その日、私は
その日。私は自室でお母様と向き合っていた。基、尋問を受けていた。
話題といえば、もちろん―――奴のことである。
「それで、ルシーとは最近どうなのかしら?」
黙る私。小首をかしげながらこちらを見つめる母。
沈黙と視線に耐えかねて、とうとう目を逸らし、ドレスの裾をぐっと握った。そんな私を見て、お母様は深い息を吐いた。
「もう、リナリアったら」
「……うっ……」
「わたくし、言ったでしょう? 婚約者はルシーでなくともいいのよって。違うお相手は見つかったのかしら?」
見つかるわけなどない。そもそも探してすらいなかった。
マルシアル以外の婚約者なんて、考えることすらできなかったのだ。離れていても、近くにいても、結局考えるのは奴のことばかりである。本当に、忌々しいことに。
けれどそんなこと、この私が口になんてできるわけがなかった。ぐっと黙り続ける私の心中など、お母様は丸わかりのようだけれど。
「まったく、もう……。どうしてあなたは、ルシーでなくては嫌だという、その一言が言えないのかしらねぇ」
「マ、マルシアルじゃなきゃ嫌だなんて……」
「あら、そうでしょう?」
言われ、またも押し黙る。お母様は頬に手を添えて首を傾げると、困ったように眉を下げた。
「意地張りで天邪鬼な貴女が、文句を言いながらもずっと努力してきたのは、誰のためだったかしらねぇ?」
お母様の言葉が胸に刺さる。
マナーもダンスも教養も、貴族令嬢として最低限のレベルを超えるように。誰にも負けないように。泣いて泣いて、ぐしゃぐしゃになりながらも幼い頃から走り続けてきたのは、誰のためなのか。
そう考えて、真っ先に奴の顔が浮かんできて―――それでも自分の気持ちが分からないほど、鈍いわけではない。ここ数週間の出来事で、気づいてしまった。認めてしまった。恐らくはずっとずっと前から、私が抱いていた気持ちに。
あれだけ散々に言っておいて、未だに素直にすらなれなくて、そんな私自身を忌々しいとすら思うけれど。これからも私は、意地っ張りで、天邪鬼で、頑固なままだろうが、きっと同じように、この努力も続けていくのだろう。美しくもない、特別賢くもない、そんな私ができることを。
「誰のためか、なんて。嫌になるくらいーーー分かっているわ」
返事をし、ようやく目を見つめ返した私に、お母様もほっと頬を緩めた。仕方のない子ね、とその瞳が物語っている。
場の空気がようやく和らいだところで、不意に扉がノックされた。お母様が許可すると扉が開けられ、現れた執事が腰を折ってから口を開いた。
「奥様に来客でございます。サルディネロ公爵夫人がいらっしゃいました」
「あら、フロレンシアが?」
フロレンシア・サルディネロ公爵夫人。もちろん、マルシアルの実母である。
我が母とフロレンシア様はそれはそれは仲が良い。お母様は花が綻ぶように笑顔になると、さっと立ち上がって部屋を出て行った。喜びが全身で伝わってくるのがすごい。お母様の半分、いや、4分の1でもいいから、私にも喜びを素直に表す力が遺伝して欲しかった。妖精のようと評されるお母様に、私は外見も性格も似なかったのだ。どちらかというとお父様に似ているし、髪色などはそのまま受け継いでいる。
私とマルシアルと結婚したら、どんな子供が生まれるのだろうか。私に似て頑固で天邪鬼で、マルシアルに似て意地が悪かったら、とんでもないことになりそうーーーとまで考え、ハッとする。慌てて頭を振った。心なし、頬が熱くなっている気がする。
な、なにを考えているんだ私は。子供なんて。それ以前に結婚なんて。いや、婚約者なのだからこのまま行けばいつか結婚するのだけれど。
ーーーこのまま、行くのだろうか。マルシアルは、他の誰かを選んだりしないだろうか。
自分の気持ちを自覚したところで、今までの、そして最近のマルシアルへの態度を思い返して頭を抱えたくなる。マルシアルは私をどう思っているのだろうか。よくよく考えてみたら、1度も好きと言われたことはない。夜会やなんやと、公の場で他の令嬢と親しげに話している姿はいつものことだが、具体的に浮いた噂を聞いたことはないし……他の令嬢に走るほど嫌われてはいない、と思う。そう思いたい。
最大の懸念はエルシーリア様だけれど、ついこの間の、庭園の奥での出来事もあるし。あれはとても恥ずかしかった。思い返し、またも頬が熱くなる。手で抑えつつ、ソファーに深く腰掛けると、ぼうっと宙を見つめた。
「結婚、かぁ……」
「あら。やっとでわたくしの娘になってくれるのかしら?」
ぽつりと呟いた私に第三者からの返答があり、行動が止まる。慌てて姿勢を正して扉を見遣ると、美貌の女性が立っていた。
「フ、フロレンシア様!?」
にこり、と艶やかに微笑んで、フロレンシア様は室内へと入ってきた。マルシアルの赤毛は公爵譲りだが、それ以外はすべて公爵夫人譲りである。国1番の美男子を生んだ女性とはつまり、国1番の美女だ。まさに髪色違いの女性版マルシアルであるフロレンシア様は、御年いくつになられたのかがさっぱり分からないほど、いつまで経っても変わらない美しさをお持ちである。
そんなフロレンシア様を迎えにお母様が出て行ったばかりだが、フロレンシア様の傍にその姿はない。
「母と会いませんでしたか?」
「カルラがここにいると聞いてきたのだけれど。どこかですれ違ってしまったみたいね」
言いながら、フロレンシア様はさらに私に近づいてくる。幼い頃から慣れ親しんでいるとは言っても、近くにいらっしゃるとまだ少し緊張してしまう。フロレンシア様は元王族の気品に加えてこの美貌、更には婚約者の母にして未来の義母なのだ。少しも緊張しないというのが無理な話である。
お母様早くきて、と願う私の内心など知らず、フロレンシア様はとうとう目の前までやってくると、じっと私を見つめた。
「まあいいわ。先に目的を済ませてしまうから」
「目的、ですか?」
そう言ったフロレンシア様が、にっこりと笑う。マルシアルにそっくりの、簡単に人を惑わせてしまう妖艶な笑みだ。
「ごめんなさいね?」
なにが?
そう思ったのと同時に、フロレンシア様の姿が霞む。私の目の前で光が爆ぜ、何も見えないほど眩くなったかと思うと、意識が急激に遠のいていった。
*****
ぼんやりと目を開けると、瞳に映り込んできたのは暖色の光に照らされた灰色の壁だった。どこだ、此処。見知らぬ空間を眺めているうちに、意識もだんだんと浮上してくる。
ええっと、確か、自室にいたらフロレンシア様がいらっしゃったのだ。話していたら、急に目の前が真っ白になって―――で、本当に此処はどこ!?
ハッとし、慌てて体を動かしたが、どうやら椅子に縛り付けられているらしい。両手両足を拘束された状態では、椅子から立ち上がることもできなかった。
待って待って。何故私はこんなことに?
状況からして、何らかの方法で連れだされたとしか思えない上に、この扱いはとてもじゃないが穏やかではない。でも、直前まで一緒にいたのはフロレンシア様なのだ。
フロレンシア様が―――私を拉致?
だとしたら、どうして。何のために。ぐるぐると考えるも、一向に思考がまとまらない。焦りだけが募っていった。
声を出して助けを呼ぶ? けれど見回す限りここは窓もない上に、出入り口は前方にある鉄の扉のみだ。あの扉がどこに通じているかも分からないし、そもそも此処が何処かもわからない。声を上げたところで、助けてくれる誰かが現れるとは到底思えなかった。
そうこうしているうちに、コツコツと誰かが歩いてくる音が聞こえる。その音は扉の前で止まった。ガチャガチャと鍵を外す音がし、鉄の扉が開けられる。
そこから現れたのは、フロレンシア様ではなかった。
「気分はいかが?」
「…………クロエ様……?」
クロエ・ブランケル伯爵令嬢は私に笑顔を向け、一度振り返って扉を閉めると、その扉をきちんと施錠してからこちらに向かってきた。
フロレンシア様と一緒の時に連れだされて、現れたのはクロエ様。その繋がりを考え、ゾッとした。まさか、まさかまさか、2人は―――
「フロレンシア様には感謝してもしきれませんわ。こんなに簡単に貴女が連れ出せるなんて」
うっとり、クロエ様が呟く。その言葉で私は顔から血の気が引いた。やはり2人は、共犯、なのか。
クロエ様が私を恨むのは分かる。あれだけ露骨に嫌がらせをされていたのだ。危険を犯し、拉致という強行手段に出るとまでは考えが及ばなかったが。
恐ろしいのは、フロレンシア様だ。何故こうなったのか、考えても考えてもわからない。そんなに私は恨まれていたのだろうか。けれど、そんな理由も思い当たらない。マルシアルとの婚約を取りまとめたのもフロレンシア様だし、何かにつけて私に良くしてくださっていたのだ。それが、実は恨まれていただなんて、考えるだけでも胸が痛む。
しかし、そんなことをいつまで考えていても埒が明かない。とりあえず今できることをしなければ。考えることのできない頭など、意味がないのだ。
そうだろう、リナリア・バルデート。しっかりしろ!
自室で事が起きたのだから、私がいないと発覚するのも時間の問題だ。あれからどれだけ時間が経っているか分からないが、すぐに捜索がされるだろう。クロエ様がどんな思惑で私を拉致し、今後どうするつもりか知らないが、できる限り時間をもたせるべきなのは間違いない。
幸い、事が順調且つ用意に進んだことで、クロエ様は機嫌よく見えた。
「…………どうやって、私をここに連れて来たのですか」
そもそも、光が弾けて気を失い、気づいた時には別の場所にいるなど、この国の誰もできないことだ。それこそ、おとぎ話の中でしか聞いたことのない、魔法でも使わない限り。
引き出すのだ、情報を。できるだけ多くのものを。私がここから出られた時に、2度と同じことが起きないように。何らかの手が打てるように。
「うふふ、知りたいかしら? そうね、貴女に何を教えたところで、もう意味はないですし。特別に教えて差し上げてもよろしくてよ」
クロエ様の言い方にゾッとする。なんだ、その、私がこれからいなくなるみたいな言い方は。当たらないでと願っている、最悪の予想みたいではないか。
「魔法具をご存知?」
言いながら、クロエ様が私に向かって右手を差し出す。その手のひらには、薄いガラスの板のような物が乗せられていた。クロエ様が手を動かしても落ちないことから、乗せられている、より、張り付いている、の方が正しいかも知れない。これが魔法具なのだろう。
魔法具について、知らないわけがない。この国では生産できず、それどころか流通が厳しく統制されて、私的な流通は固く禁じられている、東方の国の産物だ。市井に出回ることもほとんどなく、高位貴族が戯れに手にすることがあるくらいで、それらにも大した魔法が込められていないと聞く。
クロエ様が魔法具の力で私を拉致したのだとしたら、確実に正規のルートで手に入るような代物ではないだろう。誇らしげにしている彼女に、嫌な予感がした。
「…………魔法具の私的な取引は禁止されていることくらい、この国の貴族ならば知らないわけがないわ」
「あら。もちろん存じていてよ?」
「そんなことをして、ただで済むと思っているのかしら」
あまり考えたくないけれど、仮に私を消したとして、その代わりにマルシアルの婚約者に収まろうというのならばあまりにも物事を甘く考え過ぎだ。国で1番権力を持つと言っても過言ではないサルディネロ家、そこに嫁ぐ令嬢に調査が入らないわけがない。今はどれだけ上手く隠していても必ず露見するだろう。
私が言わんとすることはクロエ様にも伝わったようだが、なんと彼女はくすくすと笑いだした。
「魔法具の密輸に関して、サルディネロ公爵家は何もすることができませんわ。だってわたくしたち、共犯ですもの」
ぴしゃん、と目の前に雷が落ちたかのようだった。
そうか、そうだった。私がここに捕らわれているのには、フロレンシア様も関わっているのだった。
サルディネロ公爵家が、魔法具の密輸だなんて。そんなこと、私には考えられない。考えることもできない。あの厳格なフロレンシア様と、快活な公爵様が治める家が、法に触れる?
伯爵家と組んで、密輸に手を染めて。そんなことをしたところで、何1つ公爵家のメリットが分からない。それこそ国家転覆か戦争でも起こそうとしていない限り、公爵家がこれ以上力をつけようとする理由が見つからないし、見返りに見合わぬ危険を犯すだけだ。
どれだけ考えても公爵家が共犯なわけがないとしか思えないので、クロエ様の勘違いなのではないかと思うけれど、意識を失う直前のフロレンシアの笑顔は脳裏を離れなかった。
「マルシアル様とわたくしが結ばれて、今後両家の結びつきはより強固なものとなるでしょう。あの方に益をもたらすのは、間違いなく貴女ではなくてわたくしですわ」
魔法具の密輸が余程軌道に乗っているのだろう、クロエ様の言葉は確信に満ちていた。
思い返してみれば、確かにおかしなところはあったのだ。羽振りの良くなった伯爵家が劇場を買い取ったり、伯爵家の扱う品物が東のものに変わっていたり。いくつかの変化を繋ぎ合わせれば、事前に導き出せたかも知れないのに。
私とマルシアルの遠乗り先で待ち伏せできたのだって、魔法具を使っていたのかも知れない。もしかすると、私の情報は筒抜けだったのかもとすら思う。
「益をもたらす女性がマルシアルと添うべきなら、私でも貴女でもなく、エルシーリア様のはずだわ」
まさか時期女王陛下にまで手を出しているのではあるまいな、とわざと名前を出してみた。クロエ様は少し表情を曇らせた後、ゆるりと頭を振る。
「女王陛下は良いの。いくら経済的な益があったとしても、結ばれることなどありえませんわ。あの方とマルシアル様が互いに想い合っていないのは、見ていて分かりますもの」
その口ぶりは、酷く辛そうだった。
「どれだけ彼をみてきたとお思いですの? マルシアル様の瞳は、いつだって貴女しか映しておりませんのよ」
いつもの癖で、思わず否定しそうになったが、ぐっと堪える。今ここで何を言おうと、クロエ様の神経を逆なでする気がした。
クロエ様は瞳を閉じ、夢見る声音で言葉を続けた。
「わたくしは、マルシアル様をお慕いしていますわ。マルシアル様だって、自分に必要なのは誰よりも彼を想い、両家に益をもたらすわたくしなのだと、いつか必ず気づいてくださる。…………貴女さえ、いなくなれば」
最後の一言を言い終え、クロエ様が目を開く。その瞳に射抜かれ、背筋が凍った。
これは―――とても、まずい。
「だから貴方は、やはり、殺しておかねばなりませんの」
クロエ様の瞳に、明確な殺意が宿る。逃げ出そうにも動けない私に対して右手を伸ばし、左腕を握りしめてきた。
「っあ!」
焼けつくような痛みに思わず声が出る。クロエ様は尚も私の腕を握ったまま、狂気を孕んだ瞳を細めた。
「時期女王陛下の騎士だというあの男、本当に厄介でしたわ。もっと早く、貴女に罪人の証をつけてしまおうと思っていましたのに。尽く邪魔をされましたもの」
焼き付くような痛みと感じたのは間違いではなくて、どうやら本当に火傷を負わされているようだった。痛みに顔が歪み、視界が滲む。ようやく満足したのか、クロエ様が手を離した。
思わず息を止めていたようで、大きく息を吸った。荒い息のまま左腕を見ると、赤く火傷の跡ができている。まさに、一昔前の罪人の跡そのものだった。
いつかの劇場でのやり取りを思い出す。あの時も確か、クロエ様に腕を掴まれて痛みが走り、赤い傷ができたのだ。クレト様が素早く遮ってくれたおかげで軽く済み、傷もほとんど目立たぬほどに治ったが、今度の傷はそうも行かないだろう。
クロエ様の口ぶりからして、クレト様は何度か私を助けてくれているらしい。私が狙われていることにも気づいていたのだろう。そのクレト様からは、エルシーリア様にも連絡が行っていたのではないか。だとすると、エルシーリア様もクレト様も魔法具の密輸を知っていて、放置していた? それとも、なにか手を打っていた?
―――マルシアルは、どこまで知っていたのだろう。
誰を信じて良いのか、何が起きていたのか、さっぱり分からない。痛みで頭が回らないというのもある。未だに助けはこないし、逃げ出す術もない。令嬢たちに負けないようにと努力をしてきたつもりだけれど、肝心なところで私は無力だった。
今度は両手を伸ばしてくるクロエ様を前に、ただただ恐怖で震えが止まらない。
怖い。怖い怖い怖い怖い。死にたくない。まだ何も、何もできていないのだ。何も伝えていないのだ。
「それでは、そろそろさようなら、ね」
言いたいことも詰りたいことも山ほどあるのに、恐怖で何も言葉にならない。ただガタガタと震えて、私は涙を流すのみだった。
怖い、怖い怖い。マルシアル―――!
目を閉じることもできず、涙を流しながら見開いたままの視界の先。クロエ様の背後で、私は今日2度目の眩い光をみた。