこが異常だっていうの」
「それを異常と言わずになんと言うのだ!!!」
「愛情よ、愛情」
「愛情の度が過ぎるわ!」
ベネディクトが机を叩いて立ち上がった。額に手を当て、大きく頭を振る。深い深いため息をついた。
思わず口角が上がる。リナリアに対してこう思っていることは事実だが、何も誰彼なく言いふらしているわけじゃない。ベネディクトが真面目に返してくると分かっているから、からかい半分に口にしただけだ。本当、この男は面白い。
「……もう良い。埒が明かない。本題に移るぞ」
俺の目の前のソファまでやってきて腰を下ろし、ベネディクトが口を開いた。
そう、何も俺は暇で遊びに来ているわけではない。目の前の男に呼び出されたのだ。リナリアに仕事が忙しくなると伝えたのも、「これから仕事が立て込むことになる」とベネディクトに言われていたからだ。
普段の俺は父と共に領地経営に携わることを主な生業としているが、たまにこうしてベネディクトの相談に乗ったり、頼まれごとを聞いたりもしている。今回もその類だろう。
「ラセナ国のことは知っているな?」
「まあ、それはもちろん」
ベネディクトの口から出てきたのは、思いもよらぬ国名だった。
ラセナ国とは、我がディレード王国の遥か東方に位置する小さな国である。大陸で唯一『女性のみが王位を継ぐことができる国』として、その名を知らぬ者はない。
だが、あまりにも距離が離れているため、二国間では交易や交流が殆ど無いのが現状だ。
「ラセナの次期女王陛下には、まだ王配が定まっていない。それは知っているか?」
「まあね。それがどうしたっていうのよ」
「それが関係大ありなんだ。そろそろ結婚を、と言われた次期女王陛下は、なんと自ら各国を巡って婿を探しておられてな。そしてとうとう、明日この国にいらっしゃるらしい」
「は?」
何と言った。
明日、この国にいらっしゃる?
「待って待って。いや、あまりにも急でしょう。次期女王陛下よ? 自分で婿探ししているだけでも驚くっていうのに、正式な遣いもなしに突然他国へやってくるなんて、一体どんな女よ」
あまりにも突然の話に、眉間に皺が寄る。普通、一国の後継者が他国を訪れるならば、事前に使者を寄越して伺いをたてる。護衛も考えねばならないし、饗しもせねばならない。外交に関わる問題として、前々から準備がされるはずだ。
それが突然、明日だと?
「昨日、この書状だけが届けられてな。その使者自身もどこから現れたのか、城の前に来るまで何の情報も伝わってこなかった。だが、この書状は間違いなくラセナのものだ」
ベネディクトがひらりとかざした書状には、薔薇の巻き付いた王冠という、ラセナのシンボルが捺されている。その横には現女王陛下の名前が署名されていた。
突然現れた使者は怪しいが、この書状を出されては偽物と切り捨てることもできないだろう。
「それは分かったわ。けど、次期女王陛下の外遊となれば護衛もそこそこの人数でしょう。そんな大人数が近くまで来ているってのに、通過した周辺国からなんの先触れもなかったっていうの?」
「いや、まあ……うむ」
「うむじゃないわよ。ちょっとベネディクト、あんた周辺国との関係はきちんと友好的にしてるんでしょうねぇ? そんな情報も伝わってこないなんて、外交関係も諜報員も洗い直したほうがいいんじゃないの?」
「うむ……」
自分でもまずいと思っているのだろう、攻め立てる俺を前に、ベネディクトは口を引き結んで難しい顔をしている。
そこに突然、高らかな笑い声が部屋に響いた。
「なんと、なんと、面白いおのこじゃのう。いや、おなごか?」
響き渡った妙齢の女性の声に、俺とベネディクトは互いに顔を見合わせた。腰の剣に手をやり、周囲を見回す。第一王子の執務室に他者が侵入するなど、あってはならない。扉の外の護衛達は何をしているんだと内心毒づいた。
「ここじゃ、ここ」
声のする方へ顔を向けると、そこには鏡が1つ。なんとそこに、女性の顔が映しだされていたのだ。
燃えるような真紅の髪を豊かに垂らし、同じく真っ赤な唇は美しい弧を描いている。妖艶と呼ぶに相応しい美女が、至極楽しそうにこちらを見ていた。
鏡に姿を現すなど、常人のなせる技ではない。魔女か、と思わず舌打ちした。厄介な闖入者だ。
「誰だ」
ベネディクトが鋭く問う。
女性はまたもや高らかに笑った。
「わらわはラセナの次期女王、エルシーリア・ファリー・ラセナ。驚かせてすまないのう。挨拶でもと思って覗いてみたら、大層面白い話をしておったのでの、しばらく見物させてもらったのじゃ」
思いもよらぬ名に、ベネディクトは目を見開いた。
「次期女王陛下、と?」
「うむ。明日から世話になるぞ」
女性は楽しそうに言葉を続けるが、簡単に信じられる話ではない。警戒を解かない俺達のことは想定の範囲内だったようで、手に持ったものをこちらに見えるように鏡に近づけてきた。
「ほれ、これでどうじゃ?」
こちらに向けられたのは、薔薇の巻き付いた王冠という、ラセナのシンボルが彫られた金印。先ほどベネディクトが手にしていた書状にあったものと全く同じ印を目にしては、すぐに言葉を次げなかった。
慎重に、ベネディクトが言葉を発した。
「本当に、ラセナの次期女王陛下で?」
「先程からそう申しておるじゃろう。エルシーリアと呼んで良いぞ」
そう曰う鏡の向こうの女性は確かに威厳がある。常日頃人を従えていなければ、この雰囲気は出せないだろう。
「では、エルシーリア様。貴方は魔女なのですか?」
「なんじゃ、その情報はここまで届いておらなんだか? わらわに魔法で勝てるのは、お師匠ぐらいのものぞ」
エルシーリア様はころころと笑う。
この辺りの国では、魔法はほとんど馴染みがない。国史上に、数百年に一度、放浪の魔女が現れたという記述が残されているくらいだ。東方では稀に魔女が生まれるらしいが、公の場には出てこないため、多くの国では伝承であると思われていた。
その、大層珍しい魔女が、目の前のこの次期女王陛下なのか。簡単に信じられる話でもないが、こうして鏡に姿を現されては、信じないわけにもいかなかった。
「そこなおのこ」
エルシーリア様の視線が、ベネディクトからこちらへと移った。おのこ、とは俺のことだろう。
「あまりこの王子を責めるでない。わらわの情報が伝わってこなんだのも無理はないのじゃ。周辺国など通過しておらんからの」
先程の話を聞かれていたのだろう。エルシーリア様には笑顔を向けたが、内心は苦々しい思いでいっぱいだ。
誰もいないと思い込み、数々の暴言を口にしていたのだから。それもすべて筒抜けというわけだ。
「今、わらわはまだラセナにおるのじゃ。明日になったら、そちらにひとっ飛びするからの」
「ひ、ひとっ飛び……ですか……」
ベネディクトが頬を引きつらせている。できるわけがない、と言い切れないのは、エルシーリア様が魔女だと言うからだ。魔法とはそんなことまでできるものなのか。
驚く俺達の反応は、彼女を満足させたようだ。楽しくてたまらないというように笑っている。笑いが収まったところで、口を開いた。
「ところで王子、わらわの歓迎会は催してくれるのじゃろう?」
「は。明後日にでもとは考えておりますが」
「では、そのときのエスコートは、このおのこ決めたぞ」
そう言い、エルシーリア様は俺を指差した。
待て、何故俺だ。
動揺を抑え、できうる限り申し訳無さそうに見えるよう、眉を下げた。
「大変光栄な申し出ですが、この国には他にも王子や、素晴らしい男性がおられます。次期女王陛下には余程そちらの方が相応しいお相手かと思われますが」
ベネディクトが気に入らなくても、第二王子だっているし、未婚の上位貴族だって沢山いる。何も俺ではなくとも良いはずだった。
だが俺の言葉に、エルシーリア様は眉をしかめた。
「なんじゃ、その言葉遣いと顔は。先ほどのおなご言葉よりよほど気持ちが悪いぞ」
ぴしり、と顔が固まる。
隣のベネディクトは堪らず吹き出した。
「他の男などどうでも良い。わらわは、おなごのようなおのこのお主に興味を持ったのじゃ。よいな?」
良いわけあるか。
思いつつも、そう言われては断れるわけもなかった。黙って頭を下げ、肯定の意を示す。エルシーリア様はそれで満足したのか、楽しげに言葉を続けた。
「では、また明日。よろしくたのむぞ」
またも高らかに笑う。徐々に鏡の中の姿がぼやけていき、最後は霞のように霧散した。現れたのも突然だったが、去るのもあっさりとしたものだ。
残されたベネディクトと俺の間に、沈黙が降りる。
「…………冗談じゃないわよ」
先に口を開いたのは、俺だった。
「リナリアがいるってのに、他の女をエスコートですって? 断固拒否よ断固拒否。あの女、会話を聞いてたならリナリアのことも聞いてたでしょうに、何のつもりよ」
「マルシアル、言葉が過ぎるぞ。また聞かれていたらどうする」
怒りを顕に罵る俺に、ベネディクトは小さくため息をついた。
「どれだけお前が渋ろうとも、断れるものではない。……エスコートだけではなく、エルシーリア様が滞在なさる間、お前に相手をしてもらおうと思う」
「はあ!? 何ふざけたこと言ってんのよ!」
「ふざけてなどいない。エルシーリア様が指名されなくとも、俺はお前に頼むつもりだった。だから今日、こうしてお前を呼んだのだ」
ベネディクトの言葉に、一気に頭に血が上る。怒りも顕にベネディクトに向き直った俺を、奴は冷静な瞳で見据えてきた。
「どういうつもりだ」
低く、問いただす。
女言葉ではなく、男言葉になった俺を前にしても、ベネディクトは少しも怯まなかった。
「この国には、お前よりも身分の高い女性がいなかった。だからお前は、どれほど女性に言い寄られても、リナリア嬢を選ぶことができたんだ。だが、今回は違う」
ベネディクトの言うことはよく分かる。
だが、分かるからと言って納得できるかと言われると、それは違った。
「……その間、リナリアはどうする」
「リナリア嬢には誰か別のエスコート役を用意しよう」
「別のだと……!」
尚も言い募る俺の胸元を、ベネディクトが掴みあげた。
「これはいい機会だろう。お前は、彼女を囲いすぎだ」
俺が真剣なのと同じように、ベネディクトの瞳も真剣そのものだった。俺は胸元を掴まれたまま、睨みつける。
こいつが王子でなければ、今すぐ掴みかかって前言を撤回させてやるものを。
「良いか、命令だ。背くことは許さん」
きつく言い置くと、ベネディクトはようやく手を緩めた。