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第2章「再会」

 女が苦しそうな顔をして、ベッドで寝ている。

 黎人も太一も激しく混乱していたが、とりあえず黎人の部屋に連れて帰った。

また、規則違反だ。

 怪我をしていないか確かめるため、着ていた白衣を脱がすと、左腕には『23』のタトゥーがあった。

 七海に酷似した容姿、囚人だという『23』のタトゥー。

 何が起こっているのか全く分からない。

 囚人をかくまうのは犯罪行為だが、七海そのものといえるようなこの女を邪慳に扱うことなど出来るはずがない。

 太一が重い口を開いた。

「どうする?」

「……」

 答えられない。とりあえず、病院に連れて行って精密検査を受けさせたいが、そうすれば当局に知れ、結果的に突き出すことになる。

この女は何者なのか。

「この娘は……七海なのか?」

「……他人でこれだけ似てたら、奇跡だけどね」

 太一の言う通りだ。

 頭が混乱する。七海は確かに特例法に倣い、殺されたはずなのに。

「まんまぁ……」

 女がかすかにうめいた。

 黎人が素早く女の側に寄り、顔を覗きこむ。

「七海?」

女は目をぱっちり開くと、棺から蘇るヴァンパイアのように起き上がり、黎人に抱きついた。

 ―――七海、なのか?

 がぶっ!

 女は感極まりかけた黎人の肩に噛みついた。犬歯がくい込み温かい血が溢れ出す。

「れーちゃん!?」

 太一も慌てて側に寄ってきたが、感染者ならもう手遅れだ。

 女はちゅ~、ちゅ~、と血を吸っている。

 黎人は身の危険よりも、女の体温に言い知れぬ懐かしさを感じた。

 ―――戻って来たのか?

 血を吸う女を優しく抱きしめていた。


 黎人は、血を吸われ少し朦朧としたものの、リーチ病の兆候は現れなかった。おそらく感染者ではないのだろう。しかし、なぜ血を吸うのか? また謎が増えたことになる。

 女といえば血を吸い終ると、満足気な表情を受かべ、再び眠りについた。

 女の寝顔は実に安らかなもので、さっきの苦しそうな表情は、お腹が減っていただけなのかもしれない。

「……気持ち良さそうに寝てるね。れーちゃんの血って……」

「何だよ」

「安眠効果」

「ねーよ」

「……言ってみただけじゃん」

 黎人達は少し気持ちの余裕が出て来た。血を吸われて安心しているのだから何ともマゾヒスティックな話だ。

 病院に連れて行くのはひとまず保留することにして、話題はタブーになっていたあの日のことに言及した。

「……れーちゃん、七海ちゃんがあの後どうなったか知ってる?」

「遺体を引き取られていったことしか知らない……何も教えてくれなかったな」

「俺もあの時は調べようがなかったんだよね。どこに運ばれたんだろう……」

 太一の顔に影が走ったような気がした。

やっぱり、まだ……。

「俺、七海ちゃんの足跡たどってみる」

 殺された後の足跡。しかし、それは……。

「いや、俺の方で調べるよ」

 こいつには大きな借りがあるのだ。太一ばかりに嫌な役目をやらせるのは気が引ける。恋人の遺体がどうなったかなんて知らない方が良いかもしれない。死体処理の仕事もほとんどが知らない人間の遺体だから平気で出来るのだ。

「いやいや、自衛隊の仲間とかいろいろ事情知ってる人いるから、俺の方が適任だと思う。それに、れーちゃんはこの娘の面倒みないと」

「……大丈夫か?」

「あれ? 俺の調査能力信じてないでしょ? 大丈夫だって」

 太一がニコッと笑う。

―――こいつには敵わないな。

 話し合いの結果、太一は調査、黎人は仮病で仕事を三日ほど休むことに決定。

 太一は「明日また来る」と名残惜しそうに部屋へ帰って行った―――。

 

 女の静かな寝息だけが聞こえている。

 気付けばもう夜になっていた。

 黎人は、予備寝具の煎餅布団を敷くとバタンと寝ころぶ。

疲れた。

意識を失うように眠りに落ちていく―――。


     *


 表情のない新しい家が立ち並ぶ―――どこか既視感のある人気のない住宅街。

真夏の日差しがアスファルトを焼き、陽炎が揺らめいている。

 黎人は大の字になって寝そべり、空を仰いでいた。

 不思議と暑さを感じない。いつもの野暮ったい作業服を着ているのに何でだろう?

「お兄ちゃん」

 この声は……。

 いつの間にか七海が足元に立っていた―――マチェットを持って。

「七海……」

 そういえば、あの最後の日と同じ服装だ。

「何で私を守ってくれなかったの?」

 七海の顔は逆光で翳っている。

「……ごめん」

 と、言いたいのに声が出ない。

 七海は、黎人の横にひざまずくとマチェットを右腕の付け根にトンっと置いた。


 振り上げ、下ろす。

 飛び散る鮮血。


 振り上げ、下ろす。振り上げ、下ろす。

七海が赤い斑模様に染まっていく。


振り上げ、下ろす。振り上げ、下ろす。振り上げ、下ろす。

右腕が胴体と別れ、ごろんと転がる。

 黎人は、それでも指一本動かせなかった。悲鳴一つあげられなかった。


 切断は続く。左腕、右足、左足……。


 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐ

ちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ……。


 黎人はダルマになってしまった。傷口から流れ出す血のおねしょがアスファルトを汚していく。

 七海が微笑んだ。

 ―――ごめん……ごめん。

 黎人の声が聞こえた。一つではない。いくつもの「ごめん」が輪唱のようにこだまし始める。

 それは切断された人体の傷口から生えた、いくつもの唇達が上げた声だった。

 青ざめた黎人をよそに、流れ出る血からも無数の唇が生え「ごめん」と謝り始める。


 ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん………………。


 多重リピートされた声は、騒音から轟音、そして激しい音の暴力になり、黎人の知覚を塗り潰していく――――――。


     *


 黎人が目を開くと、視界いっぱいに逆さの七海の顔が広がっていた。

 驚いて飛び起きる。

 ごちんっ!

 不可抗力で覗き込んでいた女の頭に頭突きしてしまった。お互いにダメージを食らい、おでこを押さえ痛がる。

 朝っぱらから慌ただしい。

 悪夢のせいで気分は最悪だったが、少し馬鹿馬鹿しくなった。


連絡隊員に仮病の連絡をした後、女にいろいろ話しかけてみたが「あ~」とか「う~」とかしか返ってこなかった。

 言葉が通じないのか? それとも、知らない?

 リアクションからすると後者の可能性が高い気がする。女から聞いた意味を持った言葉は「まんま」しかない。

 ………………。

対応に困り、TVを点けて唯一放送中の、国営放送を流すと黙って観始めた。

 タイミングが良かったのか悪かったのか、一日一時間だけ流している子供向け教育番組をやっていた。

過去の録画放送だろう。

明るいアップテンポの曲が流れてくると子供達を扇動しながら体操のお兄さんが踊り始めた。画面の中の子供達は、お兄さんの高いテンションに若干ついていけないような素振りをみせながらも、大人しく従っていた。その内、お姉さんや原色のみで造られた三頭身のキャラクターも乱入してきて、体操は大人の都合で勝手にヒートアップしていく。

 驚いたのは女のリアクションだ。

 画面の子供達よりも真面目に踊っているのだ。見ていてこっちが恥ずかしくなるような動きを真剣にやっている。

 体操が好きなのだろうか?

 もし、あの子供達の中に混じっていたら、お兄さんは狂喜していただろうというほど熱心に踊っている。

 放っておいてもよさそうだ。

 しかし、ますます女に対する謎は深まった気がする。


 ぐ~~~。


 黎人のお腹が鳴った。

そういえば、昨日の夜から何も食べていない。


 朝食を作ろう!


 黎人は、冷蔵庫を開けながら考える。

 朝食、朝食……何にしよう?

 なぜか少しウキウキした気持ちになっている。あの女の体操に刺激されたのかもしれない。

 冷蔵庫の中にはスパムと卵、それから林檎が一個ある……以上。

 さあ、何を作ろう。シンク下を覗くと、貴重品の純日本産白米がある。最近ではめっきり手に入らなくなってきた。

 調味料は、砂糖、塩、醤油……以上、ん?

 シンクの奥に何かある。手に取ってみるとホールトマトだった。

 ということは……オムライスだ!


     *


 太一は装甲バスに揺られていた。

 車体には対感染者用の装甲をほどこしているせいか、動きが重いような気がする。各土地や施設間を定期便が無料で運行している便利なバスだ。電車や飛行機が使えない今では、誰でも利用出来る唯一の移動手段で、双葉は東京から長距離装甲バスに乗って帰ってきたらしい。

 太一は窓の外を眺めている。寂れた国道沿いの景色。

 人恋しい気持ちなど既に死んだと思っていた。いや、黎人といつもいるから紛らしていたのかもしれない。

 あの女の姿が浮かんだ。囚人だと言うが自分には七海にしか見えない。


 ―――七海ちゃん……。


 七海と出会ったのは黎人の家に出入りするようになってからだ。高校に入り、黎人と出会った。同じクラスで同じ帰宅部で同じ帰りの電車。よく顔を合わせるので自然と話すようになり、意外と気が合うことが分かると遊ぶようになった。

 そして、初めて家に遊びに行った時に、七海と出会ったのだ。

 一目惚れ。

 それからはますます黎人と仲良くなった。だって、将来『お兄さん』なんて呼ぶかもしれないのだから。

 何度か遊びに行くうちに七海とも少しずつ仲良くなり、満を持して告白した。

 一瞬、凍りついたような空気になった時は、そのまま二階の窓から飛び降りようかと思ったほどだ。『考えさせてください』と保留の返事後、黎人に相談したらしい。これは黎人から聞いた話だ。その後、『友達から』という無難なOKの返事をいただいた。どうも、黎人のテコ入れがあったらしいが、詳しくは知らない。本当に仲の良い兄妹だと思った。時期的に黎人が双葉と付き合いだした頃だから、その影響もあるかもしれない。こんなことを言っていた。

「お兄ちゃんは双葉さんみたいなのが好きなんだね」

 少し、拗ねたような言い方だった。それでも、黎人が双葉をフって、家族のために働くことを決めた時には、こんなことを言っていた。

「お兄ちゃんは自分さえ我慢すればいいと思ってる。そんなの間違ってるよ!」

 おさまらない七海は続けて言った。

「ねぇ、太一さん。お兄ちゃんは不器用なんだよ。でも、太一さんと私だけは見捨てないでそばにいよう」

 確かにそうかもしれない。自分も勉強が嫌なのと、兄弟が多く、家が貧しいことから自衛隊に入った。自衛隊の官舎生活は衣食住にお金がかからないので、仕送りが出来た。そして、たまの休暇に配属先の静岡県浜牧から西ノ関にいる七海に会いに来ていた。遠距離恋愛で繋がっていたのだ。黎人も双葉と別れる必要はなかったのかもしれない。黎人は確かに考えすぎで、自分を苦しめるところがある。

「うん、分かった」と言うと、

「約束だよ」

 と、七海は泣きそうな目をしていた。


 その七海は結局死んでしまった。

 それから廃人のようになっていく黎人を、決して温かい気持ちで支えてたわけじゃない。

 ―――俺だって辛いのに……。

 いっそ見捨ててやろうかと思ったこともある。

 でも、黎人は一人ぼっちだった。

 それに『約束』だけは(たが)えるわけにはいかない。


 思いに沈んでいると目的の麻月基地が見えてきた。今から最終便までの時間、聞き込みをする。

 でも、その前に……。

 太一は情けない目頭を拭った。


     *


 座卓に湯気を立てたオムライス2つが並んでいる。

 本当はふわふわ半熟にしたかったが、フライパンのテフロンが痛んでいるので、素直に卵で包むバージョンにした。

 ―――七海はオムライスが好きだった。

 女はじっと目の前のオムライスを凝視している。

 黎人もスプーンを持ったまま、女の様子を窺っていた。

なかなか食べない。血の方が良いだろうか?

 黎人は手本を見せるようにゆっくりとスプーンを動かし、一口分すくい取って食べる。

 女が反応して、オムライス横に置かれたスプーンを持ち動作を真似し始めた。

 そうだ、そうだ、と黎人は頷いてみせる。

 女は、そ~~~っと、オムライスにスプーンを入れ……。

 ―――その調子だ!

 女は、そ~~~っと、少し揺れながら一口分を口に運び……。

 ―――落とすな! そのまま口に!

 パクッ。

 女が口に含んでもぐもぐ噛む……と、花が開いたように表情が輝き、咀嚼のスピードが加

速―――白黒映画に出てくる喜劇役者のように二口目、三口目……あっとう間に飲み込んでい

った。皿がひっくり返るのではと心配するほどの勢い。しかし、ここまで美味そうに食べて

らえると嫌な気はしない。

 黎人も少しにやけながら、オムライスを口に運ぶ。


 夜になると、太一がやってきた。

「これは予想してなかったな」

 そりゃ、そうだろう。

 女は黎人の膝に乗っかり、林檎で遊んでいた。デザートに林檎を切ろうと冷蔵庫から取り出したところで取られたのだ。それからは黎人にじゃれつきながら、ずっと林檎を転がしたり、見つめたりして遊んでいる。赤ちゃんのようだ。

 太一は座りながら苦笑した。

「元気そうだね」

「困るぐらいね」

「う~ぁ~」

 黎人の返事に女がかぶせてくる。

「れーちゃん、気をつけてね。居住区内でも囚人『23』の話、噂になってるから」

 ロクな娯楽もない居住区の生活では噂がよく流行る。

 続けて、太一は調べてきたことを切り出した。

「それから、遺体の件だけど……」

 きた。黎人は知らず、女を腕の中にかばった。

「特例法で殺された遺体は、最寄りのリーチバクテリア研究所に搬送されてるんじゃないかって噂があるみたい。そこから先は誰も知らなかったけど」

「……その研究所って、ワクチンの研究してるとこだよな?」

「表向きは。でも、隊員間でもいろいろ言われてるんだよね。研究所って全国にかなりの数あるでしょ? ワクチン作るだけならあそこまではいらないはずだし、怪しい実験でもやってるんじゃないかって」

「怪しい実験……」

「もう少し調べてみるよ。献体運搬員やってる隊員で、内部のことに詳しい人がいるらしいから、明日その人に会ってくる」

 献体運搬員とは、研究用に感染者を捕まえて研究所に運ぶ隊員のことだ。黎人達がやっている清掃より危険がともなう作業で、レンジャー部隊出身などの精鋭が選ばれることが多い。献体運搬員ならよく出入りしているから情報も入ってくるかもしれない。

「……有難う、太一」

「いや……」

 黎人は、感謝と申し訳なさが胸中に入り混じった。

「あ~、い~~~、あぁ」

 人の気も知らず女は無邪気そのもの。

 黎人達は、この女のために危ない橋を渡っている自分達のことを、考えないわけにもいかない。かくまっていることがバレたら、どうなってしまうのだろう?

 女をじっと見ていた太一がふいに漏らした。

「その娘さぁ~、何て呼んだらいいかな?」

「そりゃ……七海? いや、どうなんだろう」

「もしかしたら、七海ちゃんじゃないかも」

「……」

 変に期待すると後で後悔するかもしれない。

「とりあえず、はっきりしたことが分かるまでは『リンゴ』ちゃんってことにしない?」

「……お前、今、超適当に決めただろ」

「いいじゃん、暫定的な名前なんだから」

「暫定って……」

何とか系自作自演屋だという触れ込みの歌手にそんな名前がいた気が……そうだ、香椎リンゴ! いいのか?

「もし、奇跡だけど七海ちゃんだって分かったら、その時はさ……」

 太一の目が少し潤んだように見えた。

 そうか……太一も期待することが恐いのだ。期待した分だけ裏切られた時に傷つくから。確かに今はまだ『リンゴ』にしておいた方が良いかもしれない。

 ―――その夜はそれでお開きになった。


 黎人は、いつまでも林檎で遊ぶ『リンゴ』を寝かしつけようとした時、我慢できずに重大な決心をする。

 ―――臭いっ!!

 この女、いや、リンゴは風呂に入っていたのだろうか? 夏場ということもあり黎人も夜には多少汗臭くなっていたがその比ではない。

 リンゴは林檎を頭の上に乗せ、ゆらゆらとバランスを取っている。

 黎人はリンゴの前に行き、鼻をつまんでみせた。

 無反応―――ポカンだ。

「腐ったリンゴになるぞ!」

「あぃ?」

 仕方ない。この様子では一人で風呂には入れないだろう。

実に気は進まなかったがリンゴを風呂に入れることにした。


 黎人は目を逸らしたまま、悪戦苦闘してリンゴの囚人服を脱がしていく。暴れなかったので良かったが、手の感覚だけで脱がすのは一苦労だ。いっそ得意の感覚世界を発動しようかと思ったが、力の使い方が違う気がしたので止めておいた。

 リンゴをお姫様抱っこで抱えながら風呂に入る。湯気がしっとりと漂い、ヒーリンググリーンのソープ香が鼻孔に満ちた。

 よいしょっ!

 用意しておいた泡風呂にリンゴを放りこむと、ざぶんと湯の波紋が盛り上がり浴槽からはみ出した。

「う~いぁ、あ、あ、あ」

 リンゴはぱちゃぱちゃと音を立てて湯で遊び始める。

 ―――やれやれ。

 黎人は、ボディタオルを湯船に突っ込むと、リンゴの体を擦っていく。頭の中には念仏のように同じフレーズがリフレインしていた。

 ―――これは大仏、これは大仏、これは大仏……。

 囚人服の下に隠れていたのは紛れもない成人女性の体だ。しかも、中々のプロポーションの持ち主であることが手の感覚から伝わってきた。

 豊満な胸。くびれた腰。形の良い尻。すらりとした手足……。

 七海は妹ということで意識していなかったが……うむ。

 リンゴに浴場で欲情しそうになる。くだらないギャグが今は有り難い。これは大仏、これは大仏、これは大仏……。

 リンゴはヒトの気も知らず、楽しそうに「きゃっきゃ」と声を立て始めた。

 ―――え~い、クソッタレ!

 シャンプーを乱暴に掴むと、リンゴの長髪にぶちまける。

 ぴゅっ、ぴゅっ、ぴゅっ。

 黎人は、水晶占い師の手つきを早送りにしたような動きで、リンゴの髪に泡を立ていく。

 きゃっきゃっきゃっきゃっきゃ。きゃっきゃっきゃっきゃっきゃ。

 ―――猿がぁ!

 リンゴのエスカレートする嬌声に刺激され、黎人はますます過熱していった。


     *


 麻月航空基地。海に面した位置にあるこの航空基地は、海上自衛隊の飛行場だ。現在基地内では、自衛隊員、役人、囚人、他様々な人間が基地内で暮らしている。隊舎だけでは全ての人間を収容できず、敷地内にはたくさんの仮設住宅が建てられている。簡素な仮設住宅の屋根にはソーラーパネルが付いており、堤防付近に並んでいる光景は一種独特だ。

 太一は一軒の仮設住宅を訪れていた。

コンコンと戸をノックする。

 ごそごそと冬眠明けの熊が起きだしてきたかのような音がして戸が開く。隙間から顔を覗かせたのは無精髭を生やして、視線だけで人を殺せそうな牧本篤志だった。

 太一は居住まいを正し敬礼をする。

 牧本は反応せず、じっとりと太一を見定めている。

「風間3曹といいます。牧本さんにお話し伺いたいことがありましてお邪魔しました」

「何の話だ?」

「研究所のことで……」

 牧本が眉根を寄せた。

「お前、警務隊か?」

「いえ、違います」

 太一は焦って否定する。確かに出し抜けに用件を切り出したのはまずかったかもしれない。しかし、「お茶でもしませんか?」というのもおかしな話だろう。

「……まぁ、どっちでもいいが……何だ?」

 牧本の言葉は鉄のように硬かった。

「……奥さん、特例法で亡くされましたよね? 僕も大事な人を特例法で亡くしたんです」

 太一は口に出すと胸がチクリと痛んだ。分かっているはずなのに。

 牧本はしばらく太一の目を覗き込むと、ぶっきらぼうに言った。

「上がれ」


 部屋に上がると女性ものの服や小物が、所狭しと部屋を占拠していた。

年季の入った小箪笥の上には、亡妻と思しき女性とのツーショット写真が立てかけてある。優しそうな美人だ。

 牧本はどっかと胡坐をかいた。

「で、何がききたいんだ?」

 太一も座り答える。

「特例法で殺された遺体は研究所に運ばれるとききました。本当ですか?」

「ああ」

「その後どうなるんでしょうか?」

「……知ってどうする?」

「分かりません……でも、たとえ遺体でもどうなったのか知りたいと思うのはおかしいでしょうか?」

「いや、当然だ……吸うか?」

 牧本がマルポロとステンレスの灰皿を出してきた。

「いただきます」

 少し、警戒が解けたかもしれない。

 二人はマルポロに火を点けると無言で吸い始めた。


 紫煙が天井に消えていく。

牧本がマルポロを灰皿に押し付け、話を再開させた。

「遺体が運ばれた後、どうなるか詳しい情報は知らない。俺が知ってるのは研究は全て地下施設で行われてるってことと、そこに移送された可能性が高いってことだ」

「……献体になるんでしょうか?」

「さぁな。でも、研究者は特例法で殺された遺体のことを半感染体と言って区別してる。頭を撃たれた時にリーチバクテリアの動きが止まるからな。侵されていない細胞と侵された細胞の二つを持ってるその半感染体は、感染してからタイミングが良くないと手に入らないものだから重宝されているらしい」

 重宝?

「その半感染体で特別な実験でもするんですか?」

「研究に関しては俺も知らん。地下の研究は極秘扱いで自衛隊でも一部のお偉方しか内容を知らないしな。噂話ぐらいのことは俺も耳にするが、研究に関係ないことばかりだ」

「献体運搬員は中に入れないんですか?」

「俺達の仕事は、拘束具付けた感染者を研究所の地上階で渡したら終わりだ。地下には入れん」

「そうですか……」

 何かリンゴに繋がるような決定的な情報はないのだろうか?

「……あと一つ、研究と関係あるのか分からんが」

 牧本は思い出しながら続けた。

「ここの基地司令補佐やってた男と親しかったんだが、ある日行方をくらませた。内部事情知ってな」

「内部事情?」

「そいつが基地司令と研究所の視察に行った後、『この国はどさくさに紛れて戦争する気だ』とか言ってたな。詳しくは話してくれなかったが」

「その人とはもう連絡取れないんですか?」

 何か知っているならきき出したいところだが……。

「取れないな。風の便りで八博に身を寄せたとかきいたが……」

 八博駅の非政府居住区だ。

―――太一の脳内をあらゆる情報が駆け巡る。

 死んだ七海。現れたうり二つの娘。半感染体。地下で行われる極秘の研究。戦争……。

 そして、ある仮説が閃いた―――。

「……クローン」

 そのまま口をついて出てしまった。

「お前、何か知ってるのか?」

 牧本は太一の意表をついたつぶやきに不審を露わにする。

「……いえ」

 牧本は太一の肩を掴み、食らいついてきた。

「何でもいい、知ってることがあるなら教えてくれ!」

 先ほどの憮然とした表情がうって変り、必至さがにじんでいる。

 太一はその勢いに怯みながら思った。

 ―――奥さんの服を捨てずに、この狭い部屋いっぱいにしているのは、牧本の心そのものかもしれない。迂闊なことは言わない方が良い。

「俺も確かなことは何も知らないんです」

 太一は牧本の手を外すと、

「すいません、また調べてから来ます」

 逃げるように玄関に向かう。

「待ってくれ!」

 太一は縋り付くような牧本を振り切り、仮設住宅を走って飛び出した。

「ハァ……ハァ、ハッ……ハァ……」

 逃げてしまった。

しかし……。

 息を上げ走りながら、太一は考えた。

 クローンという可能性を牧本に話したらどうなるのか?

 愛する人は死んだ。でも、その一部が形を成し、愛する人と同じ容姿で生きているかもしれない。

 それは、愛する人であり、そうではないということでもある。

 狂おしいまでに亡き妻を想い続けている牧本は傷つくのか? 希望を持つのか?

 しかし、牧本は何であれ知りたいのではないだろうか? いや、クローン自体まだ想像の域を出ない。それに、牧本の妻がクローンとして蘇ったのか分からない―――思考は取り留めもなく混乱していった。


     *


 リンゴが林檎を見ている。

 黎人は、リンゴの目の前に林檎をかざし『林檎』という言葉をリンゴに教えようとしていた。

 頭の中がりんごに支配されそうだ!

 実のところ、黎人は劣情を遠ざけたくて必死になっている。

青いハーフパンツにベージュのコットンTシャツ。昨日の風呂上りになんとか着せたが、思いのほか胸が大きくシンプルな部屋着なのに艶めかしい。昨日の風呂での悪戦苦闘から妙に異性として意識しそうで恐ろしかった。顔は七海なのに……。

 いやいや、集中しよう!

 黎人は林檎を指差しゆっくりと発音する。

「りーんーご」

 リンゴはたどたどしく繰り返した。

「い、いーんーごぉ?」

 決して淫語を教えている訳ではない。

「違う。り・ん・ご」

「り……ん……ご」

 黎人は、リンゴの頭をよしよしと撫でる。犬の調教法だ。

 リンゴは頭に両手を置いて無邪気に喜んでいる。単純な奴めっ!

今度はリンゴを指差し、

「リンゴ」

「りんご」

「そう」

黎人がまた頭を撫でる。

リンゴは目をいっぱいに開くと、何かが弾けた。

「りんご! りんご! りんご! りんご!……」とリンゴが嬉しそうに何度も唱えながらはしゃぎ始めた。次第に調子に乗り始め、座卓の上に乗ると、無茶苦茶に手足を振り上げながら即興ダンスを踊り始めた。たぬきの霊でも呼んでいるのだろうか?

 ピンポーン。

 玄関のチャイム音が鳴った。どうやら人を呼んだらしい。

 黎人は、リンゴにしーっと人差し指を立てて静かにさせる。

 リンゴは動きを止め、顔には『?』が浮かんだ。

しばらくそのままでいてくれ!

 黎人は玄関に向かい、ドアを挟んで話しかける。

「どちら様でしょうか?」

「双葉です」

 心臓が飛び出す……かと思った。

「……どうしたの?」

「黎人くん、夏風邪だってきいたから」

「あぁ……」

 こんな情報まで筒抜けとは、やはり人の噂は油断ならない。

 黎人はわざとらしく咳をする。

「ごほ、ごほっ!」

「大丈夫?」

「うん、寝てれば大丈夫だと思うから。ごほ、ごっ!?」

 リンゴが腰に抱きついてきた。

「あ~、あ~、い~?」

 分からん。何か話しかけられてる気がするが……。

「黎人くん? どうしたの?」

 まずい。双葉が心配し始めた。

 黎人はリンゴの口をふさぐ。

「いや~、調子悪くて……ごほごほっ、ごめん」

「……一人で大丈夫?」

 黎人はフラグが立ちそうな予感がした。

でも、今は絶対にダメ!

「大丈夫、ごほごほっ、なんとか」

「実はお雑炊作って来たんだ……食欲ない?」

 黎人は、優しい双葉の心遣いに胸が痛んだ。

「ちょっと……今は……」

 リンゴが手の中でもごもご言いながら抵抗を始めた。

「ぅ…ぁっ……ぁぃ」

 黎人は力づくで必死に抑える。

「……黎人くん?」

「ごめん、ほんとに調子悪くて、ごほっ……ごめん」

「……私こそごめん、調子悪いのに……お雑炊渡したら帰るよ」

「え!? いや……ごほごほっ。もしかしたら、うつすかもしれないから……ごほっ……いいよ」

「……」

 沈黙。

 完全に俺が悪い。

「……ここに置いてく。ごめんね」

 鍋を置く音―――走り去る足音……。

行ってしまった。

「あ~、あ~、い~? あ~!」

 お前のせいだよ!

 黎人が細くドアを開けると、ちょこんとアルミの鍋が置いてある。

 手に持つと涙が出そうになった。


 結局、黎人は胸いっぱいで雑炊が食べられず、リンゴが美味しくいただいた。


 ―――夜。

 リンゴがベッドですやすやと寝息を立てている。最近、ベッドがずっと占領されている気がするのは気のせいだろうか?

リンゴの寝顔を見ながら、黎人はつらつらと考えた。

 双葉の一途な気持ちはなぜなんだろう?

 それとも、俺が勘違いしているだけか?

その場合、双葉はすごく良い人ということになる。

それも間違ってはいないだろうが……。

 ………………。

 思えば、いつも何かを選択して、何かを犠牲にしてきた気がする。

 今回も―――。

 お尋ね者のリンゴと一緒にいれば、双葉と一緒にいることなんか出来ない。

 双葉と一緒にいたければ、リンゴを捨てなければならない。

 俺自身はどうしたいのだろう?

 いや、どうしたい以前に、リンゴを捨てたらリンゴはどうなる?

 そもそも、リンゴは何者なんだ?

 早く知りたい。リンゴは七海なのか?

「れーちゃん」

「おわっ!」

 黎人の背筋がぞわっとして振り向くと、いつの間にか太一がいた。手には缶詰やら瓶詰の野菜やらがパンパンに詰まったビニール袋を持っている。外に出られない黎人のために配給食を持って来てくれたのだ。

「玄関、ノックぐらいしろよ」

「したよ。全然反応無いし」

 太一はビニール袋をどさっと置いてべったりと座り込んだ。声が明らかに疲れている。

「……何かあったか?」

「うん……いやっ……」

「どっちだよ」

「……」

「あるんだろ」

「……ちょっと」

「ちょっとって?」

「思いついただけの話だからさ」

「分かんないから、はっきり言えよ」

 太一はたっぷりと間を取って言った。

「……もし、リンゴちゃんが七海ちゃんのクローンだったらどうする?」

 クローン……。

 しかし、太一は疑念も抑えきれない。

「でも、あの日から3年ぐらいしか経ってないのにリンゴちゃんは七海ちゃんと同じ成人に……いや、クローンだったら死んだ年齢まですぐになるのかな……」

 黎人達はクローンに関して詳しくない。

「根拠はあるのか?」

「いや、今日聞いた話で思いついただけだから。気にしないで」

 と、言いつつ太一の表情はそうは言っていない。

 その後、牧本との話を聞いた―――情報を総合すると確かに仮説としては成り立つ。

 太一は最後に付け加えた。

「まだ、確かなことは何も分からないんだから、ね」

「……そうだな」

 と、言いつつも黎人の視線は彷徨った。


     *


 曇っている。雨の予感をはらむ灰色の空。

最新型73式大型トラックが西ノ関体育館の敷地に停まっていた。

 西ノ関体育館は、大会やイベントなどはもちろん、いろいろな球技の練習場としても利用されていた市内最大の体育館だった。現在では人気がなく、ひっそりとして往年の賑わいが想像出来ない。

 体育館の正面玄関前では初老の一等海佐が『休め』の姿勢で立っていた。

白い制服の胸には色鮮やかな勲章の山が誇り高く、険しい表情は何者も寄せ付けないかのような威厳に満ちている。現麻月基地司令に先月就任したばかりだ。表情は役職を意識してのものかもしれない。その背後には、配下の自衛隊員が一個小隊ほど050式小銃を構えて、周辺を警戒している。

「いやー、暑いですねー」

 ベロベロキャンディをくわえた園田がやって来た。オリーブドラブ色の作業服を着た『6』と『11』と『18』がSPのように園田に付いている。

 ナンバーズと言われる最強のクローン兵士達だ。

 一等海佐はナンバーズ達に目を走らせた。

 『6』は2メートルを超す長身の男で、体は細く引き締まっている。スキンヘッドの容姿は古典映画の吸血鬼を彷彿とさせる。

 『11』は『6』よりもさらに背が高い筋骨隆々の巨漢。角刈りで軍人らしい顔つきの中には酷薄さが漂っている。

 『18』は170センチ余りの女だ。紅一点で表情に乏しいがセミロングで清潔感のある容貌は美人といえる顔かもしれない。

 ―――得体の知れない奴らだ。まぁ……。

 一等海佐は、園田を見た。ベロベロキャンディを口の中でぐるぐる回している。

 ―――こいつが一番得体が知れないのだが。

 一等海佐は、暢気な園田に怒鳴りつけたい衝動を抑えながらきいた。

「準備は?」

「ええ、ばっちりでございますよ」

 園田は、変な日本語で答えると正面玄関を勢いよく開けた。

 ムアッと血生臭い熱気が流れ出て、一斉に振り向く音がした。

 じっとりと暗く湿った体育館の中では、五十人は軽く超しているだろう数のリーチ病感染者が、こちらに視線を向けている。

 一等海佐は、体の芯が抜けていくような錯覚を覚えた。

 ―――本当に大丈夫なのか?

 一等海佐は頭の中で逃げる場合のシュミレーションを始めていた。

 感染者達は闖入者を不審げに睨みながらぞろぞろと歩き始める―――向かってくる!

「そんじゃあ、いってみましょう!」

 園田がベロベロキャンディーで指揮者のフィニッシュを真似て合図すると、控えていたナンバーズ達が館内に入っていく。

 精鋭3人の実力テストだ。

 『6』と『18』は、奥に進んでいき、『11』は園田達を守るため入口近くに陣取る。

 一等海佐が素朴な疑問を口にする。

「あんな装備で戦えるのかね?」

 『6』は右手にコンバットナイフ1本、『18』は両手にコンバットナイフ。『11』に至っては空手だ。

 園田はケケケと笑うと断言した。

「これは戦闘ではありません。遊びです」

 一等海佐は眉をひそめる。

この男はふざけすぎだ。

 しかし―――。


 園田の表現は冗談の類ではなかったのかもしれない。


 既に目の前では『6』と『18』が麦畑で戯れる子供のように感染者の束を薙ぎ倒していく。

おもしろいように生首が宙を舞う。

 『11』は、襲い掛かるためか、逃げるためか……入口に殺到する感染者の首を工場のライン作業ばりにもいでいく。

 絶叫がこだまし、セパレートになった首と体が落下して床は揺れ、鮮血が館内を生暖かくしていく。


 ―――一分ほどが経過した。

 ショーの開幕と同時に始まった恐慌、雄叫び、断末魔のコンサートは終わっていた。

 申し訳程度の返り血を浴びた三人の兵士に表情はなく、次の命令を待つように微動だにせず立っている。


「これなら全国大会開いても、なかなかの成績出せるかもしれませんね」

 園田は上ずった声でまくし立てた。

 殺しの全国大会などない。海外での試合は組めるかもしれないがそれには国の決断が必要だ。

しかし―――確かに人の形をしたこの人造兵器は世界情勢を変える可能性がある。米国との協調路線から発生した、イスラム過激派組織や北の国、その他潜在する様々な不穏分子との緊張状態を打開する政治のカードになり得る。米国も期待しているこの『戦略級兵士量産計画』は、未曾有の生物災害で国力を失った日本が、国際社会で生き残るための外交手段なのかもしれない。

 一等海佐は、制服の下を汗みどろにしながら、基地司令である意地から顔にだけは汗をかかなかった。


     *


 しのつく雨音がうるさい。久しぶりの雨だ。

 黎人の部屋にはじめじめとした陰気な空気が立ち込めていた。薄暗い室内の窓からは、灰色の空がのぞいている。

無言の抗議なのか、リンゴは床を転がっている。ひたすらグルグルと転がっては戻り、転がっては戻り……。

楽しいのだろうか?

 両膝を抱え、自分を守るように座っている黎人は、リンゴをぼんやりと眺めていた。

 リンゴはクローンなのか?

 クローンなら俺はどうすればいい?

 かくまうのは犯罪だよな。

 警務隊に突き出さなきゃいけないのだろうか。

 七海は帰ってこないのか?……リンゴは……。

 双葉との一件も有り恨めしい気持ちになっていたのかもしれない。

 リンゴは難しい顔をしている黎人に近寄ってきた。

「何だよ?」

 黎人は不機嫌だ。


ナデナデ。

 リンゴは黎人の頭を撫でた。


 ナデナデ。

 ―――――――――。


 あっ。

 黎人は自分の頬が濡れていることに気付いた。

 次々と涙が溢れてくる。

 黎人は揺れる胸の内を見透かされたような気がした。

思わず、リンゴをきつく抱きしめる。

「何で頭なんか撫でるんだよ。俺はお前のこと……」

 一瞬でも、リンゴを裏切ろうとした自分がどうしようもない卑怯者に思えた。

 ごめん、ごめん……。


 チリッ。


 黎人はビクッと窓側へ視線を向け固まる。

 鋭敏になっていた感覚が何かの気配を捕えた。

 窓の外だ。

 黎人は、涙を拭うと窓際に行き、バルコニーの向こうへ視線を走らせる。

 そこには―――誰もいない。 

 気のせいか?

 油断していた。外からリンゴを誰かが見たかもしれない……いや、考えすぎか?

 カーテンを閉めると、明日からのことを考えた。

 明日からは仕事に行かなければならない。いつまでも休める仕事ではないし、目を付けられると面倒だ。以前、仮病を使っていた他の作業員が、連絡隊員の抜き打ちの見舞いでバレたことがある。部屋の戸締りをしっかりとして出なければならない……。

 リンゴが背中に抱きついてきた。

 黎人が腕の中で振り向くとにっこりとほほ笑んだ。

 また涙腺が緩みそうな黎人は心の中で誓う。

 ―――絶対に守らなくちゃならない。




 しかし―――リンゴは消えた。


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