私の不本意な1日の始まり
夢を見ていた。
幼い頃の夢を。
しゃがみこんで泣いている幼い少女は、おそらく私。長い銀髪が顔を覆っているが、自分自身を他人と間違えようもない。
隣に屈んで私を慰めているのは、きっと幼いマルシアルだろう。幼い頃は、それこそいつでも一緒にいたから。
「泣かないで、リナリア」
首を横に振り、泣き続ける私を、マルシアルは根気よく慰めている。彼の手が私の頭を優しく撫でた。
それでも一向に泣き止まない。
この時の私は、一体何がこれほど悲しかったのだろうか。
「俺が……から……」
ぼんやりと、霞がかるようにして、夢の景色が遠ざかっていく。マルシアルの声も徐々に聞こえなくなっていくが、やはり私は泣き止む様子がなかった。
「…………て」
何か、何かがとても悲しくてーーー
*****
「…………て」
「…………ん……」
「起きて」
「ん……」
「リナリア、起きて」
すぐ近くで夢の中の彼の声がして、私はぼんやりと目を開けた。寝ぼけた頭でしばらくぼうっと見つめ、ようやく至近距離で自分を見つめているのがマルシアルだと認識する。
「マルシ……アル?」
「おはよう」
「おはよ……」
寝起きには、マルシアルの満面の笑みは眩し過ぎた。深い青の瞳を細め、微笑むマルシアルをぼんやりと見つめる。
背中に手を回され、上半身を抱え起こされたところで、ふと何かがおかしいことに気づいた。
待て。何故奴がここにいる。
ここは私の寝室で、マルシアルの家ではなくて、しかも自分は寝起きでーーーとまで考え、視線を下に降ろし、寝乱れたネグリジェを目にして固まった。
「ぎゃあああああああんむっ」
「ちょ、うるさいわね!」
悲鳴をあげると、すかさず口を押さえられた。じたばた暴れ、マルシアルの胸を押し返す。
もう私が叫ばないと判断したのか、マルシアルは大人しく手を離した。
「ちょっ、なっ、なんでここにいるのよ……!」
布団を胸元まで引っ張りあげ、少しでも距離を取ろうとベットの上で後退する。その様子を見て、マルシアルは意地の悪い笑みを浮かべると、じりじりとにじり寄ってきた。
「寄らないで!」
「別に、とって食べたりしないわよ」
「信用できるか!」
近くにある枕やクッションを手当り次第投げつけたが、マルシアルはそれらを楽々と避け、いっそ楽しんでいるかにも見えた。悔しい!
「どうしてここにいるの!?」
「優しい侍女さんたちが入れてくれたのよ」
「……悔しいけど、それは分かるわ」
私の侍女は、仕える相手を間違えているのではないかというくらい、マルシアルに対して従順である。
「そうじゃなくて、どうしてこんな時間にここまで押しかけてきたのかってことよ」
いくらなんでも、早朝に寝室にまでやってくるなんてこと、かつて無かった。
少し前にアデルミラ様が帰国してから、今まで以上に奴の様子がおかしいのだ。
「そんなにおかしいかしら?」
「おかしいわよ!」
「どうせ夫婦になるんだから良いじゃない」
良くないわ!
そして無駄に色気を振りまくのをやめろ!
にやりと口の端を上げて前髪をかきあげるマルシアルは、オネエ言葉であっても関係ないくらい色気がある。幼馴染で、多少は免疫がある私ですらこれなのだから、そこらのご令嬢なんて簡単に骨抜きにしてしまうことだろう。忌々しい!
きつく睨みつけるも、マルシアルはなんのその。とうとう逃げ場がなくなった私の目前まで迫ってきた。
「しばらく仕事が忙しくなるから、会えなさそうなのよ。今日もこれからすぐに行かなきゃならないし。だからその前に堪能しておこうと思って」
「堪能?」
「こういうこと」
えい、という掛け声と共にマルシアルが抱きついてきた。
可愛くも何ともないわ!
近い! 苦しい!
「はなれて!!」
「やーよ」
お前は駄々っ子か!
「ドレスは一通り手直ししたし、身の回りの物も不足はないって言ってたわね? 何かあったらすぐに連絡するのよ?」
「はいはい、分かってるわよ。だからさっさと離れて」
すり寄せてくる頭を無理やり引き剥がし、睨みつけた。マルシアルも負けじと抱きついてくる。
攻防を繰り広げていたが、しばらくして満足したのか、マルシアルがようやく体を離した。
「まあ、今日はこのくらいにしておくわ。2人きりでもないしね」
「2人きりでもない?」
どういうことだ。
マルシアルが振り返って扉に視線を向けたので、彼の肩越しに私もそちらを見やる。扉のすき間から誰かがこちらを窺っていた。
「いやだわぁ、ルシーったら。気づいていたのねぇ」
のほほんとしたこの声の主を、私はよく知っていた。扉を開けて室内に入ってきたのは、私の母のカルラである。
「カルラ様、ご無沙汰しています」
「堅苦しい挨拶はよして。お義母さまと呼んでといつも言っているでしょう?」
「では、お義母さま」
「いや、まだそうなってはいないでしょう!」
突っ込みを入れるが、お母様もマルシアルも聞いていない。和やかに談笑を始めたのを見て、私は1人ため息をついた。
この2人が話し出したら何を言っても無駄ということは、長年の経験で身についていた。
「お義母さま、覗き見ですか?」
「ふふふ。2人が仲良くしているかしらと思って。ごめんなさいね?」
「ぜひ、次はそっとしておいてくださいね」
「そうね、気を付けるわ」
いやお母様、そこは娘を守ってください。
マルシアルはベッドから起き上がると、服を整えて立ち上がった。
いつもならなんだかんだと理由をつけて居座り、追い出されるまで動かないのに、自主的に立ち上がるとは本当に予定が詰まっているのだろう。それほど忙しいのか。暫く会えないというのも、きっと本当なのだろう。
そんなことを考えながら見ていると、私の視線に気づいたマルシアルがこちらを向き、にやりと笑った。
「何、リナリア。寂しくなった?」
「ちっちがうわよ!」
「リナリアも素直じゃないわねぇ」
「お母様黙って!」
この2人と話していると、突っ込むことばかりで休む暇がないわ!
マルシアルはくすくす笑うと、お母様に挨拶を述べてから部屋を出て行った。よし、ようやく行ったか。
ふう、と息を吐いた私を、部屋に残ったお母様が不思議そうに見つめた。
「リナリア、寂しいなら寂しいって言うのも大事よ?」
「お母様、本当にそんなことないから」
「本当? わたくしがリナリアくらいの頃なんて、ヘルマンと片時も離れたくないと思ったものよ?」
ヘルマンというのは、私の父であるバルデート子爵のことだ。お父様に惚れ込み、無理やり嫁いできてしまったお母様と一緒にして欲しくはない。
私は別に、寂しかったわけではない。断じて違う。ただ、マルシアルに暫く会わなかったことなどあまり経験がないので、何ともいえない心持ちになっただけだ。幼い頃はそれこそいつも一緒、成長してからも2日に1度は顔を会わせていたのだ。
そう、初めてのことだから、なんとなく落ち着かないだけである。
「別にマルシアルと暫く会えないからって、何ともないわよ。あんなやつ」
「まあ。相変わらず酷い言い様ねぇ」
「女言葉で、女たらしで、意地が悪くて、挙げ出したらキリがないわ」
お母様は私の言葉を聞いて小さく溜息をつくと、頬に手を添えて首を傾げた。
「そんなでは、わたくしはいつになったら花嫁姿が見れるのかしらねぇ」
「そんなの分からないわ。マルシアルに聞いてよ」
婚約して十何年。
2人とも結婚適齢期を迎えたにもかかわらず、なぜか式の話が持ち上がらないのである。これは少しおかしい。マルシアルがまた何かしているのだろう、と思っている。
「ルシーに?」
「そうでしょう。花婿次第でもあるんだから」
「あらあら。何も花婿がルシーと決まっているわけじゃなくてよ?」
お母様のその言葉に、思わず体が固まった。
ーーー今、何と言った?
固まる私に微笑みかけ、お母様は更に言葉を続けた。
「別に、婚約者が変えられないわけではないもの。リナリアが、わたくしとヘルマンのように想いあえる相手に出会えたならば、ルシーとの婚約はすぐにでも解消してあげるわよ?」
「……え…………?」
「婚約が決まった時、公爵家ともそのように取り決めているのよ。もちろん、マルシアルがリナリア以外と添い遂げたいと言っても同じよ。言ってなかったかしら」
「き、聞いてないわ……」
「あらそう。では今言ったから、覚えておきなさいね?」
にこにこと笑うお母様を前に、私は開いた口が塞がらなかった。
お母様は一見おっとりとして見えるので忘れがちだが、侯爵家から子爵家へと半ば無理やり嫁いできてしまうほどの行動力と、渋るお父様を陥落させてしまうほどの強かさを持っているのである。中々に侮れない。
こんな取り決めがあることも、何か思惑があってわざと黙っていたに違いなかった。
「そんなにルシーが不満なら、誰か他の相手を見つけておいでなさい。わたくしは反対しませんわ」
ではね、と言い起き、お母様は何事もなかったかのように退室していく。
残された私は、扉が閉められた後も動くことができなかった。
ーーーマルシアル以外の、結婚相手。
そんなこと、考えたこともなかった。その事実に今更気づく。
幼い頃からいつも一緒で、物心ついたときには婚約者になっていて、今でもしょっちゅう顔を合わせている、マルシアル。
そんな彼以外の人と、私が結婚する未来?
マルシアルが花婿で、私が花嫁で。そうして式を挙げている様子ですら、はっきり言ってうまく想像ができない。だが、そうだからといって他の人でなら想像できるかと言うと、答えはもちろん否だ。
一本道だと思い込んでいた道の途中で、いきなり分かれ道が現れたとき、一体どれほどの人がすぐに左右を決断できるだろう。少なくとも、私にはできそうにもない。
突然つきつけられた選択肢を、私はしばらく現実として受け止めることができなかった。